先祖の祟りはありません(笑)
一見そんな感じにも観えるこの世の現象はあるようですけれど、基本は先祖が祟るということはないです
と同様に、ご先祖様が霊格が高く、守ってくださる…というのも、厳密にはそうではない(笑)ところもあるのですが、
まぁ、でも、わかりやすい表現として、それが日本人にしっくりくるので、それでいいんじゃないだろうかと思います
肉体の先祖というのは、実際に肉体レベルのDNAを受け継いできている霊線でのつながりがあることはあるので、まる無視することはもちろんできないですけれど
あなたの人生を決める決定的要因が、そこだけにあるというわけではありませんので
(人間存在は、「その人が生まれた家系を連綿と継続させていくこと」だけに意味や意図があるわけではないということ)


ご先祖の最終神エネルギー系が遠津御祖神ということで
ここと繋がったご先祖があなたを守る、というよりも、結局「ご先祖の支援」というのは、高度なご先祖になっていくほど、今ここを生きる「あなたが最大限、あなたの目的(高次の)をはたすべく生きる流れ」のほうを支援します
なのでまぁ、肉体レベルで「がんばって家を家系を存続してくれ」というような「私的レベルの欲」などよりも、もっと神的視点において、全体像を俯瞰したところで、貴方様がよりこの世において、存在意義があるような状態とでもいうのでしょうか
そういうご加勢のしかたをします
(これをわかりやすく言うのが「公的」であること、世のため人のため的な、まぁそれですね手短に言えば。ただこれも「へんにわかりやすいありかた」というのがあって(人に称賛されるとか誰の目から見ても慈善とか)それを単に目的としてしまうと、道に外れます(笑)というか外れやすくなりますので。要注意です。そして「人のためだから」とやってしまうのが「押し付け」なのですが、これもNG。「高次がやらないこと」はやらないほうがいいというか(笑)結局、高次のあり方がこちらが生きる参考にはなるわけですよ)
高次のあなたとの諍い(笑)がそこで起こるであろうはずもなく
なので、たとえば「先祖が自分の邪魔をする」のような現象があるのであれば
その体験を通じて、あなたが獲得していく経験値とでもいうのでしょうか
そのために、ある場合もあるのかな、ということでしょうか
そういうものは、いわば、「生きているこちらのための、体験」それが時に、否応のない試練と感じられてしまうようなことも、まぁまぁ、けっこうあるといえばあるので(笑)むか~しからスピリチュアルの世界では、日本独特の「先祖供養しましょう」があるのだろうと思います


なんで先祖が大事かというと
生きたホトケである(笑)親が実際にあなたの先祖であり
いちばんわかりやすい先祖ですよね
必ず、2名の男女から、生まれてきていることは、もう否応ない紛れもない事実ですから
(それがどんないきさつであれ、ですよ)
なので親というのは大事なのです
人の親となった方は、「いずれ誰かの先祖ともなる」のは確定事項
そのあなた様じたいが、神的高次的生き方であることは、まぁまぁそこそこ大事でもあるわけです
そういう意味で、「先祖から、期待はされている」場合もあるかもしれません
この世的には一見、人並みよりも苦労が多い立場に立たされたり、カンタンではない場合もあったりはしますが、苦労はあるんだけど「イケてしまう」ような。
むしろその苦労があったからこそ、その経験があったから功を奏すような。
そういう経験は多いかもしれません。
そういう時に「ご先祖さまが守ってくれた」という表現はするかもしれません。
そして、そういう人は「流れ」がよくなっていきます。
自分の人生を誰かのせいに(先祖のせいなどに)しない、そして、誰かに(先祖に)依存しない(これも大事です)、それだけですでに、あなた自身が高次につながる二人三脚を始めることが可能となり…結果的に、それが実際は「最速の」先祖供養(笑)だったりするのです。


あなたをご先祖様が守るのだとしたら
それはいったい何のためなのか
守ってくださいというよりは、守られるのだとしたら、いったいなんで守られなくてはならないのが「私」なのか
昔子供の頃は、よくこういうことを考える(笑)子供でしたw
(可愛げないですよね…だから実際可愛がられなかったんですけどw)
また、そういう目線でオトナを観るのでw 嫌なガキだったかも^^
「感謝」と言いながら、何を感謝しているのか、に対して、やらしい目線持っていたかもしれません
肌感覚で、「人が、我慢をしているエネルギー」というのでしょうか(笑)
我慢でいやいややってるかもしれない部分、それを感謝などの言葉で綺麗に表面上繕っているオトナって多いんだよな、という感じ
それって、子供には、わかるのです
「なんでオトナは自分の好きなこと、楽しいことを犠牲にするのだろう」というふうにも(笑)観えてもいましたが、オトナになってみると、「嫌で神社参りしている人っていない」こともわかるので(笑)ある程度大人になってみると、わりとそういった御神業は楽しいのかもしれないんだな、とわかるようになりました
(そういう、本当にご神事が「好きな」方に神職等々はお願いしたいですね)
そして「神社に子供はほとんど来ていない」というのも、「必要ないから(大人よりも穢れが少ないから)」という気もします^^。


昔、うちの父が生きていた頃に、故意にしていた、宗教関係での知り合いのおじいさんがお亡くなりになられてから、しばらくして、なんか、父の夢の中にその方が出てきてそうで
おじいさん曰く「愛ちゃん(私)が、今その家の中で、いちばんやっていることが、随神の道だよ」と教えられたそうで
(これを、父は私に言うのではなく、母にこそっと話していたのですが、たまたま私はその「こそっと話しているのを耳にして」知りました)
父にしてみれば「なんであいつが」だったのかもしれませんが(笑)
そして私も「なんで私が…」と、「落胆」したのですが(笑)。
なんで落胆なのかというと、当時の自分の意識では、「すごく業が深い家に自分は生まれてきたんじゃないか」というw 神妙な悲しい精神状態はありつつも、「そんな家に生まれてきた自分を悲しむのではなく運命と受け入れ、その意味を考えるしかない」みたいな感じだったんですよ…
「なんのために人間は生きているのか」について模索中でしたが、「自己犠牲感」はなんとなく祓われていってる時期ではありました。
「受け入れて進む、目の前のことをあれこれ考えず、ただやる」的心境、そんな時期が、バカっぽい20代のいっときにも(笑)あったことはあったのです^^
(当時は、スピブームとか以前ですので、当然「使命」だの「ブループリント」だのの話は、存じ上げませんでしたよ。)
追記:
思い出したわ(笑)
その時期にはね、要するに、「家族のため、親のためなんだよな…」っていうことを、「相手には黙ってやる」ということをしていたんですよ。
これを恩着せがましく、あんたらのためなんだよ! 犠牲になってやってやってるんだよ! と言ってしまうと、オシマイなんです(笑)。
黙って、自分が、これをやると決めたことをやる。
ということが、大事みたいです。
…ということを、なんとなく高次ガイドに、思い出させられたので、追記。
宗教行事というか、御神事というか、そういった決まりごとを抜かりなくし続ける…
そういった毎日の行を自分に課して続けていくというのも大事なのですが
それによって、それをやっている人間、その本人自身が、実感としてほんとうに祓われていくことが、もっとも大事で、
そうでなければ、やっていることは「形骸化」
そして、やっていること続けていることを、その人は「免罪符」のように思い始めてしまいます
お盆も(笑)そうかなということです
うちはちゃんと墓参りしている、先祖供養している、とかそういうことじゃないのですよ
ということを、昔その「父がこそっと母に告げていた」お話、亡くなった知り合いのおじいさんが教えてくれたんだな、って、のちに思いました
人間は「毎日が御神業」なのですけれど「ほんとうにそう思ってる?」ということかなと思います(笑)
(そのおじいさんは生前、息子さんが早死し(30代で子供3人残して)要するに、自分の子と自分の孫3人という、2代ぶん育てた、2代ぶんの親、親代わりを勤め上げて、大往生…という感じの方でした。「人の親を2回やる人生」そんな感じでしたけど。孫全員大学に行かせて家も建ててあげてみたいな(笑)息子の嫁さんも実家へ戻らず再婚もせず、跡次いでいましたしね。昔の人って偉かったなぁ…でもぜんぜん偉そうじゃなかったよなぁ…という方って、ふつうの人の中に、多かったんですよね)
一見そんな感じにも観えるこの世の現象はあるようですけれど、基本は先祖が祟るということはないです
と同様に、ご先祖様が霊格が高く、守ってくださる…というのも、厳密にはそうではない(笑)ところもあるのですが、
まぁ、でも、わかりやすい表現として、それが日本人にしっくりくるので、それでいいんじゃないだろうかと思います
肉体の先祖というのは、実際に肉体レベルのDNAを受け継いできている霊線でのつながりがあることはあるので、まる無視することはもちろんできないですけれど
あなたの人生を決める決定的要因が、そこだけにあるというわけではありませんので
(人間存在は、「その人が生まれた家系を連綿と継続させていくこと」だけに意味や意図があるわけではないということ)


ご先祖の最終神エネルギー系が遠津御祖神ということで
ここと繋がったご先祖があなたを守る、というよりも、結局「ご先祖の支援」というのは、高度なご先祖になっていくほど、今ここを生きる「あなたが最大限、あなたの目的(高次の)をはたすべく生きる流れ」のほうを支援します
なのでまぁ、肉体レベルで「がんばって家を家系を存続してくれ」というような「私的レベルの欲」などよりも、もっと神的視点において、全体像を俯瞰したところで、貴方様がよりこの世において、存在意義があるような状態とでもいうのでしょうか
そういうご加勢のしかたをします
(これをわかりやすく言うのが「公的」であること、世のため人のため的な、まぁそれですね手短に言えば。ただこれも「へんにわかりやすいありかた」というのがあって(人に称賛されるとか誰の目から見ても慈善とか)それを単に目的としてしまうと、道に外れます(笑)というか外れやすくなりますので。要注意です。そして「人のためだから」とやってしまうのが「押し付け」なのですが、これもNG。「高次がやらないこと」はやらないほうがいいというか(笑)結局、高次のあり方がこちらが生きる参考にはなるわけですよ)
高次のあなたとの諍い(笑)がそこで起こるであろうはずもなく
なので、たとえば「先祖が自分の邪魔をする」のような現象があるのであれば
その体験を通じて、あなたが獲得していく経験値とでもいうのでしょうか
そのために、ある場合もあるのかな、ということでしょうか
そういうものは、いわば、「生きているこちらのための、体験」それが時に、否応のない試練と感じられてしまうようなことも、まぁまぁ、けっこうあるといえばあるので(笑)むか~しからスピリチュアルの世界では、日本独特の「先祖供養しましょう」があるのだろうと思います


なんで先祖が大事かというと
生きたホトケである(笑)親が実際にあなたの先祖であり
いちばんわかりやすい先祖ですよね
必ず、2名の男女から、生まれてきていることは、もう否応ない紛れもない事実ですから
(それがどんないきさつであれ、ですよ)
なので親というのは大事なのです
人の親となった方は、「いずれ誰かの先祖ともなる」のは確定事項
そのあなた様じたいが、神的高次的生き方であることは、まぁまぁそこそこ大事でもあるわけです
そういう意味で、「先祖から、期待はされている」場合もあるかもしれません
この世的には一見、人並みよりも苦労が多い立場に立たされたり、カンタンではない場合もあったりはしますが、苦労はあるんだけど「イケてしまう」ような。
むしろその苦労があったからこそ、その経験があったから功を奏すような。
そういう経験は多いかもしれません。
そういう時に「ご先祖さまが守ってくれた」という表現はするかもしれません。
そして、そういう人は「流れ」がよくなっていきます。
自分の人生を誰かのせいに(先祖のせいなどに)しない、そして、誰かに(先祖に)依存しない(これも大事です)、それだけですでに、あなた自身が高次につながる二人三脚を始めることが可能となり…結果的に、それが実際は「最速の」先祖供養(笑)だったりするのです。


あなたをご先祖様が守るのだとしたら
それはいったい何のためなのか
守ってくださいというよりは、守られるのだとしたら、いったいなんで守られなくてはならないのが「私」なのか
昔子供の頃は、よくこういうことを考える(笑)子供でしたw
(可愛げないですよね…だから実際可愛がられなかったんですけどw)
また、そういう目線でオトナを観るのでw 嫌なガキだったかも^^
「感謝」と言いながら、何を感謝しているのか、に対して、やらしい目線持っていたかもしれません
肌感覚で、「人が、我慢をしているエネルギー」というのでしょうか(笑)
我慢でいやいややってるかもしれない部分、それを感謝などの言葉で綺麗に表面上繕っているオトナって多いんだよな、という感じ
それって、子供には、わかるのです
「なんでオトナは自分の好きなこと、楽しいことを犠牲にするのだろう」というふうにも(笑)観えてもいましたが、オトナになってみると、「嫌で神社参りしている人っていない」こともわかるので(笑)ある程度大人になってみると、わりとそういった御神業は楽しいのかもしれないんだな、とわかるようになりました
(そういう、本当にご神事が「好きな」方に神職等々はお願いしたいですね)
そして「神社に子供はほとんど来ていない」というのも、「必要ないから(大人よりも穢れが少ないから)」という気もします^^。


昔、うちの父が生きていた頃に、故意にしていた、宗教関係での知り合いのおじいさんがお亡くなりになられてから、しばらくして、なんか、父の夢の中にその方が出てきてそうで
おじいさん曰く「愛ちゃん(私)が、今その家の中で、いちばんやっていることが、随神の道だよ」と教えられたそうで
(これを、父は私に言うのではなく、母にこそっと話していたのですが、たまたま私はその「こそっと話しているのを耳にして」知りました)
父にしてみれば「なんであいつが」だったのかもしれませんが(笑)
そして私も「なんで私が…」と、「落胆」したのですが(笑)。
なんで落胆なのかというと、当時の自分の意識では、「すごく業が深い家に自分は生まれてきたんじゃないか」というw 神妙な悲しい精神状態はありつつも、「そんな家に生まれてきた自分を悲しむのではなく運命と受け入れ、その意味を考えるしかない」みたいな感じだったんですよ…
「なんのために人間は生きているのか」について模索中でしたが、「自己犠牲感」はなんとなく祓われていってる時期ではありました。
「受け入れて進む、目の前のことをあれこれ考えず、ただやる」的心境、そんな時期が、バカっぽい20代のいっときにも(笑)あったことはあったのです^^
(当時は、スピブームとか以前ですので、当然「使命」だの「ブループリント」だのの話は、存じ上げませんでしたよ。)
追記:
思い出したわ(笑)
その時期にはね、要するに、「家族のため、親のためなんだよな…」っていうことを、「相手には黙ってやる」ということをしていたんですよ。
これを恩着せがましく、あんたらのためなんだよ! 犠牲になってやってやってるんだよ! と言ってしまうと、オシマイなんです(笑)。
黙って、自分が、これをやると決めたことをやる。
ということが、大事みたいです。
…ということを、なんとなく高次ガイドに、思い出させられたので、追記。
宗教行事というか、御神事というか、そういった決まりごとを抜かりなくし続ける…
そういった毎日の行を自分に課して続けていくというのも大事なのですが
それによって、それをやっている人間、その本人自身が、実感としてほんとうに祓われていくことが、もっとも大事で、
そうでなければ、やっていることは「形骸化」
そして、やっていること続けていることを、その人は「免罪符」のように思い始めてしまいます
お盆も(笑)そうかなということです
うちはちゃんと墓参りしている、先祖供養している、とかそういうことじゃないのですよ
ということを、昔その「父がこそっと母に告げていた」お話、亡くなった知り合いのおじいさんが教えてくれたんだな、って、のちに思いました
人間は「毎日が御神業」なのですけれど「ほんとうにそう思ってる?」ということかなと思います(笑)
(そのおじいさんは生前、息子さんが早死し(30代で子供3人残して)要するに、自分の子と自分の孫3人という、2代ぶん育てた、2代ぶんの親、親代わりを勤め上げて、大往生…という感じの方でした。「人の親を2回やる人生」そんな感じでしたけど。孫全員大学に行かせて家も建ててあげてみたいな(笑)息子の嫁さんも実家へ戻らず再婚もせず、跡次いでいましたしね。昔の人って偉かったなぁ…でもぜんぜん偉そうじゃなかったよなぁ…という方って、ふつうの人の中に、多かったんですよね)

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カテゴリ : PSW制作室
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