「認める」「認められる」
これがなくなると、この世においてのその人の存在があやうくなる
心もとないものになるのは事実のようです
なので、「人に認められたい」と感じる欲求そのものは、その人の「存在確定」の必要要素として、当然わきおこる欲求で当たり前のこと

ただこの、「認められる」は必ずしもそれが「人」から限定である必要がなく
また、この世的に見られる、他者に認められるの意味、意図、「称賛される」や「優れている」や「役に立つ」や「愛される」や
感情的な満足感、ポジティブなタイプのそういう人の感情を満たすもの、それが「人からもたらされるものだけ」に限定する必要はないのです
ここを誤解して、「人からのそれが欲しい」ことばかりを渇望してしまうと
アンバランスな、いびつな、人との摩擦を起こしやすくなる、心地の悪いものになる
そうなってしまいやすくなります

「認められる」は、「いる」って相手に思われる、見られる、それだけでも(笑)認められていますw
必ずしも上述のような、「自分にとって好ましい認められ方」という認められ方ではなくても、「この人がいる」ということを認識されているというだけで、存在が確定します。
(だから「人が嫌なことをわざわざすること」などで目立とうと自己主張するような人も、絶えないといえば絶えないわけです…むか~し、スピリチュアル方面で、バシャールさんだったか、「その存在を認めないことであなたの世界にはその存在はいなくなる」だかなんだか言ってるの見たことあるような気がしますが、こういうことに繋がるといえば繋がるわけですね。ただ、肉体の次元では、「見えちゃう」時点で(笑)もう相手はいますから、この技は観える相手には使いづらいですが、「わざわざ敵意を持って見に行く、関わりに行く」ことでw要するに「嫌いなのにわざわざこっちから関わろうと意識している」ような相手には「相手の存在を確かめに見に行かない」ことでものすごく有効ではないかと思います。なので不仲の場合(家族など)、「物理的に距離を置く」ことで対処できることが多いのは理にかなっているわけです。エーテルレベルでの干渉から離れられるのもあるし、日常的に相手の存在を認めないでいられるわけだから(笑)まぁそりゃ「自分の世界に相手がいなくなる」時点で相手は消えたことと同じになりますのでね。「遠い親戚より近くの他人」とか言われるのもそういうことですよ。血縁だろうが見たことも交流もほとんどない遠くにいる親戚よりも近くにいる他人の存在のほうが大切だよね~という意味なんでしょうけど、ちゃんとわかってるんですよ、人間というのは)
ペット飼い主さんは、ペットに「そこにあなたがいるよね」って認められてます(こっちも「この仔がここにいる」って認めてます)
石ホルダーさんたちは、石たちに「あんた、ここにいるやんか」と(笑)認められています(こっちも「石たちがそばにいる」と認めています)
断捨離などで、自分に相応しくないいらないものを捨て、本当にお気に入りのものを自分の周囲に限定する、的なことが、その人をエーテルレベルですっきりとさせる心地よくさせる効果というのは、こういうこと
自分が「認めている」ものから「認められる」その関係性の相互エネルギー作用を、際立たせる存在確定の方法のひとつだからなのかなと思います
モノを捨てることは実際「祓い」につながるので、祓われ効果の気分の良さから、やっているうちに「どんどん捨てたくなっちゃう」のですが、「捨てすぎて、イキオイで、好きなもの、必要なモノまで捨ててしまった」と、あとから後悔することもあるので、要注意(笑)。
これは、一見、必要なモノまで捨てた喪失感とか、また買わなきゃいけなくなってもったいないことをしたという部分、まだ買えるならいいんですが好きなもので二度と手に入らないものなど、そんなこと以上に、「モノも、あなたの存在を確定させている」という役割を持つので、それが全部なくなっちゃうと、確かにスッキリはするんですが、またそこを埋めだす行動(リバウンド)みたいになるのは、エーテルレベルで「存在確定」のちからがモノにもあるという…こういうこともあったりするからです。
「過去に好きだったもの」というのも捨てづらいのですけれど、これも「過去を断ち切る」という点で決意して捨てていい場合と、まだそれをしないほうがいい場合と、その見極めは大事ですよね。
捨てる基準として、単に「今使っているから」「もう使わないから」だけでは測れないものがそこにあります。

私達は、想像する以上に、人もそうなんですが、人だけじゃない対象からも「認められて」存在しております。
「高次ガイドがいる、いない」も実はそうです
いることを認めているから(笑)こちらも、高次ガイドの存在を認め、「高次ガイドの存在を確定」していますし、向こうからも、存在を認められています
いることが認められると、高次ガイドから認められている自分の存在確定、こちらが認めている高次ガイドの存在確定、いわば相互に存在する存在としての繋がり強化のような感じにもなるわけです
(「観える」ともっと存在確定になるので、クレアボヤントになれるのはもっといいかもしれませんね、やはり。「自分に見えないものは信じない」というのも、あながち、間違いではないのですよ。見えなければないと同じというか(笑)可視化されていることで、より、存在するものとして存在を確定させていけるところはあるので。スピリチュアルの世界が、どぉおおしても弱いのは(人間への存在のアピール度が)この「可視化」がどうしても一般的ではなく少数派だから、というのはありますから)


今月ブログ記事にもしていた「田舎あるある」みたいな、ああいう「濃密人間関係」が田舎に発生しやすいのは、
他人への過干渉、それは根底に、「人から認められたい欲求」の裏返しもあるのかもなのですが
そもそも「人口が少ない」ため、他人に関心を示すこと、それもある種、仕事になっちゃうというか(笑)
ちょっとだけ理にかなったところもあるんですよね、いい、悪いじゃなくて
東京などに、そういった、濃密人間関係が発生しづらいのは、そもそも人口が多いため
一歩外に出れば嫌でも「複数の人間の姿じたいを毎日目にする(=誰かの存在を認めている、確定させている)」ところがあるので
その仕事は(笑)多くの人が、相互に、お腹いっぱいしているわけです、いつも
だから関心が必要以上に湧かないのではないかしらと
とくに「いつも決まったキャスト限定で回っている」わけではないレベルに、見知らぬ人、見知らぬ面子だらけと言えるような都会だと他人に無関心でいないと(笑。見てすぐに忘れる、気に留め続けないということ)むしろ、エーテル情報がパンクすると思いますw

人間の存在役割として、「自分以外の対象を認める」、「相手の存在を確定させる」というのも、「宇宙を存続させるための法則」としてもあるようですので
物理学でしたか、それってもう、発見されてわかっていることでしたよね
「人間がそれが”ある”と認める、発見することで、その存在が存在するようになっている」でしたか、確か、そういう
宇宙はなので人間が発見する、確認することで拡大していってる、とも
昨年、写真撮影に成功したブラックホールもそうですね…写真として可視化されたことでより「認められる」ことになりました
なので人間はどんな人もまさに「生きて、存在しているだけで、実は、大事な仕事をしている」というのが、宇宙の真相です
あなたが存在するだけで
あなた以外の「誰か」を「何か」の、存在確定をするという
重要任務があるのです
そしてもちろん、あなた自身も
「誰かに」「何かに」存在を確定してもらって
存在しています

今、「Keep Distance」「Stay Home」で、寂しくなっちゃっている、集まるなと言われても集まりたい人々もいる、人との交流に飢えている人々も多くいらっしゃるようですが
理由としては、こういうものもあるわけです
闇雲に人恋しくなっちゃってるわけでもないという
そんな中、一人でいるのもとくに寂しくないよ、って思える人も多いと思います(むしろ落ち着くわ、のような)
そういう人にはそういう人なりに、とくに精神力が強いとか(笑)孤独に強いとかwそういうことじゃなく
「存在を認め認められる対象を、人間のみに限定していない」ということです
その人の存在を確定している周囲の人間や生き物だけとは限らない、あなたのお気に入りのお仲間が(笑)いるはず、あなたが見つめている対象世界があるはずですよ(あなたがそれがあることを認めているので、相手からも認められています)
石もそうなんだけど(笑)
こういう時没頭するシュミだとか対象物がある人、ポーズではなく自分の好きな世界をしっかりと持っている人が強い、みたいなのは、そういうことです
人の存在は素晴らしい、これは事実ですが
人以外の存在も等しく素晴らしい、これも事実、そこに上下優劣はなく
「あなたが先に相手を認めれば、相手からも認められます」的なコミュニケーション術の背景には、こんな宇宙的法則があったりするのですね
これがなくなると、この世においてのその人の存在があやうくなる
心もとないものになるのは事実のようです
なので、「人に認められたい」と感じる欲求そのものは、その人の「存在確定」の必要要素として、当然わきおこる欲求で当たり前のこと

ただこの、「認められる」は必ずしもそれが「人」から限定である必要がなく
また、この世的に見られる、他者に認められるの意味、意図、「称賛される」や「優れている」や「役に立つ」や「愛される」や
感情的な満足感、ポジティブなタイプのそういう人の感情を満たすもの、それが「人からもたらされるものだけ」に限定する必要はないのです
ここを誤解して、「人からのそれが欲しい」ことばかりを渇望してしまうと
アンバランスな、いびつな、人との摩擦を起こしやすくなる、心地の悪いものになる
そうなってしまいやすくなります

「認められる」は、「いる」って相手に思われる、見られる、それだけでも(笑)認められていますw
必ずしも上述のような、「自分にとって好ましい認められ方」という認められ方ではなくても、「この人がいる」ということを認識されているというだけで、存在が確定します。
(だから「人が嫌なことをわざわざすること」などで目立とうと自己主張するような人も、絶えないといえば絶えないわけです…むか~し、スピリチュアル方面で、バシャールさんだったか、「その存在を認めないことであなたの世界にはその存在はいなくなる」だかなんだか言ってるの見たことあるような気がしますが、こういうことに繋がるといえば繋がるわけですね。ただ、肉体の次元では、「見えちゃう」時点で(笑)もう相手はいますから、この技は観える相手には使いづらいですが、「わざわざ敵意を持って見に行く、関わりに行く」ことでw要するに「嫌いなのにわざわざこっちから関わろうと意識している」ような相手には「相手の存在を確かめに見に行かない」ことでものすごく有効ではないかと思います。なので不仲の場合(家族など)、「物理的に距離を置く」ことで対処できることが多いのは理にかなっているわけです。エーテルレベルでの干渉から離れられるのもあるし、日常的に相手の存在を認めないでいられるわけだから(笑)まぁそりゃ「自分の世界に相手がいなくなる」時点で相手は消えたことと同じになりますのでね。「遠い親戚より近くの他人」とか言われるのもそういうことですよ。血縁だろうが見たことも交流もほとんどない遠くにいる親戚よりも近くにいる他人の存在のほうが大切だよね~という意味なんでしょうけど、ちゃんとわかってるんですよ、人間というのは)
ペット飼い主さんは、ペットに「そこにあなたがいるよね」って認められてます(こっちも「この仔がここにいる」って認めてます)
石ホルダーさんたちは、石たちに「あんた、ここにいるやんか」と(笑)認められています(こっちも「石たちがそばにいる」と認めています)
断捨離などで、自分に相応しくないいらないものを捨て、本当にお気に入りのものを自分の周囲に限定する、的なことが、その人をエーテルレベルですっきりとさせる心地よくさせる効果というのは、こういうこと
自分が「認めている」ものから「認められる」その関係性の相互エネルギー作用を、際立たせる存在確定の方法のひとつだからなのかなと思います
モノを捨てることは実際「祓い」につながるので、祓われ効果の気分の良さから、やっているうちに「どんどん捨てたくなっちゃう」のですが、「捨てすぎて、イキオイで、好きなもの、必要なモノまで捨ててしまった」と、あとから後悔することもあるので、要注意(笑)。
これは、一見、必要なモノまで捨てた喪失感とか、また買わなきゃいけなくなってもったいないことをしたという部分、まだ買えるならいいんですが好きなもので二度と手に入らないものなど、そんなこと以上に、「モノも、あなたの存在を確定させている」という役割を持つので、それが全部なくなっちゃうと、確かにスッキリはするんですが、またそこを埋めだす行動(リバウンド)みたいになるのは、エーテルレベルで「存在確定」のちからがモノにもあるという…こういうこともあったりするからです。
「過去に好きだったもの」というのも捨てづらいのですけれど、これも「過去を断ち切る」という点で決意して捨てていい場合と、まだそれをしないほうがいい場合と、その見極めは大事ですよね。
捨てる基準として、単に「今使っているから」「もう使わないから」だけでは測れないものがそこにあります。

私達は、想像する以上に、人もそうなんですが、人だけじゃない対象からも「認められて」存在しております。
「高次ガイドがいる、いない」も実はそうです
いることを認めているから(笑)こちらも、高次ガイドの存在を認め、「高次ガイドの存在を確定」していますし、向こうからも、存在を認められています
いることが認められると、高次ガイドから認められている自分の存在確定、こちらが認めている高次ガイドの存在確定、いわば相互に存在する存在としての繋がり強化のような感じにもなるわけです
(「観える」ともっと存在確定になるので、クレアボヤントになれるのはもっといいかもしれませんね、やはり。「自分に見えないものは信じない」というのも、あながち、間違いではないのですよ。見えなければないと同じというか(笑)可視化されていることで、より、存在するものとして存在を確定させていけるところはあるので。スピリチュアルの世界が、どぉおおしても弱いのは(人間への存在のアピール度が)この「可視化」がどうしても一般的ではなく少数派だから、というのはありますから)


今月ブログ記事にもしていた「田舎あるある」みたいな、ああいう「濃密人間関係」が田舎に発生しやすいのは、
他人への過干渉、それは根底に、「人から認められたい欲求」の裏返しもあるのかもなのですが
そもそも「人口が少ない」ため、他人に関心を示すこと、それもある種、仕事になっちゃうというか(笑)
ちょっとだけ理にかなったところもあるんですよね、いい、悪いじゃなくて
東京などに、そういった、濃密人間関係が発生しづらいのは、そもそも人口が多いため
一歩外に出れば嫌でも「複数の人間の姿じたいを毎日目にする(=誰かの存在を認めている、確定させている)」ところがあるので
その仕事は(笑)多くの人が、相互に、お腹いっぱいしているわけです、いつも
だから関心が必要以上に湧かないのではないかしらと
とくに「いつも決まったキャスト限定で回っている」わけではないレベルに、見知らぬ人、見知らぬ面子だらけと言えるような都会だと他人に無関心でいないと(笑。見てすぐに忘れる、気に留め続けないということ)むしろ、エーテル情報がパンクすると思いますw

人間の存在役割として、「自分以外の対象を認める」、「相手の存在を確定させる」というのも、「宇宙を存続させるための法則」としてもあるようですので
物理学でしたか、それってもう、発見されてわかっていることでしたよね
「人間がそれが”ある”と認める、発見することで、その存在が存在するようになっている」でしたか、確か、そういう
宇宙はなので人間が発見する、確認することで拡大していってる、とも
昨年、写真撮影に成功したブラックホールもそうですね…写真として可視化されたことでより「認められる」ことになりました
なので人間はどんな人もまさに「生きて、存在しているだけで、実は、大事な仕事をしている」というのが、宇宙の真相です
あなたが存在するだけで
あなた以外の「誰か」を「何か」の、存在確定をするという
重要任務があるのです
そしてもちろん、あなた自身も
「誰かに」「何かに」存在を確定してもらって
存在しています

今、「Keep Distance」「Stay Home」で、寂しくなっちゃっている、集まるなと言われても集まりたい人々もいる、人との交流に飢えている人々も多くいらっしゃるようですが
理由としては、こういうものもあるわけです
闇雲に人恋しくなっちゃってるわけでもないという
そんな中、一人でいるのもとくに寂しくないよ、って思える人も多いと思います(むしろ落ち着くわ、のような)
そういう人にはそういう人なりに、とくに精神力が強いとか(笑)孤独に強いとかwそういうことじゃなく
「存在を認め認められる対象を、人間のみに限定していない」ということです
その人の存在を確定している周囲の人間や生き物だけとは限らない、あなたのお気に入りのお仲間が(笑)いるはず、あなたが見つめている対象世界があるはずですよ(あなたがそれがあることを認めているので、相手からも認められています)
石もそうなんだけど(笑)
こういう時没頭するシュミだとか対象物がある人、ポーズではなく自分の好きな世界をしっかりと持っている人が強い、みたいなのは、そういうことです
人の存在は素晴らしい、これは事実ですが
人以外の存在も等しく素晴らしい、これも事実、そこに上下優劣はなく
「あなたが先に相手を認めれば、相手からも認められます」的なコミュニケーション術の背景には、こんな宇宙的法則があったりするのですね

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カテゴリ : チラ見♪
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