
「ちょっとだけよ」ってなんだか古すぎる、トシがバレるギャグですね。わかんない人も^^多いかも。懐かしいですね。ドリフターズでしたっけ。
あたしが生まれて幼少期を過ごした場所から歩いて15分くらいのところにあった江東公会堂というところで、よく「8時だよ全員集合」の公開ロケっていうんでしょうか、やってましたね(きっと今はこのホールはもうこの名称ではないのかも)。昔は紅白歌合戦のNHKホールですとか、渋公(今は違うホール名)とかもそうですが、なんだかこう、テレビの世界で映るような場所、多くの人に知られた場所って、夢の舞台というか異世界の象徴でもあったのかな、幼心に。
今はそのNHKホールのとなりの代々木公園近隣に住んでいますけれど。そうなってみると、また感じ方も少し変わるけど。
昨日はワンコと、千駄ヶ谷の東京体育館に、夕刻にお散歩に行ったのですが。
神宮球場で、なんだか湧いている様相の、野球観戦の観客のどよめき、歓声とか、ヤクルトの選手を応援する時の相変わらずの東京音頭の大合唱とか。そういうのが、東京体育館と神宮球場は、すぐちかくなので、聞こえてきて。
プロ野球中継というものがテレビの世界から消えて、もうずいぶんになるのでしょうけれど、今でもこうして球場に足を運ぶ、野球を愛する人たちがいるんだな~、っていう、なんとも微笑ましい空気が伝わってくる感じがして。
東京体育館の野外のコートでは、アマチュアのサッカーの試合をやっていて。観戦者はもちろんプロサッカーの試合のような熱狂的な人々ではなく、ふらっとやってきて眺めているような人々でしたが。しばらく私もワンコといっしょに観戦していたのだけど。けっこう楽しいものですね、サッカーの試合って、間近で見ると。どっちがゴールを決めても、どっちにもお互いに拍手が送られる。そういう試合。それでぜんぜん違和感がない嬉しさがある感じ。
とても幸福な気持ちになりました。

こちらは、「自己信頼」のエネルギーのカップリング。
昨日のちょっとだけよ♪ の、棚ボタ運にも繋がるものですが。最後にお伝えしていた、「棚ボタと言えど、決定権は自分に委ねられるのよ」な話。実はこれができないと、棚ボタ運は、活かされないのです。
決定権の行使は、高次のお墨付きがあるから、証拠や保証があるから、ではありません。それ待ちになる方も多いのかもしれませんが、実際はそうじゃないし、高次ってそこまで手取り足取りな指示や関与はしてきません。(してくる高次があるとしたら、それは疑ったほうがいいです)そんなものを待っていれば、へたすると、来世があるのなら、そこでも「待ってる」人生を設定し、そこからの脱却というステージを設定した人生を繰り返すでしょう。誰かの指示待ち、外側に信じられるものの出現を待つ気持ち、誰かが確実に成功する方法を教えてくれないかと期待する気持ち、それは、失敗を恐れる、責任転嫁の意識から来るものでもあるのです。

だから、どなたにも、生きていればですね、大なり小なり、「うわ~~~。自分は相当ラッキーかもぉ」って思えるようなことや、自分のハートにしか響かないわからないことなんだけど、心を揺さぶられるような感動とかね、そういったものに遭遇する体験ってあったりもするわけなんですが、けっこうその場限りな程度になっていくのは、「微細な棚ボタ」の時にね、それをマインドが否定してしまう、「でも、自分がそう感じる、ってだけだしな」っていう自信のなさからね、そっち方向への行動を選択しないからなんですよ。
たとえば、誰かが自分の職業を選ぶ基準にね、ものっすご~く些細と言えば些細な、自分自身が感動、感銘を受けた経験から、将来性とか、人から見てどうこう、っていう部分を度外視した職業選択をしようとした時。
まわりの、「そんな仕事じゃ食ってけないよ」とか、「そんなのやって将来どうするの」とか、いわゆる常識的な範囲のものの見方からの意見に触れると、「そうだよね、、、自分もそう思う、、、たしかに将来性なさそう」と、いともカンタンに、コロッと、「棚ボタ」を手放してしまうんですよ。
職業どころかですね、へたすると、個人のシュミ程度のことにまで、「こういうのが好き、って言っちゃうとちょっとおかしい人って思われちゃうかもな」というような、自己卑下感覚を持ち込んでしまう、そういう方も多いかもしれません。
(近年はさすがにそのへんはだいぶ、開けてきて、自分のハートが喜べる、自分の好きなこと、好きな道、を選択する人の数は、昔よりは増えてきているようには感じますけれど。それでもまだ、そうではないマインド感覚満載の幻想のモノサシを基準にして萎縮している人も多いように思います)

「自己信頼」に、理由付けを欲しがるのが、私たち人間。
「偉くなったら、発言できる」「大人になったら、将来できる」「お金持ちになったらできるはず」「定年になって、自由な時間ができたら、自由が手に入れられる」「自分よりも凄く先を行っている人たちがいるし、自分はまだまだそこに及ばないから、そういうふうになれたら」「なにか自分に確固たる確信が得られたら」そうやって、どんどん、自己信頼に条件づけを自ら付与して、先延ばしの「目標」にしちゃうわけなんです。いずれ、必ず、ってね。

なんで「今」それをやっちゃいけないの? っていう、心の違和感に蓋するわけなんです。
よくよく自分に問うてみると、「今、自分がそれができる自信がないから。自信ができたらやろうと思う」って言い出します。
じゃあ、どうやったら、その自信が出てくると思うの? と問えば、「経験したことないし、、、実際できるかどうかわからないし、、、云々かんぬん、、、」、、、それって、じゃあ、偉くなったら、大人になったら、お金持ちになったら、自由な時間ができたら、っていう「夢見る将来」とは結局あんまり関連性なくないですか? ってことになります。

自己信頼は、実は、他者信頼、でもあり、世界を、宇宙を信頼するベーシックな創造のエネルギーでもあります。
自己信頼に、理由付けを必要とする方は、、、知らず知らずにですが、他者信頼にも、同じことをしているはずです。
つまり、自分を無条件に信頼できないので、他者のことも無条件に信頼できない状態を、自分で創り出していくことになるのです。
自己信頼は、自分に繋がるすべてを肯定するエネルギーにも繋がっていきます。
もちろんですが、見えない絶大なサポーター、高次ガイド、ガーディアンエンジェルの支援も、受けやすくなります。
スピリチュアル方面でいうところの、「高振動」状態、波動の上がった状態、それもここが基盤として、前提として、あります。
しかしながら、自分を信じていない人に、何を言ったところで、仮にどれだけ肯定的なことを伝え励ましたところで、そのエネルギーは本人が遮断してしまうんです。(高次の支援も、同じですよ。みずからが心を開いて自分自身を自分が受け入れ信頼していなければ、高次支援に触れてもそれが支援であることに気づけません)
最初の一歩。自己信頼。ここまでは、実は、どんなに気前のいい宇宙でも、プレゼントはしてくれません。自分でやるのです。
必要なのは、ほんとに、その勇気くらいですね^^。
まぁ、三次元にいて、そのくらいは自分でしないとね、ってことかな。そう思います。

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