100に1、1000に1、を見つける

2006年05月03日 (水) 22 : 44
「数が少ない」つまり、希少性の高いものは、天然石の世界でもひっぱりだこですよね。少ない、というのは、魅力です。
なぜヒトは「数少ない」ものを尊ぶのか・・・。

ここに、神をやはり感じざるを得ないからなのかもしれないですね。

モノゴトの成功というのも、結局、そういうものなのかもしれません。
めったやたらに成功できるのであれば、それは「日常」となり、成功感覚とは呼べないものになっていくのでしょうから。

でも、思うに、私達は何気ない毎日の中で、実は成功体験を積み重ねてるんじゃないかと感じます。
あまりに、成功に辿り着いてみると、あっけなさすぎて、わからないこともあるかもしれません。
そのあっけなさを、自分が「自覚するか。自覚しないか。」
心から「有難い」ことと思えるかどうか。
たぶん、それだけなのだと思います。

今日、100に1、を100番目に見つけました。
99で力尽きて諦めていたら、見つからない成功体験でした。
100番目にやっと辿り着いた神様は、「ふだんの自分なら、絶対こんなことはしていない。」とおっしゃっていました。
要するに、私を気の毒に思って救いの手を差し伸べてくれた「拾う神」に、自らなってくれたヒトでした。
おそらく想像するに、同じハイツにお住まいの他の部屋の住人の方が、私をこっぴどく怒鳴りつける声が聞こえていたんじゃないかな、とあとから思いました。
(こういうモティーフから、いったい私が何を取り付けるドサ回りをしているのか、勘のいい人にはもうお分かりかもしれませんが^^)

神様に出会った瞬間。
それは、それまでの絶望感や悲哀や、自分を取り巻いていたネガティブな空気がいっきに吹き飛んでいく瞬間です。
今日は、その方の前ではもちろん涙しませんでしたが、帰り道、嬉し涙が溢れてきました。

神様は、きらびやかな浮いた場所にはいないものです。
たいてい、なぜ? と思う場所に、突然姿を現す。
絶望を心に抱き続けながらも、ひたすらそれでも前へ進む気持を切らさないこと。
何か、そういう思いを「越えた」瞬間に、目の前に現れるのだな、と、今日ははっきりと感じました。

今日は一日とても気持のいいお天気で、持参していた石たちを、小休止のたびに「日光浴」させてあげました。
きらきらと太陽の光に輝くヒマラヤンのポイントを公園のベンチに並べる私の姿は、ちょっとアタマのおかしな外回りの営業マンの姿に映ったかもしれません。

でも、とても静かな住宅街でひとっこひとり歩いていないような町だったので、そもそも公園にあまりヒトじたいがいない環境だったから、ま、いっか、という感じですかね。
私は、ひたすら一戸建ての並ぶ住宅地という環境が実は苦手なのですが、何のお店もない、自動販売機さえない、野菜の畑が広がるそういう場所が“東京23区の中にまだある”ことに、少々戸惑いながらも、よく考えてみると、私達の未来に待つ世界には、ひふみ神示では「くひものやはなくするぞ」だったな、そういえば、ということを思い出し、「お茶する店がなくなる、レストランがなくなるって、どういう感じなんだろうか?」と、陽光の中で思いを巡らしていました。

それにしても、「苦を楽しみてくだされよ」「苦しんで得たこと、楽に得たのであるぞ」と言われても、100に1の100番目かぁ・・・ということが、最初に分かっていれば、人は、「苦を楽しむ」ことをいとわないのかもしれませんが、たいてい、その前にめげてしまいますよね。

今日ほど、「なんでこんな仕事引き受けちゃったのかなぁ・・・」という思いが駆け巡る日はありませんでした。
その思いの向こう側で、ひつく神の、「仕事に不満をいうでないぞ。そなたが招いた仕事でないか。」のコトバがぼやけてにじんでいました。
確かに。
どう考えても、色々な意味で「えらい大変そう」なことは、想定できたはずなのですから。
それを、軽々しくも、私の悪いクセで「このぐらいのことができずに、大峠が越せるかい!」みたいな、実力以上の大見得を切った発想で、やる、と決めたわけですから。
(ひふみ神示には、「人の尻拭い」と「5人分、10人分の仕事」ができんようでは、この道の役員とは呼べんぞ、というコトバがあるのです。懐手して大上段に構えて神を語る姿勢を、とことん「鼻高ポキンぞ」と何度も何度もおっしゃっておられます。既存にあるような宗教やらなにやらでは、何かと「偉い人」「先生」が生まれますが、ひつく神は、完全にその「自分を高みに置いて神を語る」姿勢を否定されています)

だけど、今日ぐらい絶望感に浸ってとぼとぼ歩いた日もなかったのに、こんなサプライズを最後に用意しておいてもらえたことに、私はまずます、神を確信すると同時に、神様の寂しさ、悲しさ、やるせなさを実感するのでした。

「マコトのヒト、千に一ぞ」と、ひつくの神はいいます。
私は、確かにそのとおりだな、と実感します。
神様も、その「千に一」を訪ね歩く、何千年、何万年なのではないでしょうか。
ひとりひとり訪ねていっても、「神様?なにそれ?誰?知らない、いらね、帰れよ、きゃはは^^」という、ご自分が自分に似せて創造したはずの、我が子である人間の反応をずっとずっと辛抱なさっているのではないでしょうか・・・。


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カテゴリ :  私にとっての2012年
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