魂の修行、そして、業

2007年08月16日 (木) 23 : 42
恵まれた国(環境)に生まれたニンゲンは、「暇潰し」のように、精神世界についてあれこれ学ぶチャンスを持っているけれど、たとえば貧しい国(環境)に生まれて食うや食わずやの、その日暮らしもやっとの人はそれに比べてどうなるのか?
というような、私に対して何らかの回答を求めていらっしゃるのかどうかはわからないけれども、そういう「魂のつぶやき」をいただきました。


で、ここに記すのは、私の考え方です。

まず、「生まれてくる環境」については、精神世界などでは「今回の世において、個々の魂修行のために最適な環境(国)、両親」などを選んで、生を受ける、などと言われています。
つまりまぁ、自分で選んでいるわけですから、文句のいいようがないだろう、ということです。


これには、閉口する方も多いと思います。
私も時々、本当にそうだったのかな? と思うことは、今現在でもありますよ。


で、私自身、やはり上記のようなことを思ってた頃がありました。
今よりずっと若い頃です。
大企業に就職して、まわりは恵まれたエリートさんばかりで、たぶん自分も恵まれていたのだろうけれど、心の中には「私らは、こんなに贅沢でいいんだろうか?」のような、妙なうしろめたさが常にありました。
世界には、貧しい人たちはいっぱいいる。
そして、この国の中でさえ、たとえばそういった大企業の「下請け」的な中小企業さんや、そこではたらく人たちは、私なんかよりもうんとシゴトしているように見える・・・でも、うんとラクをして偉そうにしているのは大企業というタイトルを背負うこっち側で、彼らは、こんな小娘にも、頭を下げる。
いろいろなことが、常に複雑な思いだったことを、憶えています。
そして、なぜかそれを「当然」のように人生のコマを進めている、周囲のエリートさんたちの存在がうっとおしくさえありました。
要するに、馴染めませんでした。
おそらく、その当時自分は「純粋」ぶっていたのだろうと思います。


今、多少オトナになって感じることは、
「自分ではない、他の人が背負う「業」は、代わりには背負ってあげられないし、また、たとえば、自分よりもハンデがある環境にある人に寄せる“同情心”のようなもの、自分はそれよりは多少マシな環境にいることを申し訳ないと思うような気持ち、っていうのは、当のその“恵まれていないように自分からは見える人たち”にとっては、大きなお世話以外のナニモノでもないのだな。」ということでしょうか。


私の考え方が変わるきっかけ、というほどのことないのですが、そういう傲慢OLだった頃に、遊びに連れて行ってもらった「フィリピン・パブ」(今はこういうものはないのかもしれませんけれど^^)で、可愛いフィリッピーナの女の子とお話した時に、ちょっと考えさせられることがあったのを憶えています。
彼女は国の家族のために、働きに日本にやってきて、稼ぐお金のほとんどを、両親に送る、と言っていました。
でも、それで大きな家を家族に建ててあげることができるのだ、と、とても幸福そうでした。
そんなような話をしていて、私が何を感じたのかというと、「自分は、“自分を犠牲にして”家族のために働いている、そのためにお金を稼ぐことを、こんなに幸せそうに人に話できるだろうか」ということでした。
もし、当時、自分が家族のために自分が働いたお金のほとんどすべてを拠出しなければならない境遇だとしたら、おそらく「全世界の不幸を背負っている」ような気分になって、そんな家に生まれた自分を呪う以外になかったんじゃないかな、と思いました。
幸い、そういう家ではありませんでしたが、そういう自分をとりたてて恵まれているほうだとも感じていませんでしたし。


豊かな国、豊かな環境に生まれている、という事実と、その人の幸福や、人格、霊性というものは、リンクしないと思います。
むしろ、仮に「お金に糸目をつけずに」お題目のように精神世界を学んでいたところで(セミナーを転々としたり、山ほど本を読んでみたり)、現実世界でその精神を活かした生き方ができないのであれば、ただ、眠たい授業を受けるために学校に通っていた「学生」であり続けるだけの話かと思います。
つまり、精神性の向上どころか、文字通り「暇つぶし」となるだけで、一向に遅々として進まないジレンマを感じるだけになろうかと思われます。


聖書の中にも、「貧しい者は幸い」と、イエス・キリストがおっしゃっているゆえんは、要するに満たされている、恵まれている状態の人間というのは、「魂の学びの必要性に現実に直面しづらい」、という点において、次元の高いところから見れば、実はかなり「困難な立場」にいるのだ、ということなんだろう、と思います。
綺麗事として、自分にとって都合の良い上澄み部分をすくって、「ココロが綺麗なニンゲンになった気分」程度なら、味わえるかもしれませんが(昔の私のように)、少しでも自分のココロを揺らす出来事に直面した時に、また振り出しへと戻ることでしょう。


「業」というのは、ニンゲンが神様から与えられたものではなく、神様がこの万物世界にニンゲンを神様自身に似たものとして作った時の「仕組み、ルール」なので、「自分でつくっている」というものです。
試練や困難は、めぐり果たしのチャンス到来、ってところです。
これのいい点は、「気が付いて、改善したら」どんどんチャラとなって、一段上昇できるというところです。けっこう、利子も割り引いてもらっているように感じます。
現実世界の金貸しよりも、よっぽど融通きかせてくれるルールです^^。
自分の巻いた種はすべて自分に返ってくる、「善因善果、悪因悪果」というのは、見事ですね。

でも、そんな「メグリ果たし」の機会だということを、「精神世界を学ばなくては」気付かないものでしょうか?
私たちは、そのことを誰から学ばなくても、「なんとなく、ココロのどこかでわかっている」んじゃないでしょうか?



・・・てなところが、私が「魂の修行、そして、業」について、思うことです。


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カテゴリ :  ちょっとスピリチュアルな話
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