集団(まどひ)の難しさ

2007年06月30日 (土) 00 : 58
人が集まれば、集団ができます。

カイシャにしかり、学校にしかり、町内会、子供のお母さん同士の集まり、ネットの世界でもミクシィに代表されるような、コミュニティがあり、あれは、とにかく「入ったらひとりでも友人を作らないと」退会させられる(実は、ミクシィ黎明期の頃にいちど入ったことがあるんですけど、ずっと放置状態で「退会処分」になったことがある経験の持ち主です^^。今も、ほとんど出入りしておりませんが、なんとかマイミクと呼ばれるお友だちを数名確保できているため、その措置にはなっていない様子)という掟があるくらい、「集まり」というものは、日常を形成する欠かせない要素のひとつ。

まぁとにかく、なんだかんだと、人はなにかしらの集団に属しているもの。
どんなに一匹狼を自負しようと、どこかしらの国に生まれれば、その国に属す人、ですしね。

私は、この「集団」「グループ」が、とにかく苦手で苦手で苦手で、どうにもならない性格でした。
さすがに、今は、すこしはオトナになりましたんで、自分から積極的になんらかのコミュニティに関わっていこうという気概は相変わらずあまりありませんが、「カイシャ」なんかでは、「でしゃばらず、無関心にならず」の位置を意識することと、八方美人ではなく「キーマンには少なくとも好かれとこうかな」というように、画策(?)はしております。

なので、友人はとても少ないです。
数えるほどしかおりませんし、しかも、それほど密でもありません。
しかもしかも、私の友人らしき人々は、「単体」での関わりばかりなので、そこに「グループ」がないわけでして^^。
こういう性格のため、たとえば、「友人の結婚披露宴」に呼ばれて行って、その主役の花嫁以外に誰も知合いがいない、ゆえに、おめでたい席でひじょうに孤独・・・なんてことは、けっこう昔ざらにありました。

それを、寂しいと思ったことはないのか?・・・と言われれば、そうですね~、独身の時は多少寂しかったのかもしれないですね。
今は、価値観は違えど、共にこの世を生きる同士というか、いっしょの釜の飯を食う存在がいて、価値観はかな~り違うのですが^^、それでもたぶん、私にとっては大きなよりどころとなっているのかもしれませんね。
なにしろ、「元旦にひとりで、ファミレスに夜中にお茶しに行くことが、ぜんぜん寂しくない」のも、連れが家にいるのがわかっているから、なのかもしれないし^^。

なんというか、そんなわけで、「グループ慣れ」をしていない私は、霊界などの話を見聞きするたびに、その「霊界の集団生活」そのものへの不安はといえば、そういう複数との関わりが「ちっめんどくさそうなところだな~」というような部分でしょうか。
いまでもそういうキモチがなきにしもあらず、というのが正直なところ。

よく、恋人や、ケッコン相手に求めるものに、「価値観が同じ人」っていうのがありますけれど、価値観って、大まかには、つまり大元では近いとしても、だからって、「うまくいく」とも限らないし、そもそも、そういうものが近い同士って、ものすご~くものの見方が近視眼的になってしまい、結局は「まぁまぁまぁまぁ」の狭いゆる~い世界へとなっていく。
これを、「居心地がいい」と、世間的には言うのかもしれないですし、もちろん、そのぬるさの良い面もありますけれどね。

でも、たいていは、似たもの同士は、似ているからわかるだけに、「なぐさめあうこと」がお約束の条件付きの関係になりがちだし、たぶん怒りや弱点も似ちゃうから、何かあったときの「打開策」も似たり寄ったりになる。
なんでもかんでもうまく行き過ぎたらそれはそれで、結局、退屈で最終的には飽きますよね。
(だから、私たちは、わざわざ「試練」「価値観の違う魂との出会い」で切磋琢磨することを求めて、この地上へ人間をやりに来ているわけですよね?)


私は、以前、こういったブログをはじめる前に、「掲示板」によく出入りしていたとあるスピリチュアル系サイトというものがありまして、いわゆる、目に見えない世界とか、死後の世界などの話というのは、一般の人とはできませんので、そこを見つけた時は、ある意味、「水を得た魚」のような気分でした。

こういうことを「発言」することって、いくら「ブーム」だろうがなんだろうが、それでも、やはり日常身の回りにそれができる人はそんなにいないんです。で、インターネットというのは、モニターと文字だけの世界ですから、入り込める、感情移入しようと思えば、なかば中毒的にそうなれる環境ですしね。

寝ても覚めても、その掲示板に、ああだこうだ、と、「気づき」やらその掲示板の中の「人の気づきから学んだ気づき」やら、まぁ、書くわけです。
最初のうちは、どんどん、自分という器が広がり、「真理の美しい水」が注がれていく感覚でしたね。

そのサイトは、主催者の方が、いわゆる、自分の守護霊様複数と、「守護神」様との「チャネリング」ができる方でしたので、まぁ、書かれているコンテンツの内容の深さに、ぴぴぴっとくるニンゲンにとっては、そこのサイトは、「癒やし」「励み」機能満載でした。
私が、ぴぴぴっときていた点は、その主催者の方が、「なまぬるい道を歩かされてきていないこと」と、「光だ、ワンネスだ、祈りだ」ということを、まったく言っていなかった点。
そして、生ぬるい道、ラクをしようというココロ、を「当初は」持っていらっしゃらなかったことでしょうか。
何しろ、「霊界に行ってからも、結局、尽きることのない勉強なのだ。ニンゲン、これでいい、ってのはないのだ」ということをご存知でしたし。
その方に対しての、守護霊様の導きも、決して、その方を「甘やかす」方向にベクトルが向かっていなかったのです。

おそらく、その方のそういう厳しさ、霊験というのは、もちろん、ニセモノではなかったと思います。
最初は。

ですが。
ニンゲンって、どこに「落とし穴」があるか、わからないものです。
そういう方なので、やはり、どうしてもわらわらと、「シンパ」が集まる。集うようになる。
どんなに、コミュニティの中での意見を求めても、投げかけても、「シンパ」さんたちは、最終的には、主催者の言葉待ちになる。
神の言葉を待つように。つまり、教祖様、のようになっていった。

あとから考えてみると、そういう環境の中で、主催者の方が、霊性を「キープ」していくのは、困難だろうと思いました。
人は、「自分を持ち上げてくれる人たち」しかいない環境の中に放り込まれることが、もしかすると、いちばんの試練なのかもしれんです。(ベンジーがそうだったしね。だから、どんどん作品がつまんなくなっていって、だれのために歌っているのか、わからないオンガクになっていってる)

「もしつながっているのが本当に守護霊様なのだとしたら、これこそが「成長」のために用意された場なのでは?」というような「しんどい現実」にその主催者の方が直面している時に、「信者さんたち」のなぐさめ攻勢ももちろんでしたが、ご本人の「愚痴」「ご自分が関わる人間関係への批判の中身」が、とても「独善的」になっていっていることに、誰も気が付かなかったのか、「これは、少しおかしいんじゃないだろうか?」ということは、誰も言い出さなかったのです。

なので、私は、勇気を出して、「ふだんおっしゃっている世界観、霊界観から考えると、今そういう状況にいらっしゃるのは、必然の試練なのでは? そこを、逃げ出すことを考えるのではなく、ぜひ、対峙して、答を見つけてください。守護霊様であれば、それを望まれるのではないでしょうか? 私にはそういった、守護霊様のご意向を聞きとる能力はありませんが、そのように感じます」
てなことを、掲示板に書いたことを記憶しています。

お察しになられるかとは思いますが、
その私の書き残した言葉は、見事なまでに「スルー」でした。
何日も、何日も、「信者さんたち」も、もちろん、当の本人からも、その言葉へのレスポンスはなく、そこだけが、まるで「孤独な霊界」を形成するかのように、言葉は、浮いたままでした。

それ以来、私はそこを「出入り」することは、なくなりました。
主催者の方のことはとても尊敬していたし、感謝してもしきれないくらいに好きでした。
今でも感謝していますけどね。

これは、そのチャネリング内容が「ホンモノか?」「ニセモノか?」ということへのジレンマ話や、「スルーされたこと」への悲しみや悔しさ話ではなく、「集団(まどひ)」となることで形成される落とし穴には、「ホンモノになりつつある途上」のニンゲンにほど、たくさん用意されているのだ、ということ。
その主催者の方を見ていて、そう感じました。
この経験が、私にそれを教え、そこを抜けだし先へ進むためのすばらしい階段を用意してくれていた、ということだと思います。

主催者の方も、そういう意味では、気の毒なのです。
おそらく、「自分のチャネリングはホンモノ」という自負心はとうぜんおありでしたでしょうし、そういうことができて全然不思議ではない人格を持っておられる方でした。しかし、人は、傲れば「魔境」へ入っていく。
それを審神できる、その方にとって信頼にあたいする人間が、そのコミュニティに不在ということが、いかに危険なことか、という見本を見たような思いがしたものでした。

(ひつくの神様がよくおっしゃっているのですが、「なんでも、ふたりでやれよ」という言葉があります。
これは、「独断」「思い込み」の危うさ、危険防止の意味合いかと思われます。)

私的見解では、その方の「守護霊様」は、「はじめは何割かはホンモノ」だったんじゃないか、と思います。
しかし、おそらく途中から、「違うモノ」に誘導されている、「守護霊様ではない存在」に主権を明け渡してしまっていることに、御本人が気付いていなかったのではないだろうか? と思いました。もちろん、まわりの信者さんたちも。
だからこそ、私は「勇気を出して」言ってみたんですけどね^^。
「それは、守護霊様ではない存在からのメッセージなのではないか?」「ご自分でも気付かぬところからくる依存心と慢心から引き寄せる、邪な存在のちょっかい」ではないか? ということを、暗に匂わせて。

まぁ、人様を持ち上げ、人様に持ち上げられる、相互に褒め合うことは、悪いことではありませんし、誰か特定の個人を崇拝することも、それは個人個人の選択ですので、私がそこで「審神を気取り、気炎をあげる」意味はありません。
この「集団」は、そういう相互依存心の集まりなんだな・・・ ということに、私が気が付く、抜け出す、いい機会だったと思います。


精神世界というのは、人間世界同様、奥深いものですね。
「取り扱っている内容」が内容だけに、面白いものや、ひっかけ問題のようなものに、出会う機会は多いです。


「集団(まどひ)」の中に、「正解」を求めるのは、以来、なしです。
「同じような意見を持っている人たちが輪を乱さないように」ならスバラシイのですが(それが霊界)「輪を乱さないために、同じような意見に同調し、同調しないものは排除」という、暗黙の了解が横たわっているだけです。(あ。それもある種の霊界か^^)
もちろん、多数決の中にも、自分にとっての「正解」はないと思います。

自分の足で見つける。それしかないな、と、今は思っています。


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カテゴリ :  ちょっとスピリチュアルな話
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