カルマについて5

2006年02月05日 (日) 20 : 56
カルマ、因果応報の原則について考え出すと、どちらかというと「カルマのネガティブ面」が強調されてしまうようなところがあります。
いわゆる、「悪いことをすると閻魔様に舌を抜かれるよ」的な、“脅し”です。

実は、神様は、神様が作ったこの宇宙の法則を、こういう脅しに役立てて欲しかったわけではないのだ、ということが分かってくると、とてもウキウキしてきます。

この、リターンの法則の良いところは、なんといっても、思ったことやったことの結果が自分に戻るのだ、というところです。
だから、下心抜きで、「幸せになりたい」ために良いことを思ったりやったり、というよりは、「幸せだなー」を実感する毎日の過ごし方をしていると、どんどん小さなラッキーが増えていきます。
これは、「運を掴む法則」のようにそこここで言われている月並みなことなのですが、自分がやってみると実際そうだなー、確かに、と思います。

これはこれで、けっこう簡単にできそうなことなのですが、その決意や心持に「水を差す」ような偶然や障害も多々現れてきます。
「カルマを解消させじ」という勢力もあるのです。
世に言う「悪魔」とか「動物霊」とか「低級霊」とか、ネガティブな括りの総称で表される霊的存在たちです。
彼らは、人間のネガティブ想念の中にしか生きられない存在なので、人間に精神的向上心を持たせまい、と、あの手この手で迫ってきます。

これは、自分の心の動きをつぶさに観察していると、だんだん分かってくることです。
なぜ自分は今いやな気持になっているんだろう?
なぜ自分はこんなにやる気がなくなっちゃったんだろう?
なぜ自分はこんなに人と比べてるんだろう?
なぜ自分はこんなに成功にこだわるのだろう?

その誘惑に打ち勝ち、「自分は幸せなのだ」という感謝の思いで生きていくのは、けっこうしんどいものだと思います。
しかしこの積み重ねが、結局未来を創造していくことになりますので、常におろそかにはできないことなんですね。
人間は、ただ因果応報を知るために生きているのではないだろうか・・・と思うくらいに、遅かれ早かれ、これは見事なまでに、完璧なタイミングでそうなっています。
そして、近年、このリターンの間隔が時間的にどんどん短くなってきているように自分も思うし、アセンションがらみの読み物なんかにも、よくそういうことが載っています。
ちなみに、これを経験し始めると、けっこう楽しくなってきます。

ほんとかなー、と思いますよね。

私は、この因果応報の法則については、実は子供の頃からそのように教えられて育っていたので、知識としてはもうン十年も持ちながら生活してきました。
しかし、私の場合、ある時点までその知識が、いわゆるネガティブ面の“脅し”のほうに働いていました。

私は、年端のいかない子供たちに、この法則のことを理解させるのは、とてもデリケートな問題だと思います。
一部で言われる「インディゴチルドレン」「クリスタルチルドレン」のような素地を見せている子供であれば、魂で理解するのは困難ではないと思いますけど(むしろ彼らは、親たちの教育のために生まれてきているような、困難を承知で、他人の因果まで背負って生きる決意をしてきた魂、キリスト的な意識を持った果敢な魂だと思いますね。)子供に小さいうちからこのことを根付かせると、反面、「間違った諦め」「謂れのない怒り」を産みかねない。

私は、心のどこかで、子供の頃から「この世の不公平感」をずっと抱きつづけていました。つまり、なぜそもそもそんなハンデを持っていなければならないのか、が、どうしても分からなかったのです。
「親の因果が子に報い」と言いますが、なんで、そんな「自分じゃない人たちがしたことの報いのために、私個人が苦労せねばならんのだ」という部分です。
教えられて知っていたがために、不平不満という新たなカルマを積んでしまっていた、というわけです。

八百万の神の宿る大自然の恩恵に感謝報恩で生きること、この世には人格向上のための勉強のために生まれて来たこと、自分の欲のために徳積みをしない、努力して要求せず、神様ご先祖様に感謝して、食べ物に感謝、物に感謝、何でも感謝感謝の親の姿を見ていて、子供ながらに、「でも、同級生のおうちなんて、うちみたいに神棚に御飯を先にお供えしたり、そんな面倒なことしなくても、うちよりもお金持ちだし、洋服だっていっぱい可愛い服を持ってるし、お菓子だって好きなだけ食べられるし、なんか、いちいち感謝感謝と、そんなことがいったい何になるの?」というのが、心のどこかで本心でした。

「便所掃除がいちばんの徳」なんて精神は、今でこそそういう観念も一部で根付いてきている感覚がありますが、そういった精神やその実行、感謝という言葉や心がいちばん大切なんだなんてことは、ン十年前はうちの親から以外は、あんまり他所で聞いたことはなかったものでした。

私の家は、父がいわゆる厳格というのでしょうか、「今で言うところの最高に身体に良い食事」だったことは、何十年も後になって実感し、感謝しきりなのですが、何しろ、お米は五分つき米、肉は食べない魚は毎日、煮物、おひたし、おしんこ、などなどが主流のおかずで、365日ほぼ毎日がそういう食事でした。インスタント食品はいっさい駄目、カレーやハンバーグやオムライスが“夢のような御飯”だったのです。
コーラも飲ませてもらえなかったし、お菓子も買ってはくれませんでした。

もう、こういうことを理解するのに、どれだけ時間がかかったか・・・
子供っていうのは、「その美味しいものがどうして身体、そして精神に駄目なのか」なんて、分からないですから。

しかも、うちの父親は、長年やっていた商売がいきづまり、結局店をたたんで50代後半から、初めて「雇われの身、会社員」となって働き始めたのです。
私は、どんなにお蔭様だろうが感謝だかで生きようと、ご先祖様のご供養を日々欠かさずとも、結局、バカ見る人間はバカ見るし、ラクして生きてる人はラクして生きてる、というのを目の当たりにした気がしました。高校生の頃です。
人格なんて、感謝の心で生きるなんて、何の役にも立たんのだ・・・そう感じました。

しかし、その約十年後くらいの話でしょうか。
時はバブル、たまたま私のその親の家があった周辺一体が地上げに合い、もともと借地権の一軒家だったのですが、当時としてはそれが普通だったのでしょうけれど、「はぁ?」と思うような「立退き料」をいただき、父は、そのお金でまた都内に新築の一軒家を、借金無しで建てることになったのです。

ここでも、「土地を担保にアパート建てませんか」と、銀行の執拗な営業があったようでしたが、父は、“身に過ぎたことですから”と、それをやんわりとお断りしています。
あの頃は、一般の小金を持った人が、どんどん土地の値上がり家賃の値上がりを当然のこととして、その不労所得を当てに、地主経験のない素人が次々にアパートを建てていた時代。「借金も財産」などと言っていたのです。

そして、時が過ぎて。バブルが崩壊しました。
その時、欲をかかなかった選択が正しかったことが証明されました。
父は、“家や土地というのは、天からの預かり物で、自分の持ち物ではなく、大事に使わせてもらっているものだ”という風に、言っていました。
これは自分のもの、やれあれは人様のもの、ではなく、そういうことなのだそうです。
それぞれに見合った必要な分だけで、満足して生かさせてもらえばいいんだ、と言っていました。要は、「足るを知る」というやつですね。

この一連の、平凡な老人の身の上に起こった出来事を見てきて、私は「神様、ご先祖様はいない、いたとしても何もしてくれない」という考えが、少しだけ変わったことは事実です。「神様、ご先祖様、守護霊様、指導霊様に、毎日感謝で接して、不平不満を言わない毎日の積み重ねの結果、要所要所で、“間違った選択をしないように”導いてくれている」ことのようだ・・・という事実を、認めざるを得なくなったのです。

私の父はもともと物欲のとても少ない人でしたし、その代わりに、「率先して自分の夢や可能性を広げていく」パイオニアのような面をひとつも持っていない人です。つまり、いわゆる出世欲を持つ、世間体を気にする、見栄を張る、ということをあまりにもしないため、逆にこの現世で何かを実現していこうとする生存本能の凄味のようなものは、持っていません。ある面で、浮世離れした人ではあると思います。そして、それで人生やってこれたのですから、今となってはなんだかとても羨ましささえ感じます。

私は、確かに、認めざるを得なくなったことは分かりました。
ただ、それでも頑固な私は、おかまいなしに「でもやっぱり不公平だ」という思いを心のどこかに持っていました。どちらかというと、そのくらいの幸運は、当たり前なのでは?くらいの気持だったように思います。感謝、報恩とはほど遠い生き方をしていました。
「私は、こんな平凡な生き方は、嫌だ。」そう思っていました。
まるで、その姿は、神様に歯向かってじたばたと抵抗の限りをつくす、しょぼい小悪魔だったと思います。
そして、こんな平凡な生き方は嫌だ、と思っていたとおりの、「在り得ない、平凡じゃない苦労」をプレゼントされました。

その当時のことは、本当にいい経験をさせてもらった、、、と、今だから言えますが、もう一度それをやれ、と言われれば、もう二度としたくないことをして生きていました。
でも、その経験があったからこそ、自分の中で見えてきたものがあったのは事実です。
「真っ暗闇だからこそ光は際立ち、はっきり見えるのだ」ということ。
そして、そんな闇の中にいてさえ、暖かい人間関係に支えられていること。

“親を超えるのは難しい”と、言われます。
親でさえ越えられないのですから、カルマ云々の騒ぎじゃありません。
人間は、「霊が肉体という洋服を着て、人間という経験をさせてもらっている存在」だということを、まずその基本を体得しなければ、因果応報の意味もどんなに勉強して頭でわかったつもりでも、人間は、またどこかで積んだ徳を積み木を崩すように壊すのです。


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カテゴリ :  ちょっとスピリチュアルな話
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