目先の願望

2016年02月10日 (水) 20 : 27


前回の2月9日の記事「有頂天」の内容だと、目先の願望、自分の欲は叶えちゃいけない? かのように映ってしまう方もいらっしゃるかもしれないので。補足というか、ハートの願望と我欲の違い、みたいなものについて。

これは私自身も明確に自分の中で区分けできているというわけでもない話なので、こういうことについてはもっと語っておられるプロの方も大勢いらっしゃいますので、そういうのも多角的に取り入れて頂き、私が言っていることは私が「なんとなく自分の経験も通じて、そして、感じること」なので、参考程度にしていただけましたら。
且つ、もちろんこれは、石選びのご参考にも。

「目先の願望は叶えちゃいけない」なんてことはないです。
むしろ、どんどん、目先のことで叶えられるものは叶えたほうがいいです。
そうしないと、本当に自分が何を欲しているのかが、見えてこない場合もあるからです。

一足飛びに、ピンポイントで成功したい人が多いから^^、この「段階を踏む」ことを嫌う方も多いかもしれません。
だから「何分でできる○○」とか「あなたもできる○○」「誰でもできる○○」みたいな^^タイトルのノウハウ本とか、たぶん今でもそのタイトルだけで市場で人目を引き通用しちゃうのはそのため。

だから、中には失敗したな~、ってあとから思っちゃうようなことにも遭遇します。
でもこれは失敗じゃないのでして。
「あの時はそう思ったけれど、ほんとはたぶんこっちだったのかもしれないな」ということがわかるから。
で、そこで終わらせなければいいのです。
「あの時はなんでそう思っちゃったんだろうな、なんでそう思って行動しちゃったんだろうな」というところを、あんまり見たくないかもしれませんが、つぶさに検証すれば、失敗は失敗ではなく、成功への手引へと変化することになります。

この見方で選んだ「失敗」だと感じる石が「ありゃ?」の馴染まなさを感じる場合は、この自分の「あんまり見たくない」部分を照らしだしてくれるサーチライトの役割を、その石たちがしてくれていることが多いです。
だから、自分のあんまり好きじゃない石って、実は、飛躍的に自分を成長させてくれる石…であるとも言えるのです。
(ただまぁ、なかなかそう思うには、時間がかかる場合もあると思いますが)

石選びの基準として、前々から、「うわ、これが好き」という、意味がどうこうよりも、「理由はわからないけれど惹かれる」という感覚基準が、今その時もっともご本人が必要とされている石との出会いである確率も高かろう、ということをお話してきていますが。
これも、たぶん、手元に届いてみたら、「あれ、なんでこれがいいと思ったのかな」と感じてしまうことも、中にはあるかと思いますし、正直、なんでこんなの買っちゃったんだろう、失敗したかも、と思うことも^^あるかと思います。
あんまり自分ちの石アクセサリのことをそう言いたくはないですが^^、うちの石アクセサリに関しても、すべての方に百発百中ストライクであるとは、限らないと思います。
私の方はそう思っていますが、受け取られる方がお感じになられる部分は、千差万別の反応だと思いますので。

でもそれでも、自分の直感を信じて、なにかを選択する訓練には、石選びほど適したトレーニングはないんじゃないかな、と感じます。
石でなくてももちろんそうなのですが、感覚でチョイスする、ということに慣れていない方にほど、その感覚を磨くトレーニングとなる対象物として適している「物質」の姿をした、見えない領域とのパイプ役をしてくれる存在としては、身近なものの中では群を抜いて「霊的」な作用をもたらす物質の代表格ではありますので。

さて、この霊的作用が、必ずしも本人にとって「プラスに見えない」状況に持って行かれてしまう? かのように、現実世界では見えてしまう場合もあります。
それが、前回お話した、内容…とも言えるのですね。

だから、ブログのどこにもそんな話なかったのは^^、私がどれだけばか正直であっても、この話をすることはうちの製品にとってはマイナスな話になってしまうかもしれない。どれだけ私が、霊的真意について上手に説明しても、普通一般の方には、なかなか理解してもらえないだろう、とくに、一足飛びの成功を欲する人にとって何よりも恐れることは「失敗」という経験をしてしまうこと。なにもしなければ失敗はしない。だから、結局、夢なんか見ないほうがいいし、願望なんて持たないほうがいいんだ…っていう^^それこそ^^夢も希望もない、光とは真逆の方向へ誘導してしまうことになりますから。

私個人は、昨日したお話は、ぜんぜん「失敗」だと思っていないんですよ。
むしろ…彼女のような人が、大好きです。
そして、仮に、高い目線から俯瞰すればおバカさんなことを^^してしまっている時があったのだとしても、それでも、私個人は、彼女のような方の味方です。かわいいな、って思います。
私が彼女の守護霊だったとしたら、彼女は私にとって、誇らしい女性、自分が関与していることが誇らしく感じられる女性です。
だから、失敗例としてお話したのではなく、むしろ、「こんなふうに生きるのも素敵よ」の参考例、とも言えます。
なかなか凡人にはできない(私にもできない)、潔い、見事な生き方だと思いますよ。

たぶんですけれど。
ハートの願望と我欲とが完全に一致できている人は少ないと思います。
私だってそうです。
とくにこの社会のシステムの中で生きてくると、「価値観はひとつ」ではありませんし、必ずしも、自分自身の心からの価値基準だけをもとに生きることができている人など、相当少ないのではないかしらと思います。
そして、そのことに気づいてすらいない人も多い中で、気づいちゃった人が生きていくのは、かなり苦しい場面に遭遇していくことにもなります。だから、願望どころか^^、生きてるだけで四苦八苦になっちゃって、せめて「ふつうに生きているだけ」のことができなくて、それができることが願望、ソレ以上は望まない、くらいの、小さな願望でさえ叶えられていないことだってあります。

だから、「我欲はあかんよ」なんて話になっちゃうと、そういう方ほど、「欲を持つことは良くないこと」方向へ^^囚われていって、無欲の境地、無償の愛の境地方向へ、「自分の欲することがなんなのか」もわかろうとしていないのに、その段階をすっとばして、そっちへ行っちゃったり。

でも私も気がついたのですが。
やはり、一足飛びはできないし^^、やらないほうがいいです。
かえって回り道になります。
(でも回り道が悪いとは^^言いません。私自身も、けっこう回り道系の人間ですから^^そういう自分を否定するのは切ないですし。回り道しないと気づけないようなことは、どんなに本人が楽な路線を欲していても、回り道することが本人のため、という場合だってありますから)

ひとつひとつ、「目先の願望を、吟味していく、実現したけりゃ実現していく」中で、ついでに、「これの中に、自分以外の存在への愛のサービス、調和、喜びの要素は含まれているかな?」という心根を探す、っていうか。
これが大事ですね。
我欲とこれは入り混じっているので、我が強い状態の時には、「人に良かれ」の行為や発言が行き過ぎてしまったり(「あなたのためのを思って」というのは、他者への「押し付け」です)、自分が我慢して無理していること、人に理解されていないことを解消したいことを解消する際に、他者への不満という動機が勝る場合は、我欲です。
(これらは、最近、自分が発見した^^自分の我欲でもあります、事例として。きっと、山ほどまだまだ見つけようと思えばいくらでも^^見つかりますが、まぁ、いいでしょう。人にそれ聞いてもらってどうする、っていうのでもありませんので)

基本は、三次元の中で、自分が経験していることは自分にしかことの真意はわからない、のですから。
そして、それはすべて遅かれ早かれ、現実の現象として、自分のところに戻ってくるので。

現実の現象に答えはすでに顕れている、顕れてくるので、それを見ながら、少しずつ、できるところから改善していく。
ちっちゃな目先の欲望は、だから、とっても大切。
それがなかったら、「変化」ができなくなってしまいますので。
宇宙は「変化していること」のほうが常態なので、欲を持たないことが「良くも悪くも変化を欲さない」という恐れに起因していれば、宇宙のリズムのほうに合わない道を選択してしまうことでもあるんですよね。(それは、自分は欲していないのに^^マイナスの変容のほうへ流されていく道でもありますしね)


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カテゴリ :  私の体験(石系 & スピ系)
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