昨日、1996年の日本映画、「Shall we ダンス?」を初めて、うちの人間と一緒に観ました。
(「Shall we Dance?」というリメイク版が2004年にのちに米国でも制作されているようですね)
20年前の映画なんですね~。
しかしながら、そこに流れるテーマは、人間社会において暮らす私たち、つまり人間経験するために生まれてきた魂にとって、こういうものを自らが克服すべきものとして生まれてきた方も、この日本にはけっこういらっしゃるんじゃないかなという、普遍的なテーマが流れている感じのする映画でしたね。
ウィキからのストーリー抜粋ですが。以下になります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ボタン会社の経理課課長として、優しい妻やちょっぴり生意気だが可愛い一人娘にも恵まれ、念願だった一軒家も手に入れて、仕事や家庭に何の不満もない杉山正平。しかし、彼には満ち足りない何かがあった。正平は、ある日の会社の帰り、電車の中から見えるダンス教室の窓に、物憂げに佇むひとりの女性岸川舞を見つける。その美しさに目を奪われた彼は、数日後、そのダンス教室を訪れ社交ダンスを習い始めることに。
ほんの「スケベ心」から、家族にも会社にも内緒でダンスを習い始めた正平であったが、指導はベテランのたまこ先生から受けることとなり当てが外れたものの、次第に社交ダンスの魅力と会社の同僚青木富夫やプライドが高く有閑マダム然とした高橋豊子といった個性的な仲間との交流を通じて純粋にダンスにのめり込んでいく。また、ある事件から最初は正平に心を閉ざしていた舞であったが、正平のダンスへのひたむきな姿を見るうちに、だんだんと心を開いてゆき、自らの心の傷も癒えることを覚える。一方、正平の妻は急に帰宅が遅くなったことに、浮気しているのではと心配し探偵を雇い正平の身辺調査を始める。
舞らの後押しで正平は豊子とペアを組んで東関東アマチュアスポーツダンス大会に出場することとなり、観衆の前で猛特訓の成果を披露することとなるのだが…。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
主人公の役所広司さん扮する杉山さんが、社交ダンスにのめりこむようになってから、だんだん活き活きとしてくる姿。
しかしながら、家族には、内緒の世界。
これが思わぬカタチで、奥さんと子供に知れることにはなるのですが。
「こんな主人の楽しそうな顔、見たことない…」
社交ダンスをやっていることを知り、その現場写真を見せられた奥さんの、第一声。
自分の知らない世界で、自分の知らない、自分の不在の場所で、こんなに楽しそうにしている夫の姿。
これをもっと目の当たりにすることになるのが、そののちの、アマチュアスポーツダンス大会なのですが。
子供の方は、ダンスをする父親を見て、「お父さん、かっこいい!」と、思わず応援の声を上げてしまう。
奥さんは、終始、複雑な表情のまま。
…20年前の映画とは思えないような、普遍的なものがあるな~~~。と。
人が陥りやすい類の、感情の世界が、そこにありました。
どうして、主人公は、自分が社交ダンスに夢中になっていることを、会社もまぁそうですが、家族である奥さん、子供にも、内緒にし続けて、「別の自分」がそこにいる、そしてややもすると、表向きに見せている普段の自分像を上回るような喜びがある世界、をそこに実現することになったのか。
そして、奥さんの側からすれば、自分(家庭)との生活では見せない、活き活きとした生きがいを得た水を得た魚のような幸福そうなその姿が、「自分の関与なし」であること…が、寂しく、耐えられない悲しみ、に思われてしまう、それが正直な感情であったこと。(しかしそこに生まれてしまった溝のようなものを、修復してくれと訴えるわけではなく、のちにちゃんと寂しかった自分の気持ちを話し、ダンスの先生の送別パーティへ行っておいで、と促します)
子供は、素直に、なんの思い込みも常識的な側面も知らない無垢な心で(社交ダンスというのは少し社会の中では当時、場末感のある趣味的世界だったようで、あまり「社交ダンスをやっている」というようなことを他人に言えない空気があったようです)そういうものをとっぱらったところで、ダンスをする父親が輝く姿を、「かっこいい!」と喜びます。
父と母に生まれた溝を修復できる機会と場を作る(またそうできる立場でもあり。二人の間の子供であるその権利^^は天与のものですからね)ところまでは、子供がします。しかし、そこから先の、親同士の「思い」までには、口を出しません。
こういう映画を見ると…
「自分が、誰それの立場なら、どうかな?」
ということを、考えます。
映画って、そういうふうに観やすい媒体でもありますね。
この映画の中のご夫婦像も、典型的な、サラリーマンで勤続十何年、その間結婚し、子供が生まれ、郊外に何十年ローンのマイホーム…というような、たしかに1995年ごろにあった、幸福像スタイルの典型パターンの夫婦像的なもので(すれちがい方も典型的な風味がありますが)たぶん20年たった今も、いっしょに寝食ともにしている家族といえど、このような感じのすれ違いというのは、やっぱりあるんじゃないかな~、と感じられた次第。
まぁ、あたしだったら、「ったぁあああ!! 万々歳!!」ってところかな~、とは^^家の人間には告げてはいますけれど。
隠れてやらなくてもいいですが、隠れてそういう世界を持ってもらっても、とくにかまいません。
なんでも正直に私に告げなくても、ぜんぜんかまわないです。
(そもそもあたしは昔から、この人には嫉妬しませんし。なんであれ、夢中になって楽しめる世界、幸福感を本人が持って臨める世界が見つけられたなら、それをどんどんやれ~~~って思います。)
よくないのは、この映画を見ても感じたことですが、自己卑下と我慢と、対、他者への先入観と。
たとえ、「夫」「妻」などの家族であっても、だからこそ生まれがちな先入観や、「こうあるべき姿」的なものを、知らず知らずに、相手へ、そして、自分みずからへ押し付けてしまうことがあると思います。
あるべき姿があるのだとしたら。
ひとりひとりが心から喜べる世界の中にいること。
そしてできれば、自分自身もそうあり、他者のそれも喜べる自分であること(そのためには、自分自身が心から喜べていないと^^できなかったりするわけで。同義語なんです、これ、結局)。
ではないでしょうか。
(「Shall we Dance?」というリメイク版が2004年にのちに米国でも制作されているようですね)
20年前の映画なんですね~。
しかしながら、そこに流れるテーマは、人間社会において暮らす私たち、つまり人間経験するために生まれてきた魂にとって、こういうものを自らが克服すべきものとして生まれてきた方も、この日本にはけっこういらっしゃるんじゃないかなという、普遍的なテーマが流れている感じのする映画でしたね。
ウィキからのストーリー抜粋ですが。以下になります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ボタン会社の経理課課長として、優しい妻やちょっぴり生意気だが可愛い一人娘にも恵まれ、念願だった一軒家も手に入れて、仕事や家庭に何の不満もない杉山正平。しかし、彼には満ち足りない何かがあった。正平は、ある日の会社の帰り、電車の中から見えるダンス教室の窓に、物憂げに佇むひとりの女性岸川舞を見つける。その美しさに目を奪われた彼は、数日後、そのダンス教室を訪れ社交ダンスを習い始めることに。
ほんの「スケベ心」から、家族にも会社にも内緒でダンスを習い始めた正平であったが、指導はベテランのたまこ先生から受けることとなり当てが外れたものの、次第に社交ダンスの魅力と会社の同僚青木富夫やプライドが高く有閑マダム然とした高橋豊子といった個性的な仲間との交流を通じて純粋にダンスにのめり込んでいく。また、ある事件から最初は正平に心を閉ざしていた舞であったが、正平のダンスへのひたむきな姿を見るうちに、だんだんと心を開いてゆき、自らの心の傷も癒えることを覚える。一方、正平の妻は急に帰宅が遅くなったことに、浮気しているのではと心配し探偵を雇い正平の身辺調査を始める。
舞らの後押しで正平は豊子とペアを組んで東関東アマチュアスポーツダンス大会に出場することとなり、観衆の前で猛特訓の成果を披露することとなるのだが…。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
主人公の役所広司さん扮する杉山さんが、社交ダンスにのめりこむようになってから、だんだん活き活きとしてくる姿。
しかしながら、家族には、内緒の世界。
これが思わぬカタチで、奥さんと子供に知れることにはなるのですが。
「こんな主人の楽しそうな顔、見たことない…」
社交ダンスをやっていることを知り、その現場写真を見せられた奥さんの、第一声。
自分の知らない世界で、自分の知らない、自分の不在の場所で、こんなに楽しそうにしている夫の姿。
これをもっと目の当たりにすることになるのが、そののちの、アマチュアスポーツダンス大会なのですが。
子供の方は、ダンスをする父親を見て、「お父さん、かっこいい!」と、思わず応援の声を上げてしまう。
奥さんは、終始、複雑な表情のまま。
…20年前の映画とは思えないような、普遍的なものがあるな~~~。と。
人が陥りやすい類の、感情の世界が、そこにありました。
どうして、主人公は、自分が社交ダンスに夢中になっていることを、会社もまぁそうですが、家族である奥さん、子供にも、内緒にし続けて、「別の自分」がそこにいる、そしてややもすると、表向きに見せている普段の自分像を上回るような喜びがある世界、をそこに実現することになったのか。
そして、奥さんの側からすれば、自分(家庭)との生活では見せない、活き活きとした生きがいを得た水を得た魚のような幸福そうなその姿が、「自分の関与なし」であること…が、寂しく、耐えられない悲しみ、に思われてしまう、それが正直な感情であったこと。(しかしそこに生まれてしまった溝のようなものを、修復してくれと訴えるわけではなく、のちにちゃんと寂しかった自分の気持ちを話し、ダンスの先生の送別パーティへ行っておいで、と促します)
子供は、素直に、なんの思い込みも常識的な側面も知らない無垢な心で(社交ダンスというのは少し社会の中では当時、場末感のある趣味的世界だったようで、あまり「社交ダンスをやっている」というようなことを他人に言えない空気があったようです)そういうものをとっぱらったところで、ダンスをする父親が輝く姿を、「かっこいい!」と喜びます。
父と母に生まれた溝を修復できる機会と場を作る(またそうできる立場でもあり。二人の間の子供であるその権利^^は天与のものですからね)ところまでは、子供がします。しかし、そこから先の、親同士の「思い」までには、口を出しません。
こういう映画を見ると…
「自分が、誰それの立場なら、どうかな?」
ということを、考えます。
映画って、そういうふうに観やすい媒体でもありますね。
この映画の中のご夫婦像も、典型的な、サラリーマンで勤続十何年、その間結婚し、子供が生まれ、郊外に何十年ローンのマイホーム…というような、たしかに1995年ごろにあった、幸福像スタイルの典型パターンの夫婦像的なもので(すれちがい方も典型的な風味がありますが)たぶん20年たった今も、いっしょに寝食ともにしている家族といえど、このような感じのすれ違いというのは、やっぱりあるんじゃないかな~、と感じられた次第。
まぁ、あたしだったら、「ったぁあああ!! 万々歳!!」ってところかな~、とは^^家の人間には告げてはいますけれど。
隠れてやらなくてもいいですが、隠れてそういう世界を持ってもらっても、とくにかまいません。
なんでも正直に私に告げなくても、ぜんぜんかまわないです。
(そもそもあたしは昔から、この人には嫉妬しませんし。なんであれ、夢中になって楽しめる世界、幸福感を本人が持って臨める世界が見つけられたなら、それをどんどんやれ~~~って思います。)
よくないのは、この映画を見ても感じたことですが、自己卑下と我慢と、対、他者への先入観と。
たとえ、「夫」「妻」などの家族であっても、だからこそ生まれがちな先入観や、「こうあるべき姿」的なものを、知らず知らずに、相手へ、そして、自分みずからへ押し付けてしまうことがあると思います。
あるべき姿があるのだとしたら。
ひとりひとりが心から喜べる世界の中にいること。
そしてできれば、自分自身もそうあり、他者のそれも喜べる自分であること(そのためには、自分自身が心から喜べていないと^^できなかったりするわけで。同義語なんです、これ、結局)。
ではないでしょうか。

この記事のシェア&ツイートfacebookでシェアTweetする
カテゴリ : 私の体験(石系 & スピ系)
follow links
FB page
Google+Go to top of page