2016年1月のチラ見♪(予告)です。其の四(ラリマー、クンツァイト、アズマー)

2016年01月24日 (日) 00 : 17


「繋がり」です。

自分が、何か人に対して優しくない、気遣いが持てていない、できなかったりする時。
「人のアラ」みたいなものがたくさん見えてきて。余計にそうすることができない、というか。
でもそれは、自分が嫌だなって思うそのアラはつまり自分のことなのだ、ということも、頭ではわかっていて。

まぁ、スピリチュアル的な知識を齧ると、「ああ、これ、自分のことだよな」って気がついちゃうので^^それはもちろんポジティブな意識の渦中であると、自分の現状の内面のシフトのために、それは材料として提供してもらっていることなのだ、っていうことに感謝できることはわかるんだけど、そうではない時って気持ちの上でなかなかそうなれないし、なによりも「なかなかその現象のいわんとする意味に気づけない」んですよね。



自分の幸福度合いを決するのは、自分だけ。なので。
わかっていても気持ちの上でなかなかそうなれない状態は、自分で解決する以外には、方法がなく。

このカップリングは、そういう気持ち部分のシフトを容易にさせてくれるというか。
「なかなかその現象のいわんとする意味に気づけない」そこから、気付きへのシフトが早い。スムースに流れるように、繋がりに気づけます。
まぁ、こんな感じの組み合わせなので、「優しくなりたい方へ」っぽい、「穏やかで温和な人間関係へ導きます」程度のひとことパワスト系的ご説明で、充分説明になっていると思いますけれど。実際にそうだから。
ただそれは、到達する予定の結果であって、その「過程」は自分で踏まないとダメですよ。寝て起きたら^^あら~極楽な環境、みたいな^^ことはありませんので。



「その人の気持ちになってみる」とか、「その人の目線、立場で考える」とか、まぁ、そうは言われますよね。
人の気持ちを察する、ということ。
人の気持ちを察し続けて疲れ果てているのに^^まだ察しなくてはならんのか?! みたいな方も、この世には多々いらっしゃるかもしれないんですが。

これね、人の気持ちを察してみる、って、どこまでも「自分の立場上」「自分の都合上」で、やっぱり^^やっていますよね。
「自分が困るから」やってませんかね?
相手を察して、相手に良かれと言いつつ、相手にこちらの思う感じになってもらわないと、自分が困る、自分が不都合、自分が気に入らない…だから、やっぱり、そうやってますよね。
たとえそれが、「相手に良かれ、相手の幸福を思って」であっても、実際そうじゃない(そう見えない)状態が自分にとって不服だから、だったりね^^。
つまり、自分からは、そう見えない状態の場合の相手を、やんわりと否定し続けていることになるわけなんですよ、これ。
「私に都合よく私が思うように変われ」という服従を求めているとも言える。



だから、人の気持ちを察していることは、結局は自分の側の気持ちの見直しに繋がっていくんですよ。
で、見直してみると、「なんか自分がこだわっていた部分、人に要求していた部分、困ると思っていた部分て、どうでもいいことじゃないか?」ということが、わかってくるの。

この世的にはね…私たちは、なにか決まりを守らなきゃいけない、人との約束事や契約や義理を果たすことや、それから、無意識に「成長」というよりは、「できなきゃいけない(とくに仕事などは本当にそうね)」っていうプレッシャーの中で生きているのが、常識的に当たり前だと誰もが思っているので、それができない人は「困った人」扱いになったり、言わば、人からの評価がダメな人になってしまったり、やっかい者扱いになったり。
それが嫌だから、人に迷惑をかける人になりたくない…っていうような、潜在的恐怖感が、多かれ少なかれ、誰もの中にありますよね。
あと、屈折した変形スタイルが「変わり者」かな^^。一見、人の目気にしていないようでも、その自分にとっての「変わった」部分、人とは違うって自負部分を刺激されると過剰反応することがあったり。もし本当に人の目気にしてなければ…スルーできる、反応しないはずなんですよね。



でも、よ~~~~く考えてみると、たいしたことじゃないんですよ、それら。けっこう、どうでもいいこと。
というか、、このイタチごっこって…実際、楽しくないですしね^^。
で、どこがいったい困るのか? をよ~くよ~く見つめ直すと、自分も他者もたいして困らないんですよね、実は。

これがわかった以降の、相手の気持ちになって考えてみる…に着手するとね、そこにはもう、慈愛というのでしょうか^^、相手を思う愛の気持ちしか出てこない…ということがわかるんですよね。



自分から遠く離れた状態、関わらない状態でいる人に対しては、わりとですね、われわれは慈愛発揮するんですよ^^。
遠い人は、愛せるんです。
遠いといい人になれるんです。素晴らしい人になった気分が味わえたりします。
ですが、いざ、自分が関わる人達に対しては…必ずしもそうできてなかったりしていますよね。

どこまで赦せる人になれるのだろうか?
そして、どこまで赦してもらえる^^人になれるのだろうか?
その許容量は、どちらもイーブンだと思います。
遠い離れたところにある「愛のようなもの」は本当は繋がっていて、すぐ手元にあって。そこに手を伸ばせる人になることは、できないことではなくて。

目の前の世界を、縁のある人たちを、精一杯大事にしていくことが、やっぱり愛の器を拡げることができる王道であることを教えてくれるカップリングかなと思いますね。


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カテゴリ :  チラ見♪
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