ブレスレットのご感想をいただきました5

2014年05月22日 (木) 01 : 46
ながなが更新してなくてごめんなさい!!
例によって、石アクセ制作期間でございました。
ブログって、「毎日更新=アクセス安定」がセオリーみたいな世界なので、私のところは長年そのブログ世界のセオリーから逸脱した世界展開をしておりまして。
たしかにまぁ、毎日こつこつは大事なんですけれどね。
(これはもちろん「いいこと」にも言えるんですけれど、知らず知らずのうちに毎日こつこつため混んじゃってる自分自身のハートの声とは別のジョーシキ的な世界観のようなもの(本当はなんらかの作られた意図があるものかもしれないのに)のような感じのことも、実際この世界には多いので、気をつけなきゃな~とか思います)


ということで、いただいているご感想、ちょっとたまってきちゃいましたので^^とりあえず、今日はひとつだけアップさせていただきます♪
今日以降、月末の新作アクセサリのプレビュー写真のアップもスタートしますので、そちらも楽しみになさっていてください。


それでは、
「クリソコラ」ブレスレットのご感想をいただき掲載の許可をいただきましたので、掲載させていただきます。


(転載ここから)

お世話になっております、○○です。


クリソコラを手にしてからのことを神崎様にメールしたいなあ、と4月の終わりから思っておりまして、渡米のための出国のどさくさのあと、テネシーに到着してブログを拝見したら、ちょうどみなさまの「石の感想」が掲載されていました。
これは、嬉しいです。
ほかの方がどのように石をとらえているのかを知ることができる取り上げ方だと思いました。
いわゆる「石が効く」っていう情報ではなくて、石はエネルギーを出していて、みなさん思い思いに感じたり付き合っているようすを知らせていただいたという受け止め方です。私の石を愛する心の振動も増幅されたような気がしています。いやあ、石って愛しいですよね。


なんとなくの感想で生意気ですが、2012年頃くらいまでの記事からイメージできる神崎様は確かに「愛用者の感想」は載せないような方でした。
そういう、クールな感じに安心してブログを愛読していたのですが、個人的には2013年後半からもっと丹念にブログを拝見するようになったなか、このたびご説明されていたような心模様はとても自然に感じられました。
「記事が提灯記事にならないか」心を配られていらっしゃるのは折々に伝わりましたし、その潔さが好きでした。
そこからゆるやかに神崎様に集まる石への思いをブログを介して開け放していただくようになったこの流れは、なーんか、うれしいのです。
文中から神崎様の何かを手放された感触のおおらかなやわらかさも伝わってきまして、それも読んでいて気持ちよいのです。


少しなれなれしいのを承知で、私も自分の小さな「行儀よくふるまうべき」こだわりをここだけ外して、下記のように思っています。
「すっげいいっすよ!みんなの石の話。神崎さんがいいなと思う限りこだわりなく続けてほしい。私は神崎さんのブログで石のことにうなずいたり、知らない石を知ったり、PCを離れて石を見つめてさわって石にうっとりする時間が大好き。それから、神崎さんを介在して立ち現われるいろんな事象を神崎さんの文章をとおして知ることが今の私にはすんごい大きいかもしれない。神崎さんのあらゆるコーディネート(「自由で多彩」で周りの方が神崎さんを評して言ったことに近い意味を含んでいるかもしれません)の才を読み知ることで、自分のコーディネートの才も意識したのさ。そのタイミングで私も自分のことを楽しめるようになってきてるみたい。これは神崎さんへの盲信でも嫉妬でもないよ。伝えたい。石のことを伝えてくれてうれしい。私もこんなに自由な世界になった」
恥ずかしながらむきだしの思いはこんな言葉になります。


クリソコラの感想をお伝えする前に、上の文章を書いたことですでに自分がおなか一杯になってしまいましたが、もう少し続けさせていただくことをお許しいただけたらと思います。
クリソコラを新しく腕にして過ごした出国前の半月近くの私の機嫌のよさは、たぶんクリソコラと馬が合った結果のように思います。
クリソコラ以前は、一年弱とはいえ、住まいの土地から離れることに湿った思いつめた感覚を持っていて、惜しみながら過ごしていたのです。(惜しむにも体力がいるのでもうほとほと疲れ果てて、はやくアメリカに行ってしまいたかったのですけれど)
それがクリソコラが来てからほどなく、気づいたら「これも旅で、今だけ!」と心が横断歩道を渡るときも叫んでいて。
家事の時間ですら、よく寝た後の子どもみたいなご機嫌で無邪気な気持ちになっていました。
ただの買い物で歩き回っているだけでも、どこかうきうきして、不思議と醒めていて、視力がよくなった感じがしていました。
4月の終わりから5月の初めのあの緑の美しさを人生で一番無心に楽しめたのではないでしょうか。感傷に引っ張られることもなく、ただ美しさを見つめることに没頭できた時間がありました。


おかげさまでクリソコラ以降、出国までは住んでいる土地と甘い恋をした期間となりました。
今は、熟したら離れた、だからこっちに来ただけ、という(現実の事情は抜きにした)さっぱりした、やっぱり口数の少ない機嫌のよい子供みたいな気分です。
いまちょっと引っかかってしまうことがあるとすれば、あまりにもクリソコラと同調しているときの気分が自然なために、過去のデータを当てはめようとする自分が顔を出して「その感覚でずっと幸せで問題なくいられるわけなんてない」と主張してくるときの動揺の落差ですね。
機嫌のいい私は「いや、私はもうこの機嫌よさは当たり前のものとして生を終えるよ?もう決めちゃったよ?」と動じないのですが、そんな自分に乗り始めるのにまだ慣れていない、と主張する、暮らしの中でひとと話すときの人格の私は、すごい怖がって心臓がバクバクいうんですよね。まあ、この不安は前からですが、よりコントラストが強くなったなあ、飛び越えられるかな?ってそんな自分の変化を見つめているところです。
心臓への負担は、困るのですが「いつでもベストコンディションでいたいなんて思うなよ。
そのなかだって旅だよ。通過できるよ」みたいなつぶやきがわいてきたのが以前と違うなあと思っています。前はもっと完璧にベストじゃなきゃ変だと思ってじめっと焦ってました。


神崎様のご返信のなかのメッセージでとてもはっとしたものがありました。

>それにココロの奥の自分は、結局自分自身のいちばんの味方ですので^^そんな心を有する本体を奈落に突き落とすような状況を作りません。むしろその逆かと思います♪

自分が自分の一番の味方という感覚は、ありませんでしたね。
あるいはすっかり忘れていたように思っていたものでした。
メールの中で一番心に残っていて、気になっていたのですが、今の私は、何も決められなくて縮こまって泣いているイメージの過去の私をやさしい目のままで次第に遠くに見ているようです。
結構ですね、今はなんでもどしどし、「こっちのがいい」って時間かけずに決められちゃうんですよ。
だから、決められなくて困って泣いていた自分のことも疎ましくなんかならなくて、可愛そうにね、って愛しい気持ちになるのですよね。イメージでしかないですけれど、視覚化できるとものすごい現実的に自分に作用しているんだなあと思っています。
こう書いていると、クリソコラは私の視覚にアプローチして、一緒に生きることを楽しんでくれている気がしてきます。
機嫌がいいから口数が少ないという状態の5歳の男の子の集中力で今を生きることを私にけしかけているように思えてきました。


最後に、クリソコラはこちらの赤茶の土とだだっ広い空の下で見るほうが格段としっくりきます!
アメリカにファンが多い石だとどこかで目にしたことがありますが、この地の自然との相性を知覚すると、うなずけるものがあります。
昼に外で眺めていると「よくここまで連れ出してきてくれた!」と言われているようにうぬぼれるときがあります。
プレゼントでいただいたアーカンソー産水晶も、そうなんですよね。
切れ味がより鋭くなって、シュッとしてます。(惚れ直させる佇まいです)
生活の立ち上げをガイドしてくださった方が、アーカンソー州で学業を修められた日本の方で、私には偶然とは片づけたくない出会いでした。
実は、出国前に「ARIZONA GUIDE」に強く惹かれました。アメリカ行くのに、今から注文も、、と思いとどまりましたが、ショップのほうですぐにお買い上げされた方がいらっしゃったようでうれしく思いました。
機会に恵まれたら「セドナもグランドキャニオンもツーソンも」、その土と空をこの目で見てみたいなと思います。
この土地での石との出会いも楽しみですが、また神崎様の石にご縁があるのを待っています。
末尾になりますが、お目通しをいただきありがとうございました。お体何よりも大切になさってください。願っています。

(転載ここまで)


あれですよね~。
こう、ここんとこ長年に渡る携帯文化が蔓延する社会となって以降は、「ネットで短文」って、けっこう常識みたいになっちゃって、だから、だんだん人々の「長文読解力」のようなもの? それが失われつつあるんじゃないだろうか・・・うちみたいな長文ブログを好んで読むような人は、年々減っていってるんじゃないだろうか・・・とかですね、近年、いわゆる自分のトコロの商売の計算のアタマの思考回路では^^ちょっと危惧するところもあったんですよね。
ジブンもなんとか短文表現でいけるようにならなきゃ~、とか思いつつも、それもかなり無理があって。
いわば「テレパシー」の時代になれば、それでいいんだとは思うんですよ。(テレパシーの世界はけっして短文なのではなく、いわゆる凄い情報量の圧縮ファイルをそのまま受け取って、一瞬でそれを解凍し理解できてしまうことなのだろうと想像している。少し、石の世界に近い。というか、石の世界が5次元に近い、というほうが正しいのか・・・5次元はそういうところですね。ですが、その五次元を「言葉表現」しようとすると・・・とてつもない文章量になってしまう)
だけど、まだ残念ながら、そうなってはいないし。


しかし、私も長文だけど、ご感想も^^わりと長文メールをいただくこと多いんですよ、実際。
(私は特に長文メールは苦になりませんので、長文すみません、とか、謝ってくださらなくていいですよ。だいたい、私自身も自分のそれを謝罪することはあまりないような気がします~。え? それって謝ること? ネチケットというやつなの? まぁ、短文のメールに長文で返事するのは、たしかにそうかもしれませんけどね~。)
わりと傾向として、いわゆるハートの世界のことって、とくに「言葉」を使ってしまうと、短文じゃなかなか表現できない、そういうところ、あるんですよね。


石の世界が萌えなのは・・・それが、その存在だけで事足りてるところ^^っていうか。(でもこれは本当は、私たちひとりひとりの「スピリットの存在」も、等しくそうなんですけれど☆)
その感じ、ご自身と石との交流のエネルギーを、言葉を使って表現する、っていうことになると、ここまでになる。
しかし、詳しく時系列に沿って、ご自身を分析できている様は、すばらしいですね♪
もういつも思うことですが、作った本人が考えている以上に^^石たちの働き者っぷりには、脱帽ものですよね~。


石はよく「情報媒体」的に謳われているのを目にしますけれど(特に、特殊な水晶に多い)その石の中に情報が入っているのを取り出す? って、字面では思えちゃうので、その目新しそうな情報がなにも自分に湧いてこないと、「自分は情報を感知できてはいないんだ・・・」って思っちゃう人も多いのかもしれないんですけれど、そうじゃないんですよね~。
感知できていないのではなくて、「言葉表現として、自我に理解できる状態」として、感じていないだけ、っていうこと。
で、感じていることを、言葉表現にした時に、たとえばすご~く単純な表現になっちゃう場合も、実は「見過ごす」んですよ。
だから、それが石のエネルギーとのコミットで起きたことの表現としてはあまりにカンタン過ぎちゃうと、その場合もね、「自分はなにも感じられませんが」ってことになっている方も、けっこうお見受けするんですよね。
時々、それを指摘させていただくことがあるんですが、「えっっそれでいいんですか。それが石のチカラを感じてるっていうことなんですか」みたいな反応で^^。


さはさながら、どれだけ言葉で表現するよりも、いっこの石ブレスが持つ存在の雄弁さ、そのハッピーなエネルギーの感触というのは、表現としては言葉で表現するしかないんだけど、どう考えても「ハートの喜び」ですよね。
内側から湧いてくる喜びって、やっぱり、嘘つけない感覚だと思うから。


しかし、いいなぁ~、うらやまし~。
アリゾナやっぱ行こうかな~。
(10年以上前に作った10年パスポート、とうとう一回も使わないうちに、全ページ白紙のまま期限切れになった女^^なんですが)
ツーソンくらい、行ってこいよ・・・石屋だろ、おまえ・・・という^^声が聞こえてきそうだ・・・(だって別にそこらじゅうの石屋さんて、みんな普通に毎年ツーソンに行ってるもんね^^。毎年そのツーソンに行ってきた石屋さんからチョイスして、石を仕入れている私だったりするわけですから~)。


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カテゴリ :  お客様の声
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