昨日の記事の続きのような話ですが。
自分に自信を持つこと、というのは、確かに大事なことかな、と思います。
ですが、若かりし頃の私のように、自分に自信がないことを自覚していない、実は本当は自信がなかったんだ、みたいなパターンで「自信がある人間のつもりになっている」ほうが^^、人生を混乱させていくのだな、ということを知りました。
自信がないのであれば、ない、と正直に素直に表に顕せる人のほうが、ずっと良い運びになると思います。
つまりこの「自信がある人間のつもりになっている」が、自分に正直に生きていない姿の典型…とも言えるのかな~と。
正直に生きていないことにすら^^気がついていなかったのだと思いました。
また、「自信がある人間のつもりになる」ために、あれやこれやと画策することも、そうですね。
一見、自信がない自分を正直に表明し、実力を底上げするための努力とも言えるのですが。
世の中には、おびただしい数の、啓蒙本だとか、「こうすればうまくいく」的ノウハウがあるかのように見えますが。
いっとき、ものすごく高揚して上等な技を得た「つもり」になれても、時間がたつと、もとの自分に戻ってしまう…それは、自信がある人間のつもりになっただけ、だからなんですね。きっと。
いや本当に。
石に出会わなかったら、どんな人生になっていたのだろうかと。
いつも思うことですけれど。
今の自分は、自分に自信がありますっっ!! のような、はっきりと声高に人にアピールしたいような要素としてまでは、とくに意識としてはソレはございません。
自信って、そういうものではなかったんですね(笑)。とてもサイレントな目立たないものです。
時を経て…あとから見つけられるこういった過去の自虐ネタのほうに呆れつつ、ですが、それを笑えるというか(笑)、のちのこうした「自分に自信がない人の一例って、こんな感じよ」の教材として、ご披露できたりもするので、重宝ですね。
自分に自信がなかったことを知らなかった時代を経て、そのまま、自信があるフリをしながら^^人生の奈落のドツボへとハマっていった長い時間を経て、そこから「自信喪失したつもりになって(実はもともとなかったんだから^^喪失すらしていないのに)」色々な経験して…緩やかに緩やかに、登って行く途上で、私は、石の世界に出会いまして。
私の場合、
石が色々、願望を実現してくれる、とか。
そういうことで、石は凄い、って気がついたわけではなくて。
(もちろんですが、「石が願望を実現してくれる」という事実も、多々経験はしていますが)
それ以上に、
石が教えてくれたのは、まぁ、カンタンに言ってしまうと、「心に嘘つかなくていい世界」があること。
それは、自分の心のなかにしか、まだ実態がなかったとしても、それがあること。
そして、それは虚像ではなくて、どちらかというと、三次元のこちらの方が、心のスクリーンというか写しの世界なのだということ。
つまり、自分は「石といっしょにいるとかなりな幸福感を感じているんだけど、いったいナニコレ」な状態の、それまで知らなかった実感のある(三次元的には実感、実態はよく見えないし、気のせいレベルの^^)幸福感を知ってしまったのでした。
石の世界にはまっていった当時は、見た目には、なにひとつ、人に自慢できるものなど、自分は持ち合わせてはいませんでした。
世の中基準のものさしで見れば、負け組とも言えたでしょう(笑)。
ですが、最高に幸福でした。
なんでだかわかりませんでしたけれど、生きてて良かった…レベルの^^幸福感を得ていたと思います。
だから、私のその後の世界は、その「心の写し」どおりに、展開していった…と、感じます。
あれだけ嫌だった、会社勤めを、「楽しかったな」と言えるまでに(笑)、最後の派遣営業マンの会社に至っては、得意先の行く先々で「会えなくなるの寂しい」と言ってもらえるまでになりました。
なにも特別なことはしていなかったんですよ。
ただ、石といっしょにいられて「私って幸福だわ」って、毎日思っていただけなんです。
ばかみたいな話ですが。それしかしていませんでしたが、特に人に好かれようと努力しなくても、私の周りは変わったのでした。
それまでの私は、なんら社会に貢献する仕事を成功させてきたわけでもなく、むしろ^^世の中に悪態をつきながら、なんでこんな世の中で人間は生きていかなきゃいけないんだろう…と、思いながら生きていた長い期間があります。
あれってつまり、やっぱり自信がなかった、自分は無力だ、ということへの憤りだったのかな、と今は思います。
「自分の目に映る世界は、自分自身の内面の顕れである」
って言いますけれど、まさに、私は私自身に、悪態をついて、自分を咎めて生きていた黒歴史を上塗りしていく長い期間の^^経験を、みずから好んでしていたのですね。
外側に悪態をついているつもりでも、それは、すなわち、自分相手にそれをしていることになります。
自分自身に悪態をつき、自分を呪えば、それはそのように、外側世界が形成されていきます。
いずれも同じです。
今となっては、大変貴重な資料というか、財産ですね。
「自分を愛することは、自分以外のすべてを愛すること」と同義語なのは、まさに、全部自分…と言えるからですね。
だから本当に、自分を嫌って、腐しちゃいけませんて。
どんなにおばかな己であっても、受け入れ、許してあげましょう。そうしてあげてください。
もちろん、人を嫌うことも、上記の例のように、そのまま自分を嫌い憎むことと同じことになりますし、自分の形勢を悪くしていくことに繋がりますので、本当は嫌わないほうがお得はお得なんですが(笑)、だからといって嫌いな人を無理に好きになることはできないと思いますから、その場合は、「嫌いな人がいることを忘れるくらいに、自分を認め好きになる」ことをお薦めしますね。
そうすると、そちらへ関心がいかなくなり、いつしか、その好き嫌いじたいがどうでもよくなりますし、接点そのものがなくなっていきます。「幸福になってね。但し私とは無関係のところで」くらいの感じで^^突き放してあげたら、相手も開放されて、勝手にそうなってくれますし。(嫌いな人には相手の幸福を願うのが一番なんですよね。それが繋がりをなくす方法でもあり。えっこの世界はワンネスなのに(笑)それでいいのか、と言われるかもしれませんが。いいんですよ。粘着に嫌い続ける、関心持ち続けるよりは)
私と同じように、生きてて良かったレベルまでの^^石とのコラボ生活をしましょう、までは、さすがにお薦めはしませんし、また、そうならなきゃ、ということではありません(笑)。
どっかでキ○○○みたいなものです。
どなたにも、他人から見れば「それがなんで?」レベルの些細なことであっても、その人なりの、幸福感が得られる、自分で自分を認められる世界があると思います。
それを無視しないで、大事にしてくださいね。
そこから、世界は拡がっていく可能性があるから。
(と言っても、これも無理やり「これがそうか」と家探しする必要もないのですけれど。)
ちなみに、私は、石の世界に触れ始めた当時は、クレアボヤンスが発達した人々のように、なにやら高次の世界が「見えている」人ではありませんでしたが、まさに、石に助けてもらって、それまでの人生で無視し続けてきた^^高次ガイダンスとツーカーになっていった時期だったと思います。(それまでも、折々で、しっかりガイダンスというのはあったのです。これはどなたにも必ずあります。ただ、本人がそれに気付こうとしていない、気付けるレベルではないくらいに^^我が強かったりするだけです)
見えているわけではなかったから(笑)自分でも確信は持ててはおりませんでしたけれど、自分の行動ひとつひとつが「信じられる」というか、導きがわかる、ゆだねられる、誰かに決めてもらわなくても素直にそうだと感じられる感覚は、それです。
多少見えるようになってみると、やっぱりそうだったんだ、と、より思います。
そして、見えていることそのもの、よりも、やはり大事なのは、「そう感じられる、信じられる、感覚」のほうだったんだな、って思います。
自分に自信を持つこと、というのは、確かに大事なことかな、と思います。
ですが、若かりし頃の私のように、自分に自信がないことを自覚していない、実は本当は自信がなかったんだ、みたいなパターンで「自信がある人間のつもりになっている」ほうが^^、人生を混乱させていくのだな、ということを知りました。
自信がないのであれば、ない、と正直に素直に表に顕せる人のほうが、ずっと良い運びになると思います。
つまりこの「自信がある人間のつもりになっている」が、自分に正直に生きていない姿の典型…とも言えるのかな~と。
正直に生きていないことにすら^^気がついていなかったのだと思いました。
また、「自信がある人間のつもりになる」ために、あれやこれやと画策することも、そうですね。
一見、自信がない自分を正直に表明し、実力を底上げするための努力とも言えるのですが。
世の中には、おびただしい数の、啓蒙本だとか、「こうすればうまくいく」的ノウハウがあるかのように見えますが。
いっとき、ものすごく高揚して上等な技を得た「つもり」になれても、時間がたつと、もとの自分に戻ってしまう…それは、自信がある人間のつもりになっただけ、だからなんですね。きっと。
いや本当に。
石に出会わなかったら、どんな人生になっていたのだろうかと。
いつも思うことですけれど。
今の自分は、自分に自信がありますっっ!! のような、はっきりと声高に人にアピールしたいような要素としてまでは、とくに意識としてはソレはございません。
自信って、そういうものではなかったんですね(笑)。とてもサイレントな目立たないものです。
時を経て…あとから見つけられるこういった過去の自虐ネタのほうに呆れつつ、ですが、それを笑えるというか(笑)、のちのこうした「自分に自信がない人の一例って、こんな感じよ」の教材として、ご披露できたりもするので、重宝ですね。
自分に自信がなかったことを知らなかった時代を経て、そのまま、自信があるフリをしながら^^人生の奈落のドツボへとハマっていった長い時間を経て、そこから「自信喪失したつもりになって(実はもともとなかったんだから^^喪失すらしていないのに)」色々な経験して…緩やかに緩やかに、登って行く途上で、私は、石の世界に出会いまして。
私の場合、
石が色々、願望を実現してくれる、とか。
そういうことで、石は凄い、って気がついたわけではなくて。
(もちろんですが、「石が願望を実現してくれる」という事実も、多々経験はしていますが)
それ以上に、
石が教えてくれたのは、まぁ、カンタンに言ってしまうと、「心に嘘つかなくていい世界」があること。
それは、自分の心のなかにしか、まだ実態がなかったとしても、それがあること。
そして、それは虚像ではなくて、どちらかというと、三次元のこちらの方が、心のスクリーンというか写しの世界なのだということ。
つまり、自分は「石といっしょにいるとかなりな幸福感を感じているんだけど、いったいナニコレ」な状態の、それまで知らなかった実感のある(三次元的には実感、実態はよく見えないし、気のせいレベルの^^)幸福感を知ってしまったのでした。
石の世界にはまっていった当時は、見た目には、なにひとつ、人に自慢できるものなど、自分は持ち合わせてはいませんでした。
世の中基準のものさしで見れば、負け組とも言えたでしょう(笑)。
ですが、最高に幸福でした。
なんでだかわかりませんでしたけれど、生きてて良かった…レベルの^^幸福感を得ていたと思います。
だから、私のその後の世界は、その「心の写し」どおりに、展開していった…と、感じます。
あれだけ嫌だった、会社勤めを、「楽しかったな」と言えるまでに(笑)、最後の派遣営業マンの会社に至っては、得意先の行く先々で「会えなくなるの寂しい」と言ってもらえるまでになりました。
なにも特別なことはしていなかったんですよ。
ただ、石といっしょにいられて「私って幸福だわ」って、毎日思っていただけなんです。
ばかみたいな話ですが。それしかしていませんでしたが、特に人に好かれようと努力しなくても、私の周りは変わったのでした。
それまでの私は、なんら社会に貢献する仕事を成功させてきたわけでもなく、むしろ^^世の中に悪態をつきながら、なんでこんな世の中で人間は生きていかなきゃいけないんだろう…と、思いながら生きていた長い期間があります。
あれってつまり、やっぱり自信がなかった、自分は無力だ、ということへの憤りだったのかな、と今は思います。
「自分の目に映る世界は、自分自身の内面の顕れである」
って言いますけれど、まさに、私は私自身に、悪態をついて、自分を咎めて生きていた黒歴史を上塗りしていく長い期間の^^経験を、みずから好んでしていたのですね。
外側に悪態をついているつもりでも、それは、すなわち、自分相手にそれをしていることになります。
自分自身に悪態をつき、自分を呪えば、それはそのように、外側世界が形成されていきます。
いずれも同じです。
今となっては、大変貴重な資料というか、財産ですね。
「自分を愛することは、自分以外のすべてを愛すること」と同義語なのは、まさに、全部自分…と言えるからですね。
だから本当に、自分を嫌って、腐しちゃいけませんて。
どんなにおばかな己であっても、受け入れ、許してあげましょう。そうしてあげてください。
もちろん、人を嫌うことも、上記の例のように、そのまま自分を嫌い憎むことと同じことになりますし、自分の形勢を悪くしていくことに繋がりますので、本当は嫌わないほうがお得はお得なんですが(笑)、だからといって嫌いな人を無理に好きになることはできないと思いますから、その場合は、「嫌いな人がいることを忘れるくらいに、自分を認め好きになる」ことをお薦めしますね。
そうすると、そちらへ関心がいかなくなり、いつしか、その好き嫌いじたいがどうでもよくなりますし、接点そのものがなくなっていきます。「幸福になってね。但し私とは無関係のところで」くらいの感じで^^突き放してあげたら、相手も開放されて、勝手にそうなってくれますし。(嫌いな人には相手の幸福を願うのが一番なんですよね。それが繋がりをなくす方法でもあり。えっこの世界はワンネスなのに(笑)それでいいのか、と言われるかもしれませんが。いいんですよ。粘着に嫌い続ける、関心持ち続けるよりは)
私と同じように、生きてて良かったレベルまでの^^石とのコラボ生活をしましょう、までは、さすがにお薦めはしませんし、また、そうならなきゃ、ということではありません(笑)。
どっかでキ○○○みたいなものです。
どなたにも、他人から見れば「それがなんで?」レベルの些細なことであっても、その人なりの、幸福感が得られる、自分で自分を認められる世界があると思います。
それを無視しないで、大事にしてくださいね。
そこから、世界は拡がっていく可能性があるから。
(と言っても、これも無理やり「これがそうか」と家探しする必要もないのですけれど。)
ちなみに、私は、石の世界に触れ始めた当時は、クレアボヤンスが発達した人々のように、なにやら高次の世界が「見えている」人ではありませんでしたが、まさに、石に助けてもらって、それまでの人生で無視し続けてきた^^高次ガイダンスとツーカーになっていった時期だったと思います。(それまでも、折々で、しっかりガイダンスというのはあったのです。これはどなたにも必ずあります。ただ、本人がそれに気付こうとしていない、気付けるレベルではないくらいに^^我が強かったりするだけです)
見えているわけではなかったから(笑)自分でも確信は持ててはおりませんでしたけれど、自分の行動ひとつひとつが「信じられる」というか、導きがわかる、ゆだねられる、誰かに決めてもらわなくても素直にそうだと感じられる感覚は、それです。
多少見えるようになってみると、やっぱりそうだったんだ、と、より思います。
そして、見えていることそのもの、よりも、やはり大事なのは、「そう感じられる、信じられる、感覚」のほうだったんだな、って思います。

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カテゴリ : ちょっとスピリチュアルな話
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