少し日があいてしまいまして、申し訳ございませんでした。
2月の制作と並行してブログに記事アップしていたんですけれど、ここ3日は集中して制作の詰めに入っておりました。
その間、2週連続の大雪が降り、困難な状況に遭遇されたみなさまには、謹んでお見舞い申し上げます。
しんしんと降り積もる雪・・・という荘厳な静寂のイメージとは裏腹な面、特に我々人間にとっては時としてその荘厳さは自然の驚異として映る面もありますね。
「みろく幕開け」の記事にある666を発見した時に、みろくの世がスタートするっていうことは、色々、そう色々な今までに前例のないこと、色々なことが出てくるんだ~・・・そう思って、急がねば!! とスタートさせた、カルマ返上日記でした。
(なぜ「急がねば!!」なのかというと、色々カオスな様相の世界の感じになってくるとですね、個人が個人のカルマに向き合う、カルマ発見などの機会もどんどん流れ去っていく・・・わけなんですよ。)
ソチ・オリンピックでは、10代の金メダリストの台頭。
彼らはクリスタルチルドレン? レインボーなのかな?
果てしない可能性を秘めて次元アップ地球のために生まれてきた魂と言われます。
家人と話していたんだけど、そういえば、われわれのようないいオトナが子供の頃の時代って・・・「子供の可能性」とかそういう視点で社会が機能してなかった、っていうことを、家人がポツリ、と。
「え~、でもあなたは、可能性そのもので生きてきているじゃんか?(というか、それ以外の生き方を知らない^^という)」と言ったら、家人は「それは自分が勝手にそうやってきただけの話で、大人がさ、子供に対してそういうことを思わない、そういうことを話す大人がいなかったよな、って。そう思うと、今は、親がいいんだろうな。っていうか、むしろ今みたいな先が見えない世の中だから、大人のほうも、子供に対しては、なにも先のことを決められないぶん、子供の可能性ってものをようやく考えるようになったのかもしれない。まぁ、みんながみんなそういう親ばかりじゃないだろうけど、少なくとも、昔よりは、そういう40代の親とか。」
ふたりで、ひとしきり、腐った大人たち(成長した自分たちも含めてですけれどね)が創ってきてしまったこんな世の中、こんな日本で、ああいった素敵な純粋な、凄い才能を開花させる10代が、成長している・・・ということへの畏怖感を感じておりました。
日本がダメダメでも、こういう子たちの可能性を摘んでしまうことなく、育てられる親となった40代の大人の人たちもたくさんいらっしゃる。
だから、日本はまだもっているんだろうな。。。
さて、カルマ返上日記の続きです^^。
「心がウンと言うことに素直に従う」ことが、いわばハイアーセルフとの同調・・・っていうことですが、これは万人が現実的になかなかそうできないのは、やはり人間ひとりで生きているわけではない、という三次元事情が常に絡むからですよね。
こういうことに、家族など同居する者同士のしっかりした心の絆と理解、イニシアチブがとれていないと、現実世界ではけっこう悲惨です^^。修羅場になったりします。
とくにね、上記の話をしていて気が付いたんだけど、「人間に、子供に、可能性っていうものがある」っていう世界ではなかった、そういうものになじみのない現実環境の中生きてきたオトナ世代は・・・「心がウンと言うことに素直に従う」ことに慣れていないぶん、しっちゃかめっちゃかというか^^生きて行くことそのものが、壁との遭遇なんじゃないだろうか・・・のドツボにはまることも、ままあります。
・・・しかし。それこそが、珠玉のカルマのお題発見。
魂の真の目的に遭遇の、大チャンスのステージ。
・・・でもあるのです。悲しいかな。
「現実問題」といういかにもそれらしく実態があり困難に映る問題は、その魂の側の真の目的に比べれば・・・もう、なんというか、それはなんら問題ではなく、やっぱりチャンス到来の合図というか。
また、そういうキャストを選んで、自ら引き寄せているというか、たとえば「親」だとかそういう切っても切れない縁のあるような存在もそうだし、結婚だとかの相手もそういうケースも多いですよね。
人が生きる目的って・・・やっぱり残念ながら^^という言い方はあれですが、単に幸福になるためにとかそういう目先の話ではなくて、魂がなにを目的としてここにやってきているか、に大きくそのヒトそのヒトの生き方が左右される霊主肉従であることは、もう動かせない真理かな、という気がします。
この「霊」は、ややこしい話ですが、今生きている自分自身の個性の限りではなくて、自分を含めた、もっと壮大な大きな霊なので、自我の視点からだけ見ていると「自分の人生パターンは貧乏くじ引いているとしか思えない」なんて^^そこだけ局地的に見ちゃうとなんだか切ないケースもあるかもしれないんだけど、局地的ではない目線でそれを教えてくれているのが、「カルマ」という障害物なんです。
これに気づき、そこを越えていくことが、地球に生きる、ひとつの理由でもありますね。
もうね、「どんなに醜いものを見ても、愚痴を言わず、弱音を吐かず、ただ希望を失わず、ひたすら感謝で生きる」って、それだけでも、魂や、魂を含む、宇宙への貢献度は計り知れないものがあると思います。
なにかいっとき、此の世で大きな名声や注目を得るような仕事をして、多くの人に賞賛されたりするような、それはそんなミズモノ程度の貢献度ではないですよ。
カルマというテーマを知り、そこに気づき、心の目を開いていくこと。
たとえ少数派であろうと、それが今は。。。今だけではなくもしかしたら仮にずっと自分ひとりかもしれなくても、誰にも認められることがなくても、自分の心の声に嘘をつかずに、心の声にしたがうこと。
よく、スピリチュアル本やスピリチュアルメッセージなんかでも言われる、「自分自身を愛してください」の真意も、自分自身を大切にしよう、っていうところが我欲や我良しの負のカルマの増産につながっていくことももちろんあるんですけれど、やっぱり、基本、自分を真の意味で大切にしようって部分に目覚めることがなければ、ハートの声が聞こえてくることもないですよね。
自分のことが本当にどうでもいいのであれば、どうでもいい生き方、人の意のままの生き方、そういうものを表面的にただ受け入れていくことに疑問すら出てこない、そして、自分のことだってどうだっていいのであれば、まさにその上で生かしてもらっている地球がどうなろうと関係ない・・・気にもしない・・・となっていっても、不思議ではない。
というようなことを昔からハートで知っていれば良かったんですけどねぇ、あたくしも^^。
ハートのちからが発動していても、なにかとそこに、常識やら此の世の大多数の慣習的な世界を持ち出してきてしまい、思い込み、刷り込みの世界との比較検証に走りがちで、「自分には無理。できない、そんなこと」と、後ろを向いてしまいがちなんですが、「現実」って・・・長く生きてくると感じることですが、やっぱり幻想というか、たしかにそこにあったものでも、いずれ流れ去っていきます。
「諸行無常」はトシとると^^わかってくるものなんですな。
変わらないものは何一つとしてないのですね。
私がそういうハートの声を本当に意識して聞き分けられるようになったのは、作詞家時代にもその片鱗はあったと思うけれど、むしろあれはある意味そういう「感覚的」と呼ばれるものを見分けることができるようになるための修行の時代だったんじゃないだろうか、って、石に出会ってから思うようになりました。
そして、石たちに出会ってから、少しずつですが、人生の意味・・・見えない世界、魂の世界とこの現実世界の関連性や、現実にここにいることの意味など・・・見えてくるものがたくさんあり、石に教えてもらうことばかりでした。
なによりも、ようやく、「自分のことを好きだと思えるようになった」のは、彼らのチカラです^^。
自分のことを好きだと心底感じられないままに、人生を終わる可能性だってあったわけです。そして、此の世には、それができなくて苦しんでいる人も多いんじゃないかと思います。
自分のことを好きでなかったとしても、だれもが自己保存本能があり、自己保身の気持ちがあると思います。
なので、だれもが自分のことを好き、むしろ自分のことしか考えてないような人ばかりではないか? って、昔はよく感じていたんですけれど、「自己保身が自分を守ること」というふうに曲解していたのは、他ならぬ自分であったことに気が付いた時から、私の周囲には、自分のことしか考えていない人・・・と見える人々が一掃された、というか、以後自分の世界にはあまりそのように感じられる人に出会わなくなっていったんですね。
やはり、世界は、自分の鏡・・・写し、っていうのは、本当かもしれないです。
今は、二極化の三次元世界・・・どころか、世界は一見どんどん分断され混沌とした内容になってきているようにも見えます。
しかし少なくとも、もう右向け右、でいっせいに右を向かされる・・・そういう日本人ではないでしょう。
ソチ・オリンピックにも、見られるように。
多くの方が、それぞれに、ハートの声に従う時代の到来で、中心軸を自分の中に持つ・・・そういう世界が展開されてきていますね。
2月の制作と並行してブログに記事アップしていたんですけれど、ここ3日は集中して制作の詰めに入っておりました。
その間、2週連続の大雪が降り、困難な状況に遭遇されたみなさまには、謹んでお見舞い申し上げます。
しんしんと降り積もる雪・・・という荘厳な静寂のイメージとは裏腹な面、特に我々人間にとっては時としてその荘厳さは自然の驚異として映る面もありますね。
「みろく幕開け」の記事にある666を発見した時に、みろくの世がスタートするっていうことは、色々、そう色々な今までに前例のないこと、色々なことが出てくるんだ~・・・そう思って、急がねば!! とスタートさせた、カルマ返上日記でした。
(なぜ「急がねば!!」なのかというと、色々カオスな様相の世界の感じになってくるとですね、個人が個人のカルマに向き合う、カルマ発見などの機会もどんどん流れ去っていく・・・わけなんですよ。)
ソチ・オリンピックでは、10代の金メダリストの台頭。
彼らはクリスタルチルドレン? レインボーなのかな?
果てしない可能性を秘めて次元アップ地球のために生まれてきた魂と言われます。
家人と話していたんだけど、そういえば、われわれのようないいオトナが子供の頃の時代って・・・「子供の可能性」とかそういう視点で社会が機能してなかった、っていうことを、家人がポツリ、と。
「え~、でもあなたは、可能性そのもので生きてきているじゃんか?(というか、それ以外の生き方を知らない^^という)」と言ったら、家人は「それは自分が勝手にそうやってきただけの話で、大人がさ、子供に対してそういうことを思わない、そういうことを話す大人がいなかったよな、って。そう思うと、今は、親がいいんだろうな。っていうか、むしろ今みたいな先が見えない世の中だから、大人のほうも、子供に対しては、なにも先のことを決められないぶん、子供の可能性ってものをようやく考えるようになったのかもしれない。まぁ、みんながみんなそういう親ばかりじゃないだろうけど、少なくとも、昔よりは、そういう40代の親とか。」
ふたりで、ひとしきり、腐った大人たち(成長した自分たちも含めてですけれどね)が創ってきてしまったこんな世の中、こんな日本で、ああいった素敵な純粋な、凄い才能を開花させる10代が、成長している・・・ということへの畏怖感を感じておりました。
日本がダメダメでも、こういう子たちの可能性を摘んでしまうことなく、育てられる親となった40代の大人の人たちもたくさんいらっしゃる。
だから、日本はまだもっているんだろうな。。。
さて、カルマ返上日記の続きです^^。
「心がウンと言うことに素直に従う」ことが、いわばハイアーセルフとの同調・・・っていうことですが、これは万人が現実的になかなかそうできないのは、やはり人間ひとりで生きているわけではない、という三次元事情が常に絡むからですよね。
こういうことに、家族など同居する者同士のしっかりした心の絆と理解、イニシアチブがとれていないと、現実世界ではけっこう悲惨です^^。修羅場になったりします。
とくにね、上記の話をしていて気が付いたんだけど、「人間に、子供に、可能性っていうものがある」っていう世界ではなかった、そういうものになじみのない現実環境の中生きてきたオトナ世代は・・・「心がウンと言うことに素直に従う」ことに慣れていないぶん、しっちゃかめっちゃかというか^^生きて行くことそのものが、壁との遭遇なんじゃないだろうか・・・のドツボにはまることも、ままあります。
・・・しかし。それこそが、珠玉のカルマのお題発見。
魂の真の目的に遭遇の、大チャンスのステージ。
・・・でもあるのです。悲しいかな。
「現実問題」といういかにもそれらしく実態があり困難に映る問題は、その魂の側の真の目的に比べれば・・・もう、なんというか、それはなんら問題ではなく、やっぱりチャンス到来の合図というか。
また、そういうキャストを選んで、自ら引き寄せているというか、たとえば「親」だとかそういう切っても切れない縁のあるような存在もそうだし、結婚だとかの相手もそういうケースも多いですよね。
人が生きる目的って・・・やっぱり残念ながら^^という言い方はあれですが、単に幸福になるためにとかそういう目先の話ではなくて、魂がなにを目的としてここにやってきているか、に大きくそのヒトそのヒトの生き方が左右される霊主肉従であることは、もう動かせない真理かな、という気がします。
この「霊」は、ややこしい話ですが、今生きている自分自身の個性の限りではなくて、自分を含めた、もっと壮大な大きな霊なので、自我の視点からだけ見ていると「自分の人生パターンは貧乏くじ引いているとしか思えない」なんて^^そこだけ局地的に見ちゃうとなんだか切ないケースもあるかもしれないんだけど、局地的ではない目線でそれを教えてくれているのが、「カルマ」という障害物なんです。
これに気づき、そこを越えていくことが、地球に生きる、ひとつの理由でもありますね。
もうね、「どんなに醜いものを見ても、愚痴を言わず、弱音を吐かず、ただ希望を失わず、ひたすら感謝で生きる」って、それだけでも、魂や、魂を含む、宇宙への貢献度は計り知れないものがあると思います。
なにかいっとき、此の世で大きな名声や注目を得るような仕事をして、多くの人に賞賛されたりするような、それはそんなミズモノ程度の貢献度ではないですよ。
カルマというテーマを知り、そこに気づき、心の目を開いていくこと。
たとえ少数派であろうと、それが今は。。。今だけではなくもしかしたら仮にずっと自分ひとりかもしれなくても、誰にも認められることがなくても、自分の心の声に嘘をつかずに、心の声にしたがうこと。
よく、スピリチュアル本やスピリチュアルメッセージなんかでも言われる、「自分自身を愛してください」の真意も、自分自身を大切にしよう、っていうところが我欲や我良しの負のカルマの増産につながっていくことももちろんあるんですけれど、やっぱり、基本、自分を真の意味で大切にしようって部分に目覚めることがなければ、ハートの声が聞こえてくることもないですよね。
自分のことが本当にどうでもいいのであれば、どうでもいい生き方、人の意のままの生き方、そういうものを表面的にただ受け入れていくことに疑問すら出てこない、そして、自分のことだってどうだっていいのであれば、まさにその上で生かしてもらっている地球がどうなろうと関係ない・・・気にもしない・・・となっていっても、不思議ではない。
というようなことを昔からハートで知っていれば良かったんですけどねぇ、あたくしも^^。
ハートのちからが発動していても、なにかとそこに、常識やら此の世の大多数の慣習的な世界を持ち出してきてしまい、思い込み、刷り込みの世界との比較検証に走りがちで、「自分には無理。できない、そんなこと」と、後ろを向いてしまいがちなんですが、「現実」って・・・長く生きてくると感じることですが、やっぱり幻想というか、たしかにそこにあったものでも、いずれ流れ去っていきます。
「諸行無常」はトシとると^^わかってくるものなんですな。
変わらないものは何一つとしてないのですね。
私がそういうハートの声を本当に意識して聞き分けられるようになったのは、作詞家時代にもその片鱗はあったと思うけれど、むしろあれはある意味そういう「感覚的」と呼ばれるものを見分けることができるようになるための修行の時代だったんじゃないだろうか、って、石に出会ってから思うようになりました。
そして、石たちに出会ってから、少しずつですが、人生の意味・・・見えない世界、魂の世界とこの現実世界の関連性や、現実にここにいることの意味など・・・見えてくるものがたくさんあり、石に教えてもらうことばかりでした。
なによりも、ようやく、「自分のことを好きだと思えるようになった」のは、彼らのチカラです^^。
自分のことを好きだと心底感じられないままに、人生を終わる可能性だってあったわけです。そして、此の世には、それができなくて苦しんでいる人も多いんじゃないかと思います。
自分のことを好きでなかったとしても、だれもが自己保存本能があり、自己保身の気持ちがあると思います。
なので、だれもが自分のことを好き、むしろ自分のことしか考えてないような人ばかりではないか? って、昔はよく感じていたんですけれど、「自己保身が自分を守ること」というふうに曲解していたのは、他ならぬ自分であったことに気が付いた時から、私の周囲には、自分のことしか考えていない人・・・と見える人々が一掃された、というか、以後自分の世界にはあまりそのように感じられる人に出会わなくなっていったんですね。
やはり、世界は、自分の鏡・・・写し、っていうのは、本当かもしれないです。
今は、二極化の三次元世界・・・どころか、世界は一見どんどん分断され混沌とした内容になってきているようにも見えます。
しかし少なくとも、もう右向け右、でいっせいに右を向かされる・・・そういう日本人ではないでしょう。
ソチ・オリンピックにも、見られるように。
多くの方が、それぞれに、ハートの声に従う時代の到来で、中心軸を自分の中に持つ・・・そういう世界が展開されてきていますね。

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カテゴリ : ちょっとスピリチュアルな話
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