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2011年08月23日の記事のリスト

天使ブレスを作らなきゃ

2011年08月23日 (火) 14 : 39
作らなきゃ^^ってのもヘンですが、あれなんですよ、ここんとこ、神様エナジー系に走っている(というほどでもないですが)ところもあるんですが、ちょっと前に入手した「不思議のメダイ」などなどありまして、以降、ちょこまかとなにげにメダイ入りアクセをお出ししてはいるものの、あれ、作為的^^には作れないんです。
メダイに合わせて作る、ってことができないの。
作っているうちに、「ああ、これにはこれを入れるといいんだな」というのがわかったりするわけです。


そのようなわけで、複数ジャンル、「不思議のメダイ」それ以外にも入手してみたメダイ、まだ出番ナシのものに、「守護の天使」というのがありましてね。
かの有名な、みなさんが大好きな人気者(ヒトじゃないですが)ミカエル大天使のメダイなんですよ。
これ、最初っから作る気満々^^だったのに、延びに延びてまして、楽しみに(?)なさってくださっている方もいらっしゃるし~、今月こそは作らなきゃ!! みたいな使命感にもゆる思いとは裏腹に、な~んか、できない、うまく仕上がらない・・・と。


もんもんとしながらも、着手して、で、すっごい、これイイ!!!・・・というのができてきたんだけど、ミカエル大天使メダイを合わせてみると・・・なんか違う・・・なんか違うんだけど、でも何これは? このイイ感じは? という感じで、派生的に^^仕上がったりしたのが、なんとですね・・・「マグダラのマリア」様のエナジーな^^石組みになっていたりしたわけです。


「マグダラのマリア(マグダレナ)」聖書の中では極めて扱いが凡庸^^というか、それほど重要人物的には描かれてはおりません。
(でも実際には、イエス様「わが最愛の弟子」なんですがね)
福音書というものもありませんので、実際に彼女が残した言葉、というものがないのに、なぜかその「存在のエネルギー」的なモノを好ましく思う人は、世界中にわりといるものなんだな。。。ということは、こういうインターネットの時代以降、知るようになりましたが、そういうことを知らない以前から、自分は長年隠れファンでした。
なんといってもですね、聖書など開いたことすらなかった高校生の頃ですが、修学旅行で行った先の倉敷のキリスト教会でですね(・・・いったい何年前の話だ・・・)聖書の絵画ポストカードなんかが売ってたわけなんですが、あたしがたった一枚、心惹かれたポストカードに描かれていたのが、そのマグダラのマリア、であったわけです。
いやなに、死んじゃったイエス様を抱きかかえながら号泣している姿、題して「哭くマグダレナ」だったんですが。
ここには、本物の男女の愛がある・・・というような^^激マセた感を抱いた自分でしたが、自分のためのみやげには、そのポストカードを購入した、ってことを憶えてます。
なにしろ、高校の修学旅行の思い出って、今思い出せるのって、そのことくらいなんですよ^^。


マグダレナには、いい話があってですね。
新約聖書の中の話ですが、マグダレナにはお姉さんがいて、マルタといいまして。
この姉妹、イエス様の教えにすっかり傾倒、もう、伝道のためにうちを使っちゃってくださいっっっという情熱のかた向け方で、住まいを、いわゆる今でいうなら「精神世界セミナー会場」として、明け渡したりして、まぁ、かいがいしくイエス様ご一行のお世話係を買って出るわけです。


そういった、初代教会は、マグダラのマリア、マルタ姉妹の家だったわけですよ。
で、まぁ、そのように多くの人にイエス様の、天の御国の教えを・・・みたいなことで、たくさん人が集まってきて、実際に自分の家に人が大勢出入りするようになれば、それはそれで、やらなきゃいけないこと、仕切らなければならないことが出てくるわけです。
きっとまぁ、想像するに、今でいうならば、玄関や客広間の掃除やら、客人たちの食事の世話やら、まぁ、人が出入りするわけなので、汚くもしておけないですし、それなりに雑事は増えるでしょう。
つまり、「人目を気にして気を遣うこと」がわらわら出てくるわけです。


ところがですね、そういった雑用を忙しく慌ただしくやっているのは、姉のマルタだけで、妹のマリアは、も~う、自分ちに慕わしいイエス様を囲っちゃっているわけですから^^イエス様のそばを朝から晩まで片時もくっついて離れないわけです。
ず~~~~~っと、ず~~~~~っと、イエス様の話を聞いているの。
香油の壜を抱きしめて^^。
天国三昧なわけですよ。


だから、姉のマルタは、堪忍袋の緒が切れて、イエス様に、妹を叱ってもらおうと、直訴するわけです。
妹は自分がこんなに忙しくて大変な思いをしているのに、なにも手伝おうとしない。妹に、家の中の仕事をしろ、と言ってください、って。
当然、イエス様に言ってもらえれば妹はおとなしく言うことを聞いて手伝うはずだし、イエス様もマルタひとりに雑事をいっさいがっさいまかせていいはずない、と思ってくれている・・・と見込んでの直訴だったのだろうと思います。


ところがですね・・・・・・イエス様の返答が。。。
「マルタよ。なぜあなたはそんなに怒っているのか。彼女(マグダレナ)は正しいことをしている。」・・・・・・だったわけですよ・・・・・・。
(聖書の該当部分読みながらこれ書いてるわけじゃないので^^、部分的に違っちゃってる言い回しかもしれませんが^^。おっしゃったニュアンスとしては、こういう感じ)


はぁぁぁぁぁああああああ?????・・・・・・・・
と、たぶん、マルタは一瞬、絶句したんだろうなぁ~・・・・と。
こ、答えは、それかい。と。
現代版で言うなれば、難解な「宇宙が用意した答え」とも^^言えますね。
ちょっと不憫な感じもいたしますが^^、これって・・・現代の私たちにも、随所に当てはまる部分^^すっごくありますよね。


そうです。マルタになっちゃってる時、ありますよね。われわれ。
自分だけが、ぁあんでこんな大変なつらい思いをしているのだ。
で、それでなんであぁたが楽してるわけ、天国なわけ?????・・・のような^^。
この私がこれだけのことをしているから、あなたはそうして楽していられるのよぉぉぉおおお、それをわかっとんのか~~~?!! ありがたく思えごるぁああああ!!!
・・・・・・・のような、そりゃまぁ、自分のしてほしいことをなにもしてくれない人にに怒りを感じたり協力を求めたり、それ当然とも言えちゃいそうだわな・・・確かに実際に責任背負い込んでるし仕事してるもんなぁ・・・ご苦労様だよなぁ・・・そして、なによりもそれを認めてもらいたいだろうし「あなたが正しい、あっちがまちがってる、あなたはひどいことをされている」って言ってもらいたいよなぁ・・・とも、人間目線では思えちゃうような、マルタ行^^。


なのに、なのに、自分が明らかに相手がおかしいと、非難の対象としているマリアは「正しいことをしている」って言われちゃえば、がっかりしちゃいますよね^^。
ただここで、イエス様は、マルタに「マルタがまちがっている」とはおっしゃっていないんですよ。これが重要です。
たぶん新約聖書の中にはこんな台詞はなかったと思うけれど、自分が感じるに「マリアも、マルタも、やっていることは正しいよ」というのが真意で、「だからなぜ、あなただけが怒っているのか? マリアを非難して、自分に従わせようとしているのか?」と問うているのです。


いやまぁ、こういうのも、人生です^^。ありですよね。
新約聖書の中に生きる人々と、われわれ現代人と、本質的にはほんと、変わっちゃいないというのか^^。
そもそも、姉と妹がともに志気高く、家を精神世界セミナー会場として^^明け渡そうと決めた時の「純な」ところに立ち返れば、「世のため人のため」でもあったと思うけれど、それが「自分のため、自分のいちばんしたいこと」であったから。なのです。
そして、「私がこれだけやってるのを、誰かにありがたく思ってもらう」ことが目的ではなかったはずだし、「誰かと平等に苦労しましょう」ってことでもなかったはず^^。


もちろん、苦難を、重責や困難の道を共に行く人がいることは、心強いし、大変ありがたく、そして何よりもそれだけで勇気百倍、力が湧く源泉にもなります。
しかしながら、そういった「誰かが手を貸してくれる」条件なしでも、「たったひとりであっても」それが本当に真実の喜びであるなら、できるはずのことなのです。
そして、どうしてそれがしたかったかというと、きっと「イエス様に出会い、魂が洗われ、精神性が向上していく」ことのうっとり感^^もそうですが、その大切さをより多くの人に伝えていくことの手伝いをできる、ということに、今でいう「魂の青写真」のような使命感も感じていたことでしょう。
ところが、いわば「現実」となると・・・・・・^^われわれ人間のサダメなのか、そういったポジティブ面の初心や理想世界だけが闊歩していってはくれない事態が起こってくるわけです。


きっと姉マルタは、「イエス様の重要な使命のお手伝いをできる誇らしさ」のようなものが軸で、妹マリアは、「ひたすらずっとイエス様のそばにいることが、ただただ嬉しい、ただただそうしたい」が軸、だったのだろうと思います。
スタート地点が微妙に違ってもいたのです。
どちらが「わくわく」行為かといえば・・・・・歴然ですね^^。
だから、同じ家に住んでいても、目の前に展開される世界が一見、まるで違っちゃう。


でもそれこそが、「誰かと自分を比較しての世界」のトラップというものです。
じゃあマルタがマリアのように、四六時中イエス様の傍らにずっと居さえすれば、それでマリア同様のテンションがキープされていたのか? といえば、きっとそうではなかっただろうと思われます。
(それに、そもそも妹のマリアは、ただ幸せだからイエス様の傍を離れなかったのではないのかもしれません。全身全霊、真剣だったのだろうと思います。「そうせずにはおれない」というやつです。イエス様の一挙手一投足、その瞬間瞬間が、すべて見逃してはならない大事な時であることを感覚的にわかっていたのだろうと思います。)
マルタはね、「長い目で見れば、妹のマリアがずっとイエス様の傍らにいてくれて良かった」って思えたはずなんですよ。いや、たぶん、あとから思ったでしょう。イエス様が死んじゃったあとに。
ふたりして、かいがいしく「家の中の仕事だけ」に忙しくいそしんでいたら、ただ場所を提供している既成事実と行いとその立場を得ただけで、「救われた選ばれた人間」である、と自己満足に浸り、イエス様ご自身がせっかくそばにいるというとても大事な時間を、もしマルタとマリアのふたりともが、そういった奉仕に費やすことだけに苦心し安堵しているうちに、はっとイエス様がいなくなってみたら肝心のイエス様のエネルギーを少しも血肉にできていなかった・・・ということになっていたら、その後の大事な魂の光の神髄を経験することも理解することもできなかったかもしれません。


まぁ、そんな感じの、この話の表面に現れている場面の状況だけ見聞きして、姉マルタの現実の苦労に同調した目線だけで見てしまえば、恐ろしく「現代版マイペースで自分大好き身勝手オンナ」な^^一面さえ感じさせられる妹マリア、マグダレナ様ですが、そんなマグダレナ・エナジーな石組みも、今月末出てきます。
大天使ミカエル・アクセの派生商品として^^。


そうそう、そんな表題の、肝心の「ミカエル・エナジーもの」も、ちゃんとその後にできましたよ♪
いずれも今月末をお楽しみにしていてください♪
これも発見がありましてね・・・長くなるので、また今度。
(・・・というか、すでに、とっても長文。長文嫌いな方にはいつもすみません^^)


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カテゴリ :  ちょっとスピリチュアルな話
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