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2011年03月18日の記事のリスト

我良しの心との闘い

2011年03月18日 (金) 23 : 34
3月11日金曜日から、一週間。
しかしながら、地震そのものによる甚大な被害、災害、から、二次的、副次的な我々に課された大きな試練が、依然として、現実世界に展開されており、今尚、継続中です。
実際の被災された方々、今尚困難な状況の只中でいらっしゃる方、そして、輪番停電により、実質的に生活だけでなく基盤となる実業の維持が困難となっている方々が多くいらっしゃるという実態、「平常時」というものが失われた世界に突入してしまったわれわれ日本人は、どこへ向かわなければならないのか。


それぞれ、ひとりひとりのお立場で、まったくその様相は異なっていることは真実ですが、こういう「自分の力ではどうにもならない世界」があること。
自分にとっては、その大きなショックと、揺れ動く心の中にあるもの、それが、なんなのか、自分で自分がわからない、そういう一週間でした。
そして、これは、まだ継続中です。


自分が闘ったもの、今尚闘っているもの、それは、「我良しの心、では、ないか?」です。
今週、行動するひとつひとつの動機の中身をチェックし続けていました。
(神前でも、たとえば、神社さんでもそうですが、今週は、自分の住居範囲、行ける範囲の神社さんすべてを回ったりもしているのですが、そこで、常に気になっていたこと思っていたことは、「なぜ自分がそうしているのか」でした。祈る心それじたいに、いつわりや無理がないか、「我良しの心、では」を気にするあまりに、自分にできないことを、もしくはできることなのにしてはいけないとか、なんらかの歯止めをかけてはいないか、など)


毎日、いまだに地震の回数そのものは減ってきてはおりますが、たびたび地震そのものは継続中であり、福島原発事故の状況も、一進一退です。
その実態、実像を、窺い知ることは、困難であり、原発に関してできることは「祈るのみ」。これしかできません。
現場では、決死部隊の任務に、東電社員(だけではなく、他の原発からも、志願してきてくださっている方もいらっしゃるという)、原子力事故への対応スキルをそもそも持っているわけではない(なぜならこの国は、核兵器を持たないゆえ)自衛隊のみなさんや、警察の機動隊のみなさん、多くのみなさんが、命がけで困難な状況の中、事態を最悪の状況としないためのできうる限界をおそらく超えた意識で仕事してくださっている。
胸が本当に苦しくなります。


しかしながらその一方で、このような原子力という、いざとなれば人間の手にまったく負えないような脅威を、われわれはこの国土に安穏と受け入れてきてしまっていたこと、「電力」というエネルギーへの依存を、東京電力という私企業一社、つまり、たったひとつの営利体にまかせきっている社会の構造に対して、仮に個人が疑問を提示したところで、焼け石に水であろう・・・と、これ以外の問題でも、ありがちな、長いものに巻かれろ的な、「みんながそうなんだし」というところで、目を瞑ってしまう、見ないようにしてしまっていたことが、自分にもなかっただろうか・・・ということを思います。
日本は確かに「核兵器」は持っていないけれど、こんなに、自国を自滅させんがための「眠れる自爆核兵器」に、すでに四方八方囲まれてしまっている国・・・それも、自ら進んでそのようにしてしまっている現実があるではないか・・・ということに、あらためて、愕然としておりました。


今、このような事態が発生するまでは、正直なところ、日本国内にどれだけの原発があり、そして、原発があることによるメリット、デメリットへの関心そのものが薄かったことを思います。
原発は本当はなくても大丈夫、ということを訴える政治家さんなどもいらっしゃるのですが、本気で、そういうムーブメントを自分自身が起こしていこうというような気持ちがなく、確かに「いらない」のは明白だろうけれど、たとえば、東海地震が懸念されている、やはり東海地方の古い原発である「浜岡原発」を停止すべき「ストップ浜岡」などのスローガンに対しても、それを自らが進んで訴える、というようなことは、できないな・・・と思っていました。
なぜできないのか、というと、原発反対、を訴えるその先にある、では、原発ではたらく人たちはどうなるのだ、までの代替案を、自分には提示できない・・・という感、そして、想像力の欠如があったからだと思います。


このような「脅威」に直面し、そして、その恐怖心をきっかけにして、それを言い出す・・・ということ、それも実際には「我良し」だよな・・・。
そのように思います。
しかし、そんな我良しでも、これは我だけではなく、人良し、であることを、思います。
「電気の恩恵を受けている」時点で、生じる矛盾があることを承知で。


自分は今週、この「我良しの心」のチェックのために、行動し、モノを考えさせられていたかのようでした。
地震発生の11日金曜日から何日か過ぎて、それまでは考えていなかったのですが、「備蓄」という概念。
地震当日、一斉にパンやカップ麺がスーパーやコンビニエンスストアの棚から消えていたことを思い、食料品の買い置きも多少必要なのかもしれない、と考え始めていた週明け、食料買っておいたほうがいいかもよ、というご指南もあり、スーパーに出かけた自分が目にした光景は、自分の想像をはるかに超えていました。


どこにも売っていない水。どこにも売っていないトイレットペーパー。どこにも売っていない乾電池。
見事なまでに^^、パーフェクトにどこを探し回っても、完売。
節電のために照明を暗くしたスーパーやコンビニの棚からは、そういった、特定の商品がごっそりなくなっておりました。
聞けば、ガソリン不足となっているため、モノはあるけれど、出荷そのものができなくなっているのだそうでした。


トイレットペーパーに関しては、実は、「困ったな・・・うちの場合、買いだめじゃなくて、ストックそのものがそろそろないんだけど・・・」というのが正直なところで、3日続けて探し回ったのですが、最終的に見つけたのが「水に流せるティッシュペーパー」という名称のティッシュペーパーでした。
スーパーの店員さんに、この時はさすがに自分も感情的な言い方をしてしまっていることに気がつきながらも、申し訳ないけれど、ちょっとまとめていただいてもいいでしょうか、と話したら、どうぞけっこうです、と言われ、それでも棚にある全部、などということはできませんでした。
本当に、ふだんはこういう売り切れるわけのないものを、買いだめとか買占めとか、しないで欲しい・・・と呟いてしまったら、店員さんは、「そうなんですよね・・・。トイレットペーパーも、お一人様ひとつまで、だったんですが、それでも朝一時間でなくなってしまいまして。」とおっしゃっていました。


この数日間、こんな大惨事がこの国の中で発生している・・・・・
その中で、眩しい太陽光の下、自転車を走らせ、「水」のペットボトル棚だけが殻になった商品棚、そういう街中の光景を見ながら、これがリアルの世界でありながら、自分がそこで「買いだめし遅れたこと」に、最初は、焦り、そして、不安になってしまったことは、正直なところです。


しかしながら、こうも思っていました。
こりゃ、神はからいかもしれない、と。
人間は結局、いつもどのような局面であろうとも、試されている。
自分もきっと、目の前に、まだペットボトルの水がわんさかあって、トイレットペーパーが山のように売っていれば、躊躇せずに山のように、家の中で置き場に困るであろうくらいに買い込んだに違いない。電池だって、売り場にある買えるだけ買っていたかもしれない。


なかったから買えなかったものは、買う必要がないものであること。
もし買える局面そのものに遭遇していたら、まちがいなく、我良し買いだめを、自分もしていたであろうこと。
なかったから、それを、しないで済んだのだ・・・。と、感じました。
「必要なものは、用意されている」
ということを、自分は、恥ずかしながら、忘れていたのでした。


被災地のことを思えば、トイレットペーパーがないくらい^^なんじゃい、なのです、本当は。
実際にはたいしたことじゃない、それに、コトは、そんな個々の生存という意味では、もっとどうすることもできない重大な危機、原発の事故という未曾有の危機的状況に直面しています。
その重大な危機の中、人々が買いだめという「慰め、であり、安心の種」の付け焼刃行為に走る、生存本能の赴くままの行動に走ることを、非難する立場にすらありません。
むしろ、それで本当に安心が得られるのであれば、それはそれで平常時(この概念も、今やもう風前の灯火となるのかもしれませんが)であればいい意味での我良しなのかもしれません。
都市部の人間は、自分も含めてですが、なにか大きな災害に遭遇した時に、この膨大な人口の頭数が密集する都会では、まず、「救援」というものそのものを、まったくアテにはできないであろうことを、感じている方が多いと思います。
地震が発生した日、帰宅困難になられた大勢の方がいらっしゃったにもかかわらず、それじたいによる大きな事件や混乱などが起こらずに、みなさんが淡々と自力で行動された、という姿は、その象徴でもあるかと思います。
裏返せばそれは「誰かを、人をアテにして生きることができる」ということそのものへの、「不信感」でもあり、良い時にはそれを「自立心」と呼び疑いません。
ですから、わが身(自分、そして、家族や、会社、会社が属する業界など、自分に関わると想像ができる繋がりの範囲のみ)を守るのは自分、という行為を、「正」とする、そういう生き方が「正」である信念がある方が多いですし、これは、もちろん自分にも見られる部分です。


自分が今週ずっと感じていたことは、過不足のない分配・・・ということの、実現性について、でした。
おそらくそれが、真のアセンション世界であるなら、実現しなくては、ならない、姿です。
都会に住む自分は、こういった様相に触れたことによって、現実面での災害、という意味では、今はまだほとんど実害のない場所にいながらも、不確かではありますが、悲しみというか、予期不安のような感覚を覚えてしまい、そこから、立ち直るのに必死でした。
なぜなら、私が出会った現実は、紛れも無く、自分の中にも多分に「我良し」があるからこそ、見させられた世界でもあったからだ、と、自覚できたからです。
今はこの「自分を守る」のがちがちの「信念」から脱却できるチャンスの時、とも言えるのかもしれません。


今後のわれわれの世界では、おそらく、持っていれば、それを差し出していくこと、に、より直面する機会は増えていき、持っていなくても、与えられることは、増えていくのではないかと、感じます。
また、われわれは、究極的には、それを目指していかないと、つまり「我良し」が、なくなってしまわない限りは、このような世界との遭遇を避けられないのではないか、ということです。


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カテゴリ :  私にとっての2012年
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