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2010年07月11日の記事のリスト

病との付き合い方(其の弐)

2010年07月11日 (日) 14 : 11
前回同様ですが、この「病」の部分は、他にも置き換えられると思います。
「逆境」でも「不満」でも「不安」でも「不幸」でも「失業」でも「失恋」でも「失敗」でも、なんでもいいですが^^、世に言うところの、「マイナス現象と受け取れるもの」なら、当てはまると思います。
というか、病、というものは、おそらく上述したような類の、感情、思いの累積イエローカードのようなものに起因することも多いのであろうと思われます。


「病」、つまり、自分にとってあまりよろしくない状態、状況の時には、つい、「同じ穴のむじな」を見つけて、徒党を組んでしまうことがあったりします。
もしくは、聞いてくれる人を捕まえては、愚痴を繰り返す、わかってくれる人をやさがししては、うまい具合にそういう相手が見つからなければ、「理解者がいない」などというふうに、「不満、不足の上塗り」という渦巻きの中から出られなくなっていきます。


この渦巻きの中にいるあいだは、なかなかです。
ただでさえ、希望的観測が持てないのに、ますます、希望的になれない状況が繰り返されていく、まったく浮上の見込みが日に日になくなっていくかのような感覚にさえ、なっていく・・・ということも、あるかもしれません。


自分は、ですが、これは実際の病を治そうと思ってしたことではありませんが、「絶対に、どんなにつらくても「愚痴」を言わない」ということを、心に決意したことがあります。
以前のブログ記事にも、書いたかもしれません。
愚痴を言って、なにかが変わったためしがないことに気がついた、ようやく得心したから・・・なのだろうと思われますが、とにかく、「言ってどうにかなる問題以外については、愚痴を言わない。言うときは、「こうすれば、こうなる」のアイディアがある時のみ」を、生活信条として、とにかく、その点に気をつけて言葉を使うようにしたことがありました。


「言わないようにする」と決めてから、気がついたことは、愚痴や、不平、不満、の類というのは、「癖」なのだ、ということでした。
つまり、思いの癖なので、どんなことに対しても、自分の着眼点が、なにがどうあろうと、不平、不足の種子を見つけることに長けてしまっているので^^、自分の得意とする「楽な思考パターン」だったわけです。
つらいのに、楽なわけがない、って、思いますよね。
他にどうしろと? って思いますよね。
とてもできそうにもないポジティブなことを言っている人に対して、まぁご立派だこと、って思いますよね。


しかし実は、それは、「楽」で、自分がそうしたくてしていただけだったんだ・・・・・・と、実感しました。
そして、言葉に伴う現実というのも、一向に、「愚痴世界」の様相から変化しようもないのは、自分のせいだった・・・・・と。
イマジネーション不足で、怠慢な思考回路の中に、「安住」したがっていたのは、他ならぬ自分。


いったん決めたルールに従って、不平、不満、愚痴、を、言葉にしなくなると、これはとても不思議なもので、不平、不満、愚痴をこぼしたくなるような状況が、だんだん生まれなくなってきます。
これは大真面目に不思議なんですが、本当です。
そりゃ、時々は、ないこともないですよ^^。
「へ?」みたいな、とっぴなことや、まぁ、人間ですのでね、むっとするようなことに出会わなくもないです。ゼロにはなりません。スパイスのようなものです。
しかし、「思考の癖」部分に、不平、不満への回路がなくなってくると、前回書いたことなんですが、「すぐには理解できないまでも、なにかしらの私の学びのために、嫌な役を買ってでてくれているのであろう・・・という方向へ、思いを向ける」ことが、わりとスムーズになるのです。
だから、自分の中に、「嫌なこと」が、だんだん、積もらなくなっていきます。


とかく、人間は、「相手のせい、誰かのせい」にするのが好きです。
とにかく、人のせいにしておけば、「自分の怠慢、無智、無理解」に気がつかないでいられます。
もしくは、仮に「自分のせい」であることを認めている場合にも、そこに「言い訳、理由」を作り出すのがうまいです^^。
で、その言い訳、理由は、結局、「自分以外のなにかのせい」であることも多いです。
運命だとか、生まれだとか、能力だとか、なんでしょう、「今すぐどうにもならないこと、動かせないこと」にばかり目を向けて、だからどうにもならないのだ、と。


自分がどうして、
「いっさい、愚痴を言うのは、やめるのだ」と決意できたのかどうかはわかりませんが^^、こういうことはやってみると、他人の思考回路を観察しているような感覚となれますから、ゲームだと思えばわりと容易いし、実際、楽しいです。


「はけ口は、どうするの?」
というギモンもあろうかと、思われます。
つまり、言いたいのに、我慢していたら、余計に病気になっちゃうのでは? ということですね。


言ってもよいのです。
我慢は必要ないです。
ただし、「人に言わないこと」。これが、ルールかな、って思います。
神様に言いに行けば良いのです^^。
自分の場合は、氏神様に、言いに行きました。
神様にお話しする場合には、わりと自然にですね、誰かを口汚く罵るような感じにもなりませんし^^、自然に「どうしてこうなっちゃうんでしょうね?」の疑問符だらけに終始することも多いんですけれど、必ず、心が整理されますし、後日答えもいただけます。
なによりも、なぐさめてもらえます^^。


氏神様まで行くのがかったるい、とかだと^^困っちゃうんですが、神棚がある方は、神棚に向かって、我慢しないで、本当につらいんですけど、ってことをお話なさってよいんではないでしょうか。
神様の前では、格好つけてもしょうがないです。
嘘もつけませんから、みっともない自分を正直に話しちゃったほうが、「気が楽」になります。
あ、それでですね、「この惨状をなんとかしてください」って「お願い」に終始するのではなく、「自分はどうしたら?」の疑問符が、やはり有効です。
「望み」と、「お願い(ないものねだり、タカリ)」の、性質の違いも、だんだんわかってくるようになると思います。


時々、スピリチュアル系なんかのお話、というか、目にしますけれど、「こういう時には、○○天使に助けを求めてください」とか、そういうの、ありますよね。
その「こういう時」のシチュエーションごとに、天使の名前の使い分けができるくらいに冷静であれば^^、助けなど求めなくても、解決できそうですよね。
自分の場合は、非常に大雑把な性格なので^^そういうこまごまとしたことをそもそも覚える気になれないので、氏神様一本でしたが、考え方としては、そういうのに近いのかもしれないな、って思います。


「宇宙」は、答えの宝庫。
手を伸ばせば、取り放題なのですから。
こちらから、望まないものは、与えられないです。ある意味、そこまで気は回してはくれない^^ように思います。
しかし、望むものは、気前良く、与えてもらえます。


今は、素直に、そんな風に思える自分がおります。
欲張りでもいいのだろうと思います。
どなたも、同じです。
「自らを、善くしてゆくための、欲」は、どんどん、持ってよいものなのだと思います。



おっと、今日は、「機会の窓をひらく」日でしたね。
みなさんに、これからも、すばらしい魂の成長の「機会」が、めぐってくること、そして、もちろん、自分にも。
そんな風に、望んでおります。


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カテゴリ :  ちょっとスピリチュアルな話
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