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2010年07月09日の記事のリスト

病との付き合い方

2010年07月09日 (金) 20 : 43
この「病」の部分は、他にも置き換えられると思います。
「逆境」でも「不満」でも「不安」でも「不幸」でも「失業」でも「失恋」でも「失敗」でも、なんでもいいですが^^、世に言うところの、「マイナス現象と受け取れるもの」なら、当てはまると思います。


結局のところ、病気を治す、治る、というのも、つきつめれば、本質的には、この「マイナスに見えるもの」を、どう変容させていけるか、の学び以外の何物でもないように思われます。
結果として、「治る」だとか、上記の例で言うなれば、職を得る、だとか、新しい恋に出会う、だとか、なにかで成功する、だとかの現象がついてくるだけの話で、実際に大事なことは、マイナスに見えるもの、からの、気づきであり、反省であり、智慧であり、それがすなわち成長、一歩前へ進んだ、ということで。


病気、つまりそれは、正常なはたらきを身体ができなくなっている現象・・・なのだろうと思われますが、
そもそも、正常なはたらきができていたことがあったんだとしたら、実際そういう時にそれを感謝できていた自分だったかどうか? ということに、まず気がつきますよね。
指一本怪我しても、けっこう不都合なことも多いですよね。
身体のどこか、とても小さな小さな部分でも、ひとつも無駄になっている部位がないんだな・・・ということが、わかります。
なんら不都合なく、動いてくれていた身体への感謝が芽生え、「大事にしなくてはな」という「ありがとう」が、自分の身体に対して生まれます。


都合よく動いてくれなくなった身体には、「このやろう」ではなく、「ありがとう。そして、ごめんね。」ですよね。
傷つけちゃってごめん、ちゃんと活かしてあげてなくって、申し訳ない。
かと思うんですよね。
つらいのは、身体の所有者である自分だけではなく、生きた細胞としての使命を出来る限り果たしたい、と、どなたがお作りになったのかはわかりませんが、この、人体の持つ構造を構成する一粒一粒が、そのように思っているはずなのだろうと思います。


そこへ入ってきた異分子。
病気というものは、常に、そのように「目の敵」にされがちですが、その異分子の存在あってこその「気づき」がそこにあります。
その存在がなければ、気づけなかったことが、必ずあるはずなんです。


そこに気づき、改善していこうという決意と、行動。意志。
そのベクトルが生まれた時に、病気というものは、もう「目の敵」という存在ではなく、「感謝の対象」へと変容していきます。
つまり、カンタンに言えば、大事なわが身の一部、でもあり、「仲良くしていこうね」の対象、お仲間、とも言える存在。


ぜんぜん話違いますが、節分の豆まき、「鬼は外、福は内」って、一般的に言いますよね。
うちの実家ではなぜか、「鬼は内」って、昔から親はそう言って、豆まきしておりました。
子供ながらに、成長してから、「あれ? よそでは違うみたい」ということに気がつき、親に聞いたことがありました。
どういう答えが返ってきたのかはっきりとは憶えてないんですが^^、たしか、「鬼は追い出すものではない」という主旨のことを話していたような記憶があります。
つまり、鬼も、家の中の一部なんだよ、ということ。
不都合、不幸や不服は、追い出すものではなく、その存在を認め、与えてくれる学びに感謝する対象・・・として存在する大事なお役目の存在なのであろうと思います。


石は、その内側の視点を呼び覚ます、手助けをしてくれる石が、とても多いです。
石に助けられて、たとえば、病気であった状態が快方へ向かっている、という方は、必ずといっていいほど、共に、スピリットの変容、成長を手にされている・・・そういう印象があります。
「以前は、こういうことは、おっしゃっていなかったな。。。」
と、僭越ながらも、感じさせられることが多いのです。
そして、それは、もちろん、ご本人がその気づきを見逃さず、血肉とするための、「思いの努力」をなさっておられてのこと、かと思います。
石を身に付ければ、自動的に、天使のふるまいが生まれる^^、などというわけもなく、その方その方の現在の状態、状況と、曇り切った眼鏡のわずかな隙間から入り込もうとする光との、いわば闘いとなることだって、あります。
そして、闘いにも種類があって、いい闘い、よくない闘いがあると思います。
石が仕向けるのは、いい闘い、なのです^^。


マインドとボディは、切っても切れないコラボレーション、なのです^^、結局のところは。
それと同じように、「鬼」と「福」も、実際、絶妙なコラボで、人生を妙味のあるものへと導いていってくれます。
ひつくの神様のおっしゃる、「人間の近目で見て、悪に見えるものも、存在許されてるから存在する。存在するものに、許されていないもの、ひとつもおらん。」という言葉を、自分は、なにか自分にとってマイナスに映るものがある時、起こってきた時に、思い出すようにしています^^。


すべてはワンネス。
などという^^という崇高なところへひとっとびに至ることはできませんが、「ああ、みんな、そうなのよね。そして、こんな自分でさえも。」と思うことで、「なんでこんなものが」「なんでこんなことが」「なんでこんな人が」を、理解できないまでも、なにかしらの私の学びのために、嫌な役を買ってでてくれているのであろう・・・という方向へ、思いを向けるように、一応そのくらいの努力はしているんですよ^^。
マリアライトを身につけようが、イキナリ、聖母にはなれませんのでね^^。


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カテゴリ :  ちょっとスピリチュアルな話
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