変化することと、安定することは、相反することとして、石の組み合わせではよろしくないのだ、と取り上げられているのを、たまに見ることがある。
たとえば、ニュージェイド(サーペンティン)やライオライト、オニキスなど、いわゆる「現状維持系」として安定のジャンル分けをされるタイプの石と、前向き系のシトリンだとかカーネリアンだとか、いわゆる「活性化系の、動かしちゃうタイプの石は、安定した幸福を変化させちゃうから、やめましょう」みたいな感じで、NG扱いになっていたりとか。
エネルギー相殺しちゃうんだそうである。
ここのところ、石アクセサリを作っていて思ったのが、この、「変化と安定」は両立しないものなんだろうか? について。
答えは、両立する、ということだった。
というより、私たちが常日頃「安定」だと感じている意味合いでの安定ではないのだけれど。
人は、無意識に、現状維持が好きなのである。
これは、どんなに「こんな現状はなんとかしたい、なんとかなりたい」と心が絶叫していても、意外に、目の前の現状からの脱出、つまり「未知への扉」を開ける面倒くささを拒む生き物なのだ。
潜在意識の仕組みというものが、そもそも、そういうものらしい、というのは、どこかで読んだことがある。
好む好まないに関わらず、「変化」は宿命なので、そもそもが、「安定」「現状維持」の石など、存在しないのだ。
つまり、我々の潜在意識というものは、宿命に対抗するツワモノなのだ。
ではなぜ、いかにもそういう石があるかのように、伝えられてしまったのか。
おそらく、なんだけど、よく言われることだけど、大昔、気の遠くなるような大昔、遠い時代には、人は「変化のない生活」などさせてもらえないことが前提だったのだろう。
いわゆる過酷な気象条件やら、外敵から身を守るとか、種の保存とか、命がけで命をまっとうしていたに違いない。
精神性というのは、ある種の段階までは、その命がけの日々の中、培われていくものでもある。
人は、火事場の馬鹿力じゃないけれど、本当に追いつめられることで、持てる力以上の力(いわゆる潜在能力)を発揮することは多い。
そういう太古に生きた人たちの鋭敏な感性に触れることで、この石はこう、あの石は・・・の意味づけがなされてきた。
「明日生きていること」の奇跡の中で生きている時には、生かされていることそのものが、「現状キープ」と感じられるし、そこに大きな付加価値がある。
死なない人間はいないのに、まるで永遠の健康、健全な肉体を得られるかのように謳われる石。
そう感じられるか否かは、「いつ死んでもおかしくない」状況の中で生きてみないと、わからないよな、とも思わないではないけれど、現代は、気象条件とか衛生面であるとか、ヒトが生きていく上において、この日本では、そういう面が生き死にが左右され過ぎないで済む、最低限の条件をいただいて生活している人がほとんど。
それだけに、ビョーキが、大ごとになる。死ぬかもしれない、という。
死ぬかもしれない、まではいかずとも、毎日を生きる上での、ネガティブ要因として、退けたがる。
生きていることそのものが当たり前過ぎて、ちょっとしたネガティブの存在をも、忌み嫌い、亡きものにしたがる。
現代の我々は、この「いつ死んでもおかしくない」を前提に生きている人は少ないと思う。
ビョーキは治らなくちゃ困るし、不具合な状況にだけは“変化”していただきたい、と思う人が、ほとんどだろう。
そして、不具合がなくなれば、今度は、“変わらぬ安定”を手中にしていきたいのだろう。
先般の記事にもちろっと書いたけれども、厄払いだけする、ってのはナシなのである。
厄に寄りついてもらいたくないのであれば、福払いもいっしょにしたほうがいい。
幸福だけに寄り添い生きる、という執着心が、おそらく潜在意識が強固に変化を拒む体質を作り上げているんではないかしら、と思う。
福を手に入れることよりも、この地上では、実際には、厄を手に入れることのほうが、魂にとっては大きな学びがあるケースも多い。いっさいが、森羅万象すべてがわが師、その心境を手に入れるには、なかなかこの世は大変な舞台じかけではあるけれども、自分にとってマイナスに見えるものは、大いなる恵みであり、実はダイヤモンド鉱山へ辿り着くための関門の役目を果たしてくれていたりする。
そうそう、なんで上記のようなわけのわからないことを書いているのかというと、
いわゆる「安定系」の石そのものが、別に変化を拒むどころか、根本に切り込むダイナミックな変化を促す働きをするんだな、ということに、あらためて気づいたから。
結局、イシって、「変化することを前提」にしか、はたらいていない。
人間側が、それを、変化ではなく、勝手に、安定と捉えていたりするだけである。
そして、いちど掴まえた安定を、ひたすら固持していこうとする先に、またしても、停滞と苦悩が生まれるという堂々巡りだったりもする。
石は、人間がこのメビウスの輪の中に、とどまっていることを、望んではいないようだ。
とある石組みのアクセサリを作っていて、そう教えてもらった。
たとえば、ニュージェイド(サーペンティン)やライオライト、オニキスなど、いわゆる「現状維持系」として安定のジャンル分けをされるタイプの石と、前向き系のシトリンだとかカーネリアンだとか、いわゆる「活性化系の、動かしちゃうタイプの石は、安定した幸福を変化させちゃうから、やめましょう」みたいな感じで、NG扱いになっていたりとか。
エネルギー相殺しちゃうんだそうである。
ここのところ、石アクセサリを作っていて思ったのが、この、「変化と安定」は両立しないものなんだろうか? について。
答えは、両立する、ということだった。
というより、私たちが常日頃「安定」だと感じている意味合いでの安定ではないのだけれど。
人は、無意識に、現状維持が好きなのである。
これは、どんなに「こんな現状はなんとかしたい、なんとかなりたい」と心が絶叫していても、意外に、目の前の現状からの脱出、つまり「未知への扉」を開ける面倒くささを拒む生き物なのだ。
潜在意識の仕組みというものが、そもそも、そういうものらしい、というのは、どこかで読んだことがある。
好む好まないに関わらず、「変化」は宿命なので、そもそもが、「安定」「現状維持」の石など、存在しないのだ。
つまり、我々の潜在意識というものは、宿命に対抗するツワモノなのだ。
ではなぜ、いかにもそういう石があるかのように、伝えられてしまったのか。
おそらく、なんだけど、よく言われることだけど、大昔、気の遠くなるような大昔、遠い時代には、人は「変化のない生活」などさせてもらえないことが前提だったのだろう。
いわゆる過酷な気象条件やら、外敵から身を守るとか、種の保存とか、命がけで命をまっとうしていたに違いない。
精神性というのは、ある種の段階までは、その命がけの日々の中、培われていくものでもある。
人は、火事場の馬鹿力じゃないけれど、本当に追いつめられることで、持てる力以上の力(いわゆる潜在能力)を発揮することは多い。
そういう太古に生きた人たちの鋭敏な感性に触れることで、この石はこう、あの石は・・・の意味づけがなされてきた。
「明日生きていること」の奇跡の中で生きている時には、生かされていることそのものが、「現状キープ」と感じられるし、そこに大きな付加価値がある。
死なない人間はいないのに、まるで永遠の健康、健全な肉体を得られるかのように謳われる石。
そう感じられるか否かは、「いつ死んでもおかしくない」状況の中で生きてみないと、わからないよな、とも思わないではないけれど、現代は、気象条件とか衛生面であるとか、ヒトが生きていく上において、この日本では、そういう面が生き死にが左右され過ぎないで済む、最低限の条件をいただいて生活している人がほとんど。
それだけに、ビョーキが、大ごとになる。死ぬかもしれない、という。
死ぬかもしれない、まではいかずとも、毎日を生きる上での、ネガティブ要因として、退けたがる。
生きていることそのものが当たり前過ぎて、ちょっとしたネガティブの存在をも、忌み嫌い、亡きものにしたがる。
現代の我々は、この「いつ死んでもおかしくない」を前提に生きている人は少ないと思う。
ビョーキは治らなくちゃ困るし、不具合な状況にだけは“変化”していただきたい、と思う人が、ほとんどだろう。
そして、不具合がなくなれば、今度は、“変わらぬ安定”を手中にしていきたいのだろう。
先般の記事にもちろっと書いたけれども、厄払いだけする、ってのはナシなのである。
厄に寄りついてもらいたくないのであれば、福払いもいっしょにしたほうがいい。
幸福だけに寄り添い生きる、という執着心が、おそらく潜在意識が強固に変化を拒む体質を作り上げているんではないかしら、と思う。
福を手に入れることよりも、この地上では、実際には、厄を手に入れることのほうが、魂にとっては大きな学びがあるケースも多い。いっさいが、森羅万象すべてがわが師、その心境を手に入れるには、なかなかこの世は大変な舞台じかけではあるけれども、自分にとってマイナスに見えるものは、大いなる恵みであり、実はダイヤモンド鉱山へ辿り着くための関門の役目を果たしてくれていたりする。
そうそう、なんで上記のようなわけのわからないことを書いているのかというと、
いわゆる「安定系」の石そのものが、別に変化を拒むどころか、根本に切り込むダイナミックな変化を促す働きをするんだな、ということに、あらためて気づいたから。
結局、イシって、「変化することを前提」にしか、はたらいていない。
人間側が、それを、変化ではなく、勝手に、安定と捉えていたりするだけである。
そして、いちど掴まえた安定を、ひたすら固持していこうとする先に、またしても、停滞と苦悩が生まれるという堂々巡りだったりもする。
石は、人間がこのメビウスの輪の中に、とどまっていることを、望んではいないようだ。
とある石組みのアクセサリを作っていて、そう教えてもらった。

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カテゴリ : 石のホント or はてな?
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