先般の記事に書いたように、私には外回りの仕事の電車移動中などの時間を利用すれば、「読もうと思えば本を読んだり、ネットができる環境」にいながらも、世事情、はたまたスピ的新規情報をむさぼってはいないため、実は、あんまりよく知らない。
「2012年」という固有のキーワードにこだわる方々は、スピ界にはやたらに大勢いらっしゃることだし、もう私なんぞが、なんやかんやと、ちゃちゃを入れる必要もない・・・ そんな風にも感じるし、当の私自身が、「まぁ、来るなら来いや~、だって、必ずその日その時は、やってくるのだし」という諦念ではないが、なんかこう、画策するべきものでもないのだしな・・・と考えていた。
だから、本当に、久しぶりに、
その手の、見たこともなかった「新しい(私にとって)情報」に触れた時には、もう、本当になんというか、「ぺりぺりと、古い角質が音を立てて、剥がれ落ちていく感」があった。
モリオンという石は、これも、私にとってなのだけれど、
「目を開けたまま、知っておくべき、霊性にとって有益な、現実」を、知らしめる石なのかもしれない。
この石といっしょにいるようになってから、そう感じるようなことが増えたように思う。
ところで。
私にすっぽりと抜け落ちていたもの。
それは、奇しくも、「ご先祖様のご供養」という「行い」である。
これは、「思うだけ」じゃダメだ。
よく、「思いが現実を創造する」ということは、スピ業界でも耳タコに言われているし、一般的な啓蒙書なんかでも言われる。
が、「思い」「行動」しなければ、それは現実にはならない。
先祖供養も同じで、実は、これは「思っているだけ、感謝しているだけ」ではいかんのだ。
いつのまにか、それをしなくなっていた自分(以前はやっていた。そして、実家の親は、それを何十年も変わらずやっている)が、こうしていられるのも、これは、先祖の功徳を食い潰しているからに違いない・・・
もしくは、親が黙々と何十年も続けているその諸行の余徳分があるから、なのかもしれない。
いずれにしても、自分は、現在やっていないのが、事実なのだった。
実は、この「ご先祖様」というキーワード、これも、正月から気になっていたのだった。
私が、正月に実家に帰ったときに、父や母に、そんなに詳しくは話さないけれど、「天然石のアクセサリを買ってくれる人たちが、ありがたいことに増え続けていて、今、自分はこんな感じなんだよね・・・」というような話はした。
母は、親だから、「それは良かったね」と喜び、こう付け足した。
「ご先祖様が、守ってくれているんだねぇ。」
その言葉は、私にとっては、すごく意外、というか、かなり「新鮮」だったのだ。
自分が、忘れていた視点だと感じた。
実親は基本的に、「神様が、こうしてくれた」とは、そういえば昔から言わないが、「ご先祖様が、教えてくれている」とか、「ご先祖様が守ってくれている」とか、「ご先祖様に、お詫びしなさい」とか言う。
ご先祖様をすっとばして、ダイレクトに「神様」に・・・てなことも、そういえば、していないように思う。
つまり、「神様という存在は、敬う、感謝の対象であるのみ」で、日々生かされている恵みは、「ご先祖様あって」というところから外れていない。
ううむ。
そして、そのブログに出会ったのだけど。
たぶん、ふつうに、ご存知の方は、多いんじゃないかと思う。
私が、そこを何気ない気持ちで覗きにいったのは、私のアクセサリを買ってくださっている方が、このパワーストーン・ワークスをご自分のブログにリンクした、ということと、その方からの視点で、うちのブログの紹介をしてくれている、という報告をメールでいただき、そのブログを見に行った時に、他に、リンクにあったブログ・・・それだけのことなのだけれど。
めったに、イマドキの精神世界カテゴリなど覗かないのだが、本当に「なんとなく」というのは、恐るべしかも^^。
魂というのは、そういうものなのだ。
なんとなく感じてくるモノ、内から聞こえてくるモノに、間違いはない。
外から聞こえるモノ、見えるモノ(これは、いわゆる、霊視やチャネリングなどの、「外から」情報のことをいうのだろう)には、嘘が多いぞ、とは、ひつくの神様の言葉だが、その、「日月神示」の中のことについて、ショッキングな発見があった。
そのブログを読み進めていくうちに、
「私が、イマドキ系のスピリチュアル」に違和感を覚える理由は、そうか、この「先祖供養」という概念がガイコクものには出てこないこと・・・だったのかもしれない・・・と思った。
しかし、初めて読んでいるのに、なぜか「うわ、自分が考えていたことと、やけにかぶることが多いな」ということも多々あり。
私の場合は、霊能力と巷で呼ばれるような類の「本人が知るところの自分の能力」を持つわけではないので、あくまでも、「なんとなく、そういうふうに思うようになっている」だけの話なのだが。
そして、非常に「心臓が止まるか」くらいの、衝撃というかなんというかがあった、キーワードだけれど。
それは、「ひふみ祝詞」は、地獄行きの片道切符みたいな、呪文・・・
そのブログの筆者は、そのように、まぁ、言い切っておられる。
実は、私は折々に「日月神示」は読んでいるが、おそらく「ひふみ神示信望者」にとっては、当然の「業」とも言える、この「ひふみ祝詞」というものを、私は「ソラで言えない」のだ。
よって、「日常的に唱える」ようなことをしていないし、なぜだろう? ひつくの神様のおっしゃることは、すんなり入ってくるのだが、こういう「呪文」の類は、まったく覚えられないため、それが「必須の業」としては、やっていないのだ。
神社にお参りするような時でも、そういえば、この「ひふみ祝詞」を神前で唱えよう、と思ったことが、今までに一度もなかった・・・という不思議を感じた。
覚えられなかった理由は、おそらく、これは自分が「曲に歌詞を付ける」人間だったからだと思うのだが、「なんとなく、どう抑揚を付ければ、心地よく、口ずさめるのか」が、いまひとつ、体現できなかったからだと思う。
メロディのように、入ってこないのだった。つまり、心地の良いリズム感ではない。
般若心経ほど長くもなく、カンタンなのに、覚えられない。
・・・これこそ、「ご先祖様の導き」であったか・・・・ と、感じざるを得ないことはなかった。
(なぜなら、ひふみ祝詞を唱えていない自分に、ひふみ信者であれば、普通は違和感を感じるであろうに、私はなぜか、その暗唱を「身魂みがきの方法」だとは思っていなかったし、日月神示に書かれている記述で、自分に理解できない部分を理解できずにいることに、「不安」だとは、これっぽちも思っていなかった。よくよく考えてみれば、自分にとってのバイブルみたいなもん、と言っているのに、非常におかしな話である。)
こういう時、もし私が、日月神示「教」の「信者」であれば、そこに猛反論を唱えるのであろう。
しかし、あの書は、宗教ではないのだ。
その、宗教ではないものを、今、この「ひふみ祝詞」を世に広めている、スピリチュアル系の人物たちが増殖している・・・ということさえ、実は、私は知らなかった。
やはり、「八通りに読める」はホントウだ。
そして、「今にこの神示を金儲けの道具に使う人物が出てくるが」というのも・・・。
ちなみに、精神世界という「業界」で有名な「F」の頭文字の方が、ひふみ祝詞を推奨しているようなのだが、
どうしてこの方に関わると、ろくなもんじゃなくなっていくんだろう? というのが、笑える不思議である。
これは、「裏」定説みたいなんだけれど、この「F」という方が、「これはお薦め!!」というお墨付きを言い出すものは、必ず「下火になっていく」そうな。
これは、実は何年も前から、言われていたことで、妙にうなづける感じがした私だった。
この「F」氏は、なにかと、「スピリチュアル・ビジネス」に利用されている姿を目にする。
(利用されている、というだけではなく、たぶん、本人が好き好んでそうしているのであろうが)
なぜか、スピリチュアルに関わる方は、この「F」氏と並んだ写真を撮りたがり、「自分は知り合い」「自分は認めて貰った」という、「お墨付き」を欲しがる姿を目にする。
しかし、私的感覚としては、「・・・それは、ダメダメの烙印」に見えてしまうのだ。
私は、「シャーマナイト」も、「ありゃりゃ・・・こりゃ、だめかもな。」と、にこやかに、シャーマナイト布教者のねえさんと、「F」氏が、シャーマナイトをはさんで座る、写真を見た時に思ったものだ。
シャーマナイトは、願望を実現するための石でもなく、自己のオーラやパワーを強化するための石ではない。
シャーマナイトにしかり、古代の化石をその身に擁する鉱物は、「生の根源への接続」を常に促す。
そこを離れて、人は魂の目的だけを完遂することはできないからだ。
ところで、
私が今回このことを書こうと思った理由は。
私ふぜいの人間であっても、少なからずも私の影響で、「日月神示」に触れている方も、ひとりふたりではない、と感じたからだ。
日月神示は、決して「偽書」ではないと思う。
しかし、それを「アセンション・ビジネスに利用する」目的の紹介のされかたをし始めている、そして、「祝詞を唱える」その目的はいずこに??? なのだ。
なによりも、ひつくの神様がおっしゃっているのは、
「我良しは、だめよ」である。
なにかのまじない、呪文、そういうものを唱える心に「自分が助かりたい」があれば、そこには、必ず魔が入る隙間を作る。
これは、すべからく、世の中がそういう「神仕組み」になっている。
健康になりたい、病気になりたくない、というような、願望も、そうかもしれない。
健康も、病気も、「今」の自分にふさわしい状態だから、そうなっている。
「今」を嫌っちゃ、なにも進まないように、この世はできているし、「個人の幸福感」そのものが、我良しの産物だったりすれば、それは儚い時の彼方へ消えていく、風の藻くずと化すものだ。
あらためて、フンドシの紐を締め直させてもらえた。
この世は、感謝のネタに、尽きない。。。 魂の訓練場。。。
ということを、常に、「石に知らせてもらっている」だけじゃ、いけませんね。。。
ホントウは、「石がいらなくなる」ことが、正しいのだろう、と思うから。
「2012年」という固有のキーワードにこだわる方々は、スピ界にはやたらに大勢いらっしゃることだし、もう私なんぞが、なんやかんやと、ちゃちゃを入れる必要もない・・・ そんな風にも感じるし、当の私自身が、「まぁ、来るなら来いや~、だって、必ずその日その時は、やってくるのだし」という諦念ではないが、なんかこう、画策するべきものでもないのだしな・・・と考えていた。
だから、本当に、久しぶりに、
その手の、見たこともなかった「新しい(私にとって)情報」に触れた時には、もう、本当になんというか、「ぺりぺりと、古い角質が音を立てて、剥がれ落ちていく感」があった。
モリオンという石は、これも、私にとってなのだけれど、
「目を開けたまま、知っておくべき、霊性にとって有益な、現実」を、知らしめる石なのかもしれない。
この石といっしょにいるようになってから、そう感じるようなことが増えたように思う。
ところで。
私にすっぽりと抜け落ちていたもの。
それは、奇しくも、「ご先祖様のご供養」という「行い」である。
これは、「思うだけ」じゃダメだ。
よく、「思いが現実を創造する」ということは、スピ業界でも耳タコに言われているし、一般的な啓蒙書なんかでも言われる。
が、「思い」「行動」しなければ、それは現実にはならない。
先祖供養も同じで、実は、これは「思っているだけ、感謝しているだけ」ではいかんのだ。
いつのまにか、それをしなくなっていた自分(以前はやっていた。そして、実家の親は、それを何十年も変わらずやっている)が、こうしていられるのも、これは、先祖の功徳を食い潰しているからに違いない・・・
もしくは、親が黙々と何十年も続けているその諸行の余徳分があるから、なのかもしれない。
いずれにしても、自分は、現在やっていないのが、事実なのだった。
実は、この「ご先祖様」というキーワード、これも、正月から気になっていたのだった。
私が、正月に実家に帰ったときに、父や母に、そんなに詳しくは話さないけれど、「天然石のアクセサリを買ってくれる人たちが、ありがたいことに増え続けていて、今、自分はこんな感じなんだよね・・・」というような話はした。
母は、親だから、「それは良かったね」と喜び、こう付け足した。
「ご先祖様が、守ってくれているんだねぇ。」
その言葉は、私にとっては、すごく意外、というか、かなり「新鮮」だったのだ。
自分が、忘れていた視点だと感じた。
実親は基本的に、「神様が、こうしてくれた」とは、そういえば昔から言わないが、「ご先祖様が、教えてくれている」とか、「ご先祖様が守ってくれている」とか、「ご先祖様に、お詫びしなさい」とか言う。
ご先祖様をすっとばして、ダイレクトに「神様」に・・・てなことも、そういえば、していないように思う。
つまり、「神様という存在は、敬う、感謝の対象であるのみ」で、日々生かされている恵みは、「ご先祖様あって」というところから外れていない。
ううむ。
そして、そのブログに出会ったのだけど。
たぶん、ふつうに、ご存知の方は、多いんじゃないかと思う。
私が、そこを何気ない気持ちで覗きにいったのは、私のアクセサリを買ってくださっている方が、このパワーストーン・ワークスをご自分のブログにリンクした、ということと、その方からの視点で、うちのブログの紹介をしてくれている、という報告をメールでいただき、そのブログを見に行った時に、他に、リンクにあったブログ・・・それだけのことなのだけれど。
めったに、イマドキの精神世界カテゴリなど覗かないのだが、本当に「なんとなく」というのは、恐るべしかも^^。
魂というのは、そういうものなのだ。
なんとなく感じてくるモノ、内から聞こえてくるモノに、間違いはない。
外から聞こえるモノ、見えるモノ(これは、いわゆる、霊視やチャネリングなどの、「外から」情報のことをいうのだろう)には、嘘が多いぞ、とは、ひつくの神様の言葉だが、その、「日月神示」の中のことについて、ショッキングな発見があった。
そのブログを読み進めていくうちに、
「私が、イマドキ系のスピリチュアル」に違和感を覚える理由は、そうか、この「先祖供養」という概念がガイコクものには出てこないこと・・・だったのかもしれない・・・と思った。
しかし、初めて読んでいるのに、なぜか「うわ、自分が考えていたことと、やけにかぶることが多いな」ということも多々あり。
私の場合は、霊能力と巷で呼ばれるような類の「本人が知るところの自分の能力」を持つわけではないので、あくまでも、「なんとなく、そういうふうに思うようになっている」だけの話なのだが。
そして、非常に「心臓が止まるか」くらいの、衝撃というかなんというかがあった、キーワードだけれど。
それは、「ひふみ祝詞」は、地獄行きの片道切符みたいな、呪文・・・
そのブログの筆者は、そのように、まぁ、言い切っておられる。
実は、私は折々に「日月神示」は読んでいるが、おそらく「ひふみ神示信望者」にとっては、当然の「業」とも言える、この「ひふみ祝詞」というものを、私は「ソラで言えない」のだ。
よって、「日常的に唱える」ようなことをしていないし、なぜだろう? ひつくの神様のおっしゃることは、すんなり入ってくるのだが、こういう「呪文」の類は、まったく覚えられないため、それが「必須の業」としては、やっていないのだ。
神社にお参りするような時でも、そういえば、この「ひふみ祝詞」を神前で唱えよう、と思ったことが、今までに一度もなかった・・・という不思議を感じた。
覚えられなかった理由は、おそらく、これは自分が「曲に歌詞を付ける」人間だったからだと思うのだが、「なんとなく、どう抑揚を付ければ、心地よく、口ずさめるのか」が、いまひとつ、体現できなかったからだと思う。
メロディのように、入ってこないのだった。つまり、心地の良いリズム感ではない。
般若心経ほど長くもなく、カンタンなのに、覚えられない。
・・・これこそ、「ご先祖様の導き」であったか・・・・ と、感じざるを得ないことはなかった。
(なぜなら、ひふみ祝詞を唱えていない自分に、ひふみ信者であれば、普通は違和感を感じるであろうに、私はなぜか、その暗唱を「身魂みがきの方法」だとは思っていなかったし、日月神示に書かれている記述で、自分に理解できない部分を理解できずにいることに、「不安」だとは、これっぽちも思っていなかった。よくよく考えてみれば、自分にとってのバイブルみたいなもん、と言っているのに、非常におかしな話である。)
こういう時、もし私が、日月神示「教」の「信者」であれば、そこに猛反論を唱えるのであろう。
しかし、あの書は、宗教ではないのだ。
その、宗教ではないものを、今、この「ひふみ祝詞」を世に広めている、スピリチュアル系の人物たちが増殖している・・・ということさえ、実は、私は知らなかった。
やはり、「八通りに読める」はホントウだ。
そして、「今にこの神示を金儲けの道具に使う人物が出てくるが」というのも・・・。
ちなみに、精神世界という「業界」で有名な「F」の頭文字の方が、ひふみ祝詞を推奨しているようなのだが、
どうしてこの方に関わると、ろくなもんじゃなくなっていくんだろう? というのが、笑える不思議である。
これは、「裏」定説みたいなんだけれど、この「F」という方が、「これはお薦め!!」というお墨付きを言い出すものは、必ず「下火になっていく」そうな。
これは、実は何年も前から、言われていたことで、妙にうなづける感じがした私だった。
この「F」氏は、なにかと、「スピリチュアル・ビジネス」に利用されている姿を目にする。
(利用されている、というだけではなく、たぶん、本人が好き好んでそうしているのであろうが)
なぜか、スピリチュアルに関わる方は、この「F」氏と並んだ写真を撮りたがり、「自分は知り合い」「自分は認めて貰った」という、「お墨付き」を欲しがる姿を目にする。
しかし、私的感覚としては、「・・・それは、ダメダメの烙印」に見えてしまうのだ。
私は、「シャーマナイト」も、「ありゃりゃ・・・こりゃ、だめかもな。」と、にこやかに、シャーマナイト布教者のねえさんと、「F」氏が、シャーマナイトをはさんで座る、写真を見た時に思ったものだ。
シャーマナイトは、願望を実現するための石でもなく、自己のオーラやパワーを強化するための石ではない。
シャーマナイトにしかり、古代の化石をその身に擁する鉱物は、「生の根源への接続」を常に促す。
そこを離れて、人は魂の目的だけを完遂することはできないからだ。
ところで、
私が今回このことを書こうと思った理由は。
私ふぜいの人間であっても、少なからずも私の影響で、「日月神示」に触れている方も、ひとりふたりではない、と感じたからだ。
日月神示は、決して「偽書」ではないと思う。
しかし、それを「アセンション・ビジネスに利用する」目的の紹介のされかたをし始めている、そして、「祝詞を唱える」その目的はいずこに??? なのだ。
なによりも、ひつくの神様がおっしゃっているのは、
「我良しは、だめよ」である。
なにかのまじない、呪文、そういうものを唱える心に「自分が助かりたい」があれば、そこには、必ず魔が入る隙間を作る。
これは、すべからく、世の中がそういう「神仕組み」になっている。
健康になりたい、病気になりたくない、というような、願望も、そうかもしれない。
健康も、病気も、「今」の自分にふさわしい状態だから、そうなっている。
「今」を嫌っちゃ、なにも進まないように、この世はできているし、「個人の幸福感」そのものが、我良しの産物だったりすれば、それは儚い時の彼方へ消えていく、風の藻くずと化すものだ。
あらためて、フンドシの紐を締め直させてもらえた。
この世は、感謝のネタに、尽きない。。。 魂の訓練場。。。
ということを、常に、「石に知らせてもらっている」だけじゃ、いけませんね。。。
ホントウは、「石がいらなくなる」ことが、正しいのだろう、と思うから。

この記事のシェア&ツイートfacebookでシェアTweetする
カテゴリ : 私の体験(石系 & スピ系)
follow links
FB page
Google+Go to top of page