アーカイブ
2007年10月07日の記事のリスト

終焉の準備

2007年10月07日 (日) 15 : 23
ものごとには「始めがあり、終わりがある」と言われている。
だけど、その「終わり」というのは、結局「次のはじまり」のサインに他ならない、ということも言われている。


たとえば、恋愛の終わり。
よく言われるのが、それは次にもっとすばらしいふさわしい人が待っているから。
今はつらくても、「ずるずる引きづらないで」気持ちを切り替えよう、と。
これは、シゴトにも言えよう。
昨今は、「終身雇用」的な働き方をできる立場の人は希で、本人が望む望まないにかかわらず、同じ環境で同じ仕事をずっと続けていける人などほとんどいないだろう。
そもそも、同じ環境のキープなど、不可能なのだ。たとえば、会社でいうなれば、自分がずっと同じポジションで同じ仕事をしていても、周囲のニンゲンは入れ替わり立ち替わり変化していく。周囲が変われば、それはもう前と同じではない。そこで、「前と同じ」にすれば、当然摩擦が生まれる。


しかし、ニンゲンなかなか、そうそうマテリアルに「こっちが終われば、はいお次」のような気持ちになど、とうていなれっこない。
希にそういう、さばさばした、というか、心の中に澱のように沈み込む感情などこの人は持っていないんじゃ? というような、みょうちきりんなポジティブを発散しまくっているような人に出会うと、静かに、憐れみの情が湧き起こることも昔はあった。
(今でも、ポジティブ用語をお題目のように発しているような人は、少し苦手である)


「はい、お次」「はい、お次」と、昨日と今日で、めまぐるしく変化していくことを、受け入れることに慣れていないニンゲンは、周囲のニンゲン、恋人や友人の「心変わり(これは自分にとって、そう映るだけの話)」が、大きなショックにもなるし、「自分てなんて“世渡り”が下手なんだろうか・・・」と、自己卑下に陥るだけならまだいいけれど、「変化するニンゲンたち」への心の中での猛反撃のような感情も生まれたりする。
いわゆる、「世渡り上手は、ずるいニンゲン」という、自分の中のレッテル貼りみたいなもの。


人は、自分から見て「自分がやりたいと思っていることで現在成功しているように感じる人間」が嫌いだった。
「きっと、なんとかかんとか調子のいいことやってるに違いないし、ただ運がいいだけなのに、それに感謝する様子もないし」と、見ていて、ただただ腹ただしく思うこともある。
但し、こういうのは、「自分がトライしてみて」という経験に裏打ちされていなければ、こんな感情を抱くことそのものが、自分にとっては「無駄足」ということに、賢ければ、人は気付く。


意外と、やってみると、結局はなんでも「途上」、どこまで行っても「これで良い」という「成功」というものはないのだ、ということを知るだけだったりする。


だから、何かしらモノゴトを始める時に、今は私は「これが私の生きる道」というふうにのめり込みながらも、どこかで「いつでも終焉はやってくるのだ」という心の準備をしているようなところがある。
物理的にたとえば今やっているようなことを続けていくために、必要な下地である、「本業」が変化してしまえば、たぶん続けていくことはできないだろう、というのは、想像できる範囲の話。
そうなった時にどうするか? を、今の内から考えて準備しておかなければならない。


それは、明日かもしれない。
半年先かもしれない。
一年先かもしれない。


いつか必ずそういう日がやってくる、その時「ああしておけば良かった、こうしておけば良かった」と呆然と後悔しないためにも、今は、「石ビーズを仕入れてアクセサリつくることが、ビョー的に好きな自分」として、楽しく生きていこうとは思っているけれど。
そういうリミットがあることが前提なのだ・・ということに、不平不満をあとから言わないためにも、常に「今」全力投球、一球入魂、なのだ。
そもそも、死んでしまえばこの世ではもうできないしね^^。
いつまでも「生きていられる」を前提とするから、人は未来を憂うわけでして。


あれ、なんか結局、ありきたりな多少「ポジティブ」なことを言ってるな。
私も少しは、「世渡り上手」になってきたんだろうか。


この記事のシェア&ツイートfacebookでシェアTweetする

カテゴリ :  私にとっての2012年
follow links FB pageGoogle+Go to top of page ページの上へ移動

ページの上へ移動
Go to top of page