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競争原理

2007年07月20日 (金) 00 : 14
よく、使われるこの言葉。
競争原理がはたらくことによって、よりよいものが生まれる・・・
これは、確かに真実でもあり、しかし度を超えた競争原理によっては、モノはいいのに「安売り合戦」で資金力をもたない側は潰されてしまったり、弱い立場、世に言うチカラを持たない立場の側にとっては、圧倒的に「競争」というシステムは不利なものでもある。そもそも、その「競争」の土俵にあがることさえ、困難だったりもする。

そういう、「競争」というものの弊害も、現実世界にはもちろん、たくさんある。
でも、もしこの「競り合う」マインドがなくなれば、「進化」はそこには生まれない。
進化することは、ある意味で、神摂理なのです。

今日、そんなことばかり、デンシャの中で考えていたのです。
私はこの、「競争」を、どちらかというとあまり好きでないヒトなんですが、自分がなぜあまりそれを好まないのかを考えていた。

比較される、優劣をつけられるのが、嫌だから?
負けることが、嫌だから?

いや、そうではなく。
私は、きっと「競争が嫌い」なのではなくて、「やむなくさせられている競争」が、嫌いなんだろうな、と。
やむなくさせられている競争の中に、「進化」めいたものが、なかなか感じられないからなのかもしれない。
「個性を尊重しつつ、互いの自由を認める」という、大いなる矛盾したテーゼを追いかける、昨今では、その「競争」でさえ、ひとつのシンプルな概念にはおさまらない。

よく、世界とか、宇宙とか、地球とか、集合意識とか、とにかく何かと「自分は全体の中のいち部分で、すべては繋がっている」ということを言われます。
この、「競争」というものの取り扱いは、その「調和」の中では、どうなっていくんだろうか?
と思いました。

「調和」と「競争」と「進化」が、噛み合う世界。
アセンションというものがあるのだとしたら、そのあたり、どんな感じになっていくんだろうか。
「和」という結びは、確かに重要項目なのだけど、「仲良しこよし」だけでは、モノゴトは発展していかないのは、この人間社会の歴史を見ていても、歴然としている。
同胞意識というものも、必ずそこには、同胞意識を生み出すための(競争、もしくは敵対、もしくは外野)相手があってこそ、機能する意識でもあったりする。

もし、なんでもかんでも、譲り合い、持ち回り、それだけだったら、私たちは「よりよい明日」を目指す意味もないだろう。


「調和の中から生まれていく、進化」といえば、今の世の中では、まだまだまだ、綺麗事の領域の話。
本気でそういうことを言っている人も、いるかもしれないけれど。
でも、現在の世の中のルールのままでは、まず、それは機能しない仕組みだろう。
見えない世界でさえ、たぶんまだ、そうはなっていないはずだ。霊界というところが、そもそも、階級というか、区別、区分けの世界ですもん。

よく、ニンゲンの闘争本能や競争意識に、「金」というニンジンを有効に働かせているのがこの資本主義社会、のようなことも言われますけれど、仮にそれが「物々交換」であろうと、やっぱりそこには、競争は依然としてありますよね。


アセンションしたって、たぶん、あるんでしょうね。競争。
それは、違う呼び名になるかもしれないけれど。
というか、「カネがカラマライ精神性の進化競争」のほうが、実はもっと、厳しい感じがしますよね。
だってそれは、「生きるためにやむなくさせられている」という“言い訳”が、できなくなるから。


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カテゴリ :  私にとっての2012年
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