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不可避の通過点

2007年07月01日 (日) 02 : 18
先日、松濤にあった天然温泉施設が一瞬にして原爆ドームのような骨組みだけの状態になる大事故があったり、この手のことが頻繁に起こるようになってくるのかなぁ? と思われるような、気配がありますね。
(また、「渋谷」かよ・・・って感じですね~。松濤、私がいるところからそんなに近くも遠くもない場所ですが。)

でも、天然ガス爆発じたいは、何年か前にも、北区で温泉を掘ろうとしていて、工事現場が爆発炎上したこともありましたし、その時にも、地下天然ガスの危険性については多少論じられていたように思うのですが、そんなことはおかまいなしに、今、都心だけでなく、けっこう色々なところで「天然温泉施設」ってものを見かけます。
(この「北区」事件の時には、当時私が働いていたカイシャでも、大規模マンションの中に「巨大浴場」施設のあるマンションを開発していましたし、問い合わせもあったみたいなんですが、この巨大浴場は、「なんちゃって温泉風」で、水道水を何台かのボイラー使って湧かしているだけのもので、「温泉」じゃないわけでした^^。でも、物件購入者は温泉だと思って恐怖していただろうなぁ、と思いましたし、実際私もその事件があるまではそれを温泉だと思ってましたし。いやいや、ほんと、そこのカイシャって悪運が強いカイシャなんですよね、なんとなく)

関東の地中深くには、メタンガスがうようよしているようで、特に千葉県沿岸部は、天然ガスベルト地帯のような場所だということを聞いたことがあります。こういうものを「エネルギー化」できればいいのでしょうが、そのコストが見合わない、という話だったように記憶していますが、理由はもっと違うところにあるのかもしれません。

旅行先のホテルの大浴場にくっついているような温泉、ああいうのも、掘り起こし温泉ですよね。
が、おそらく、関東とは事情が違っているのだろうとは思いますが。
式根島にある、崖っぷちを海へ向かって降りていったところにある、海を望むちっこい天然温泉。満ち潮の時にだけ出現するんでしたっけ。ああいうのが、本来のホンモノの温泉というものなのでしょうね。
良いモノっていうのは、不便で手間がかかる、そして「少ない」ものなのでしょう。


「偽装ハンバーグ事件」というのも、まぁ、「レトルトは食わないほうがいい」という警告を発してくれているだけでも、明るみに出てよかったんじゃないでしょうか。
レトルト食品というものを、子供の頃から、ほとんど食していなかった私は(子供の頃は、うちは「固形のカレー」程度も父が禁止していたんです。「肉」も、ほとんど出てこない家でした。単にビンボーでそうだったのかと子供の頃は思っていましたが、あれは、「食」への父のポリシーだったようですね。魚介類、煮物、漬け物、そんなんばっかでした。もちろん母の手作り)電子レンジというものを持っていません。なので、「暖めるだけで食べられる調理済み食品」には、必然的にあまり縁がありません。何かしら、食材に火を通して「作る」ことになります。時々、時間がなくてレトルトを希に食べることもあるのですが、なんとな~~~く「満足感」がないですね。

(あと、昔、自分が実家を離れるようになってから、ものすご~~~~くトラブルの渦中に放り込まれるような生活となっていった際の食生活の中には、今から思うと、そういう「レトルト系」が思い切り入り込んできていましたね。混ぜれば出来上がりのパスタソースとか。あまり、「食」を大事にする生活をしていなかったように思います。こういうのは、「卵が先か鶏が先か」の世界ですが、相互に関係しあっているんですね。今が、不遇であったり、困難の渦中、という方は、ぜひこの「食」の見直しをおすすめしますね)


これから、いわゆる立て替え現象、膿だし現象、と思われるような、出来事が、ますます増えていくのだろう・・・
そして、そういうふうに思う人の数も増えていけば、その立て替え現象はますます頻繁に規模もグレードアップしていき・・・ってな具合に、進み始める、いや、もう始まっていますね。


年金管理の問題でも、社会保険庁のずさんさがニュースになっているようですが、そもそも、「なぜ社会保険庁だけが、きちんと個人情報管理ができていて当たり前」だと、今まで素直に思っていられたのかが、不思議です。

今の時代、十年二十年前とは、格段に「人の移動」が増えていますし、ひとっところでずっと勤めを終える人も少なくなってきていますから、その個人個人の「系譜」を、すべて抜かりなく彼らが把握できているはずもない、そんな手間のかかるシゴト、想像しただけでも、100%できているはずがない、ってことぐらい、わかりますよね。
ちなみに私も、今の昼間のシゴトについてから、社会保険加入手続きの時に、前職までの年金記録がない、って言われましたよ^^。これは、「年金手帳」ってものがどっかいっちゃいました~、ってことを、申告してみてわかったことです。
その後、どうなっているのかの報告もとくにありませんし、新しい年金手帳もやってきませんが、毎月、社会保険料はしっかり給料から引かれております。

こういうのは、正直、「お賽銭」じゃないけれど、あまり戻ってくることを期待してもしょうがないお金かもしれませんね。
年金受給者を養わせていただいている、と、考えたほうがすっきりするし、年金受給者の方にも、自分の子供ではない身も知らぬ若い世代に食わせてもらっていることに対する感謝の意識を持ってお過ごしいただければ、それでいいんじゃないでしょうか。
まぁ、私の場合は、実親がまだ健在で、毎月、年金をいただいて暮しているようなので、「親がもらっているぶんを支払っている」というふうにも考えてますし、だいたい、総額が兄弟三人で支払っている厚生年金保険分ちょうどくらいの金額なんじゃないかな^^。
つまり、システム的に、本来、ひとりの年金受給者に対して「三人」くらいの原資が必要なのに、これはいずれ逆転するわけですから、システム崩壊は決定的なんですよ。
20年くらい前から、ずっといわれていたことです。

将来、日本人が生き続けていける社会を実現したいのであれば、「金のチカラ」に頼るには限界があることは、もう見えてきている。「本気の相互扶助」による、システムが必要。
誰もが、自分のための金儲けや進歩発展を望むのではなく、自分の家族のためだけではなく、自分への見返りを期待しないでも、せっせと自分のために貯金や利殖をしなくても、見知らぬ誰かのために働くことを喜びとして生きていける社会の実現が、不可避なんです。
というか、そういう人間になっていかないと、存在できない社会。
だから、中には働かないヤツも出てきても、それを余裕で、「どうぞどうぞ、お休みくだされ。自分があなたのぶんも頑張りますよ」と、恩にきせるでもなく、働ける人間が、ココロから言えないと、システムとか器だけできあがっても、実現しませんが^^。
(昔の日本の大きいカイシャって、今よりはもう少しそんな懐の深い雰囲気あったんですけどね。今はそうもいかないんでしょうなぁ。でも、日本人というのは、それをできるDNAを持った民族だと私は信じています)

立場や、手にした地位、役得、そういったものに左右されない、誰もが「自分の役割」を満足できる社会。他のために、向上心を維持できる社会。
(それは、たぶん「人間中心」では実現しないかもしれませんね。中心に据えるものが、「自己」であり続ける限り、また、「他者のみ」でも、成り立たず。なかなかに、難しいです)



こういう、不可避のクラッシュ現象というものを、アセンションに絡めた「胎動現象」として、予言、警告、がなされている本やサイトも数多く、なんというか、近未来はとりあえず、相当の価値観の方向転換をせざるを得ない状況に、私たちはもっていかれそうなんですが、いたづらに、こういうことを恐れたり、それでやる気をなくしたり、っていうことのないように・・・っていうことを、私に教えてくれていたのが、「石たち」でした。

何年か前までは、「大地震おたく」じゃありませんが、その手合いの情報にも、ものすごく敏感でした。
でも今は、大地震に遭遇したらかなり困るだろうな~~~、という典型的なシゴトをしていますし^^。
なにしろ、長距離移動の連続、しかもデンシャ、という、大地震の際には、かなり命を落とす、混乱状態に巻き込まれる、路頭に迷う確率の高いシゴトではなかろうかと思われます。一昔前の私だったら、絶対に「恐怖」で、あり得ないシゴト、でした。


でも、ひふみ神示を読んで、思いました。
「富士はいつ爆発するのざ、どこへ行けば助かるのざ、というそのこころ、我よしざぞ。助かる臣民、どこにいても神助けるし、助からぬ臣民どこへ逃げても助からぬ。神が助けるのでないぞ、神助かるのざぞ」
「滝に打たれ、蕎麦粉食うて行者は行してゐるが、断食する行者もゐるが、今度の行は世界臣民みな二度とない行であるから、厳しいのぞ、この行できる人と、よう我慢できない人とあるぞ」

聖書でも、イエス様がおっしゃってますよね。
貧しいものは幸い、と。
「満たされている状態」「維持したい安楽な状態」を持つ人ほど、価値観の方向転換時には、「へなへな腰」になりやすいのです。
失うものが大きいほど、人は臆病にもなり、恐怖心も抱えます。
そういう時に、本性というものが、表に現われる。

その、「失うもの」というのは、なにもモノばかりではなく。
自分を取り巻く「条件、環境」の全てです。
誰だって、自分の状況がそう悪くない時は、「天使のふるまい」「高次元の存在と繋がった気」になれるものだと思います。
そんなに大きな贅沢はできずとも、衣食住に困らない生活ができている状況。
これは、実はものすごく「恵まれている」ことなんですよね。
ゆったり、ヨガや、瞑想や、ピプノセラピーや、さまざまなヒーリングアイテムや手法を使い、手間暇かけて、それに浸れる時は、心静かになれるもの。私がお話している、「石」だって、そういう意味では同じです。

そうではない状況の時に、その「ココロ静か」を維持すること。
それが、「行」であり、それを、本当に喜べるか? ということ。
ひつくの神は、「悪を消化する梅干し必要、こころの」とも、おっしゃってます。

遭遇する、自分から見た「悪」と思われるものに、同調するのではなく、取り込まれるのでもなく、憎むのでも恨むのでも悲しむのでもなく、飲み込んで消化してしまうには、強靱な達観力と精神力、気力、体力が必要ですよね。
それは、単に「奉仕精神」「感謝」「愛」「平和を祈る」「信念」のチカラだけでは、困難でしょう。

「不可避の通過点」を今後大勢の人が経験する日が、近い将来やってくるのであれば、それこそ、スピリチュアリティに誰もが目覚めることができる、「チャンス」の舞台の幕が切って落とされる日でもあり、また「飾りようのない自分本来」を、誰もが発見し、つきつけられ凝視しなくてはならない日々の始まり、なのではないでしょうか。


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カテゴリ :  私にとっての2012年
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