昨日で仕事納め、今日からお休みなのですが、家の中のことを何もしていない!という現状、今日はあたふたと、一夜飾りはマズイんだよな~~~と思いながら、あれこれとお飾りなどを買出しに、あと神社さんへ今年のなんやかやと納めにいって、来年用のお札等々買ったり、あ~~~しんど。でした。
大掃除は明日ですかね。(しないかも^^)
うちのそばの明治神宮は、年が明けるとしばらくはとんでもなくごったがえしてしまうので、今日これまた大急ぎで参拝に行く始末。
境内はもう「初詣用」仕様になっていましたね。
お正月の3が日とか、大晦日に、明治神宮に行ったことのある方ならお分かりかもしれませんが、あの空中を飛び交うお賽銭は、ほんと怖いですよね^^。
あたまの上を越えて、無数の小銭が飛んでくるんですよ。
壮観と言えば壮観ですが。
しかしあの一瞬のお参りのために、寒い中何時間も並んで、っつーのは凄いことです。
まぁ、それだけ「新年の始めに気合入れて初詣に行ったのだ!」という自分の中の既成事実を作ることで、何かしら好転して欲しいことがあるのであれば、「大丈夫、うまくいく」という自信にも繋がる効果はあるかもしれませんが。
まぁ、私にはその手の気合いはありません。
なので私は、明治神宮は空いている時限定で行くことにしているのですが、1月は下旬にならないと、平常時の広々とした参道の感じが戻ってこないのです。
ところで、書こう書こうと思っているうちに、日が過ぎちゃったんですけれど、もうものすごく古い話みたいな感じがしますが、ミネラルショーで、石屋さんから聞いた話。
ものすご~く、私には、考えさせられるものがありました。
天然石ビーズ需要そのものの増加傾向だけが原因なのかどうかは判りませんが、現在、だんだん美しいビーズとなる原石が減少傾向にある石の種類の多いこと、多いこと。「えぇ~っ、それもなのー???」
という具合に、私にとっては「あって当たり前」くらいの認識だったような「耳慣れた石」ばかり。しかし、言われてみれば確かに・・・のものばかりなのです。
まぁでも、確かに、天然石は私たち人間が生み出せるものではないので、採り続けていればそういうことになるのは、自明の理なのですが。
そもそも、こういったビーズとなる石のいわゆる母岩というのでしょうか、それは採鉱される石の中のどのくらいの割合なのかというと、10分の1あるかないか、なんだそうです。
そしてその中で、いわゆる「グレードの良いもの」となると、またさらにその10分の一。いわゆる、最高グレードかなんかのクラスは、またその中の・・・という、とても数の少ないもの。
宝石クラスというのは、ビーズでそうですから、これまた天文学的な少なさ。
「石の鉱山に行ったことないでしょう。だから、採れる全体の石の中でどのくらいの確率でこうしてビーズになっているのか、実感はできないですよね。特に日本人は、綺麗なモノ、綺麗なモノ、となる(うるさい)けどね、そういうレベルなわけですよ。」
「あんまり採れなくなってきた、っていう話が出始めると、価格高騰しますね。だから、こんなにいつでもあったのに、っていうビーズが、そのうちに高級品になる日も近いですよ。」
と、おっしゃっておられました。
この話を聞いて、私が思ったことは、「だから綺麗なものがある今のうちに、買っとけ」というススメではないです。
だけど、どれも私が今後も引き続き、「こういう、いつでもどこでも手にすることができる、しかも安価な石こそが」と謳って、お薦めしようと思っていた石が、ことごとく、採られ過ぎて、美しいものが消えていっている・・・・という事実。
落ち込むじゃないですか・・・。
「あって当たり前」のものなど、ないのだ。
そう思いました。
自分がやっていることの本質そのものについて、考えさせられました。
こうやって、人に石のことを伝え石を薦めることをしている自分は、つまり、周り周って、この地上から綺麗な石たちが消えていくことに荷担している。
でも気がついたのです。消えているわけではないのです!
ビーズとなったり、丸玉となったり、形を変えて、誰かのモトに渡っているのですから。
問題は、石を持った人が、「石にちゃんと有効的に仕事をさせてあげているか?」なのですね。
石を持つ、ということは、現在とても気軽ですけれど、実はある意味その存在に感謝し「責任」を持つことでもあるのだな、と。
この話を聞いて、私は今自分の手元にある石ビーズを、一粒も無駄にできないな、と感じました。
ともすると、「あ~これ、穴欠けてるじゃんか」とか、「うう、この曇りは、このインクルは、だめだ使えない」とか、いわゆる見た目レベルではどうしようもない石、ってのがビーズのなかには絶対に混在するわけです。
たくさん石を見てくると、実際、そういう見た目レベルの高低というものを無視できなくなってきます。
「石そのものの持つチカラや性格」とは離れたところで、石を見る目が生まれてくる。
特に、人様に販売するとなると、自分用ならともかく、綺麗じゃない石は使えない。
実際、私自身も、石を見つめる目、選ぶ目が、そういう傾向に傾いていたことに気がつきました。
そして、そういえば、「石の声」をあんまり聞かなくなっていたかもしれない。
そう感じました。
私が石のチカラを知り、私に話し掛けてきた石たちというのは、特別美しいものばかりではありません。
私はその綺麗さを認めているけれど、インクルージョンはあるし、ヒビはあるし、いわゆる「美品」ではなかったりする。
(なにしろ、「足りないお金調達機」みたいになってるグリーンアベンチュリンの大きな石などは、ハート型の真ん中にまっぷたつの亀裂が入っている、このまま割れるんじゃないかと思われるような、売り物としては「難あり」の姿をしたものだったりするのです^^。)
私の手元には、「早くアクセサリにしてくれ」のビーズがわんさかいます。
今は私に限らず、そういう「早く使ってくれ」の石ビーズをストックしている人多いと思います。
私が石屋さんからお伺いした話は、そういう石たちからの、メッセージだったんだろうと思います。
だって彼らは、そのためにビーズに姿を変えたのだから。
来年のテーマは、本来のところに戻って、
「パワーストーンをパワーストーンにする」とはどういうことなのか。
そこへ、焦点を絞っていくこと。
自分の軌道ズレを教えてもらった、ミネラルショーだったと思いました。
大掃除は明日ですかね。(しないかも^^)
うちのそばの明治神宮は、年が明けるとしばらくはとんでもなくごったがえしてしまうので、今日これまた大急ぎで参拝に行く始末。
境内はもう「初詣用」仕様になっていましたね。
お正月の3が日とか、大晦日に、明治神宮に行ったことのある方ならお分かりかもしれませんが、あの空中を飛び交うお賽銭は、ほんと怖いですよね^^。
あたまの上を越えて、無数の小銭が飛んでくるんですよ。
壮観と言えば壮観ですが。
しかしあの一瞬のお参りのために、寒い中何時間も並んで、っつーのは凄いことです。
まぁ、それだけ「新年の始めに気合入れて初詣に行ったのだ!」という自分の中の既成事実を作ることで、何かしら好転して欲しいことがあるのであれば、「大丈夫、うまくいく」という自信にも繋がる効果はあるかもしれませんが。
まぁ、私にはその手の気合いはありません。
なので私は、明治神宮は空いている時限定で行くことにしているのですが、1月は下旬にならないと、平常時の広々とした参道の感じが戻ってこないのです。
ところで、書こう書こうと思っているうちに、日が過ぎちゃったんですけれど、もうものすごく古い話みたいな感じがしますが、ミネラルショーで、石屋さんから聞いた話。
ものすご~く、私には、考えさせられるものがありました。
天然石ビーズ需要そのものの増加傾向だけが原因なのかどうかは判りませんが、現在、だんだん美しいビーズとなる原石が減少傾向にある石の種類の多いこと、多いこと。「えぇ~っ、それもなのー???」
という具合に、私にとっては「あって当たり前」くらいの認識だったような「耳慣れた石」ばかり。しかし、言われてみれば確かに・・・のものばかりなのです。
まぁでも、確かに、天然石は私たち人間が生み出せるものではないので、採り続けていればそういうことになるのは、自明の理なのですが。
そもそも、こういったビーズとなる石のいわゆる母岩というのでしょうか、それは採鉱される石の中のどのくらいの割合なのかというと、10分の1あるかないか、なんだそうです。
そしてその中で、いわゆる「グレードの良いもの」となると、またさらにその10分の一。いわゆる、最高グレードかなんかのクラスは、またその中の・・・という、とても数の少ないもの。
宝石クラスというのは、ビーズでそうですから、これまた天文学的な少なさ。
「石の鉱山に行ったことないでしょう。だから、採れる全体の石の中でどのくらいの確率でこうしてビーズになっているのか、実感はできないですよね。特に日本人は、綺麗なモノ、綺麗なモノ、となる(うるさい)けどね、そういうレベルなわけですよ。」
「あんまり採れなくなってきた、っていう話が出始めると、価格高騰しますね。だから、こんなにいつでもあったのに、っていうビーズが、そのうちに高級品になる日も近いですよ。」
と、おっしゃっておられました。
この話を聞いて、私が思ったことは、「だから綺麗なものがある今のうちに、買っとけ」というススメではないです。
だけど、どれも私が今後も引き続き、「こういう、いつでもどこでも手にすることができる、しかも安価な石こそが」と謳って、お薦めしようと思っていた石が、ことごとく、採られ過ぎて、美しいものが消えていっている・・・・という事実。
落ち込むじゃないですか・・・。
「あって当たり前」のものなど、ないのだ。
そう思いました。
自分がやっていることの本質そのものについて、考えさせられました。
こうやって、人に石のことを伝え石を薦めることをしている自分は、つまり、周り周って、この地上から綺麗な石たちが消えていくことに荷担している。
でも気がついたのです。消えているわけではないのです!
ビーズとなったり、丸玉となったり、形を変えて、誰かのモトに渡っているのですから。
問題は、石を持った人が、「石にちゃんと有効的に仕事をさせてあげているか?」なのですね。
石を持つ、ということは、現在とても気軽ですけれど、実はある意味その存在に感謝し「責任」を持つことでもあるのだな、と。
この話を聞いて、私は今自分の手元にある石ビーズを、一粒も無駄にできないな、と感じました。
ともすると、「あ~これ、穴欠けてるじゃんか」とか、「うう、この曇りは、このインクルは、だめだ使えない」とか、いわゆる見た目レベルではどうしようもない石、ってのがビーズのなかには絶対に混在するわけです。
たくさん石を見てくると、実際、そういう見た目レベルの高低というものを無視できなくなってきます。
「石そのものの持つチカラや性格」とは離れたところで、石を見る目が生まれてくる。
特に、人様に販売するとなると、自分用ならともかく、綺麗じゃない石は使えない。
実際、私自身も、石を見つめる目、選ぶ目が、そういう傾向に傾いていたことに気がつきました。
そして、そういえば、「石の声」をあんまり聞かなくなっていたかもしれない。
そう感じました。
私が石のチカラを知り、私に話し掛けてきた石たちというのは、特別美しいものばかりではありません。
私はその綺麗さを認めているけれど、インクルージョンはあるし、ヒビはあるし、いわゆる「美品」ではなかったりする。
(なにしろ、「足りないお金調達機」みたいになってるグリーンアベンチュリンの大きな石などは、ハート型の真ん中にまっぷたつの亀裂が入っている、このまま割れるんじゃないかと思われるような、売り物としては「難あり」の姿をしたものだったりするのです^^。)
私の手元には、「早くアクセサリにしてくれ」のビーズがわんさかいます。
今は私に限らず、そういう「早く使ってくれ」の石ビーズをストックしている人多いと思います。
私が石屋さんからお伺いした話は、そういう石たちからの、メッセージだったんだろうと思います。
だって彼らは、そのためにビーズに姿を変えたのだから。
来年のテーマは、本来のところに戻って、
「パワーストーンをパワーストーンにする」とはどういうことなのか。
そこへ、焦点を絞っていくこと。
自分の軌道ズレを教えてもらった、ミネラルショーだったと思いました。

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カテゴリ : 私にとっての2012年
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