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思いが現実を創造する

2006年09月16日 (土) 02 : 01
このことも、あまりにもあちらこちらで言われ続けているコトなので、今さら私がこの事実に対して、解説、注釈を展開させる必要はないと思います。

思いが現実を創造する。

先日、適職と天職についての記事のコメントに、「できないと思ってしまえばできないけれど、天職で食べていくことができると思えば、できる」というものをいただきました。大変励みになるコトバです。
そして、実際に世の中には「好きなことをして生きていけている人たち」が、それなりにいらっしゃることも、おそらく事実です。
それがどういうことなのか、「自分のこと」ではないから、知らないだけなんですね。

確かに、適職と天職の話って、なんとな~く「罠」のような仕掛けがあるようにも感じます。これを、誰が言い始めたのか? という部分を探ると、確かに、「だから無駄な夢は見ないで、凡人はおとなしくありがたくサラリーマンやっておけや」という見えない意図みたいなものも、感じられなくもないですよね^^。

適職、天職のバランスについては、結局「人それぞれ」というのが正しい見方なのかもしれません。

思い、というのは、強固な潜在意識部分からも発せられるネガティブ信念から根こそぎ変えることができなければ、なかなか「変える」ことなんてできないものです。
特に、自分が経験してきたことによる実感からのネガティブ信念は、なかなか変えられません。
これを、変えたくて、変えたくて、そのために自己啓発本、精神世界系セミナーなんかを渡り歩くような方も大勢いらっしゃるんじゃないでしょうか。
パワストを手にするのも、そういう目的での方も多いでしょう。

自分の過去世を探ってみたり、はたまた、未来が読めるアカシックリーディングにチャレンジしてみたり、神秘世界を探求する心には、すなわち、「その仕組を解き明かすことができれば、自身の運命じたいを自由自在に変化させることが可能かもしれない」という期待感が、心のどこかにあるから、なのかもしれません。

先日、バンドのボーカリストをやっている、という方からメールをいただき、それに返信をしていて気がついたのですが、私は作詞そのものは私に備わった天賦の才と運でやってきたつもりですが、音楽業界で「経験してきたこと」は、必ずしもいいことばかりではなかったんだな~、ということに、あらためて気がつきました。
で、自分のその経験値から発せられるネガティブな信念というものは、とても根強いものがあって、それゆえ、どんどん自分の世界を狭くしていったのかもしれないな、と感じた次第です。

具体的な例で言うと、作詞という活動は、作詞単体で成り立つものではありません。
曲と、唄う人間。最低限、そのコミュニケーションが必要です。
楽曲だけがあっても、仮にそれが「最高に素晴らしい楽曲」であっても、それを唄って表現できる力量を持つアーティストがいなければ、楽曲だけでは何も機能しないのです。

歌詞を書く才能など、たいしたものではありません。
実は音楽の仕事というのは、いかにして、この「自分のパート以外の部分」とのベストタイミング、ベストカップリングを生み出せるか、にかかっているのです。

こういうものは、座って待っていて、巡り会えるものではありません。
だからといって、やみくもに、知り合いを増やすように業界に名刺配りすれば出会える、というものでもありません。(こういう人も多いんですけどね^^。)
やりたい人間の数だけは多くても、なかなか「これ!」がいない世界であることも、特徴の業界です。(自分のことを棚上げして恐縮ですが。)
ひっじょうに、先のわからぬ未知との遭遇の世界なのです。

で、私が出会っていった「ネガティブマインド」を根付かせた経験の繰り返し、というのは、結局、私の歌詞云々、ということではなく、「私の歌詞をずっと必要としてくれる両思いのアーティスト」に、出会えなかったことに尽きるのではないかな、と思います。
この経験を繰り返すうちに、潜在意識の中で、「どうせ、最初だけ利用されて、あとからアーティストは自分でへたくそな歌詞を書きたがるようになる」というパターンが出来上がり、実際、そうなりました。
というか、実際私が接したアーティストというのは、ある意味「プロデューサーの目から見て、歌詞を書く力量がまだない」といえるアーティスト(作家に頼む、っていうのは、そういうことです)なのですが、ご本人の本心としては、おそらく歌詞を書きたくないのではなく、やりたいけれどプロデューサーがそれを認めていないから、という「命令」に従っている、というのが実態であることが多い。

でも、歌詞って、正直「経験を積めば」「勉強すれば」のものではないのです。
これは、曲にも言えるし、ボーカルの才能も、結局は天分、もともとのセンスと勘の良さが、かなりのウェイトを占めている。
だけど、なんでしょうかね、歌詞って、コトバだからなのだと思いますが、結局その本人の力量云々は別に、誰でも書けそうな感じがするものなんですよね。
「アーティストが自分で書く流れ」が主流であったことの影響ももちろんあるのですが、作詞家が延々ひとりのアーティストとのカップリングでいける、という世界は、閉じられつつあったのですね。
これは、私だけではなく、そういう締め出されていく作家さんは数多く存在するのを見ているので、ある種の刷り込みにもなっているわけです。

では、そういう中で作詞家が生き残るために、何が必要だったか? を振り返ると、当然ですが、「実力と個性」しかし、それ以外に重要だったのが「企画力」「演出力」「コミュニケーション力」「アピール力」という、なんと、いわゆる「営業力」と「プロデュース能力」であったわけですね。営業力がなければ、人脈も、機会も広がらない。企画力、提案能力がなければ、要求された仕事を請け負い、忠実にシステムを具現化するSEさんみたいなもの。ひとつ終われば、それでお終い。
これは、作家に限らず、アーティストも同じです。
「自分の才能をいつか誰かが見出してくれる、わかってくれる」っていう、こういう音楽だの芸事方面では、月並みなありがちな妄想を人は抱きがちかもしれませんが、それは夢です。
最初は、きっかけは、それかもしれません。
誰かの目にとまる、というやつですね。
私はそれでしたから。
しかし、「継続していく、発展させていく」のは、そういう偶然のチカラだけでは、不可能なわけです。

作詞家になる以前の私は、いわゆる「普通の事務やってたOL」というやつで、そういった「営業力」「プロデュース能力」の持つ意味も、また、そういったものを身に付けていこうという、そのためには何をしたら良いか、ということを模索する情報収集能力も分析力も何もあったもんじゃありませんでした。
なので、さっぱ~り、その積極性が生まれませんでした。

まぁ、そんなわけで、私はその「時流を変える」ほどの情熱も、実力も、根性もない人間でしたので、流れのままにジリ貧となっていったわけでした。
私程度のぺーぺーなんかよりも、おそらく、そこそこ名の知れた作家さんたちでさえもが、今何をしているかを追跡すれば、作詞家の悲哀の成る程感覚が、より倍増しちゃうんですけれどね^^。

今、こうして振り返ってみると、そもそも、作詞家という絶滅危惧種の職を選んだことじたいにそもそもの問題があった^^とも言えるのですが、そういうことは抜きにして、
今回、思うことは、こういう「触れ込み」「時流」「常識」の打破、それは、可能なんだろうか? ということです。
当時のこの経験は、こんな無名作家の私一人の単なる「思い」「信念」程度でなんとかなるような現象とは、私にはとても思えませんでした。

それが「可能である」という確信を自分の中に持てる、目の前の荒野を見ても、どんな逆境を経験し続けようと、絶対自分はたったひとりでもこれをやっていけるのだ、のマインドを持ちつづけることができる強靭な精神力を持つことももちろん大切です。
しかし、「それが自分に具体的にできるのか? 根拠は、策は、アイディアはあるのか? おまえはそれをやる気があるのか? 誰がなんと言おうと、世界中の全員にそれは無理だろうと言われても、自分がそれをできるはずだ、と言い切れるのか?」を、客観的に、問いただすことも重要なんじゃないでしょうか。
つまり、そこまでの真剣味がないのであれば、撤退する勇気だって必要なんじゃないか、と思うわけです。

思いは確かに現実を創造するのですが、思いのとおりに行動する自分を、信頼できないのであれば、それはただの「ないものねだり」。
夢が夢のまま「絵に描いた餅」で、何も動かない、「思いが現実をつくる」という、どこか都合良く聞こえるシンプルな部分だけに、すがってしまうだけなんじゃないかしら。
私が、スピリチュアル系や、占い系、自己啓発系の成功本なんかを(既存のパワーストーン本も含めて)あまり広くは読まないし、たいしてのめり込まないのも、その辺りにあるんですよね。
「イイコトしか書いてない」ものを求めるその心の中に、それを根拠に拠り所にしてしまうかもしれない自分の弱さ、優柔不断さを、直感的に判っているからなのだと思いますけれど。

まぁ、今の自分には、天職もなにもあったもんじゃないな、というのが、今日のところの自分的結論です。


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カテゴリ :  私にとっての2012年
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