これは、そういう側面はあると思います。
我が身が明日どうなるかわからない、その窮地に立たされた時でも、同じことをできるかどうか。そこがおそらく、分かれ目でもあるのではないでしょうか。
私もよく昔はそういう風に考えていました。
生活に余裕がある、自分の未来に自信がある、生まれた境遇そのものが恵まれている、親がたっぷりの物質的精神的愛情を注いでくれる、そういう人は、そりゃ自然に素直に家族を好きになり、他人を素直に愛せるだろうよ、と。
人間は、自分が受け取った実感値で、他に返す。
ギブアンドテイクというやつですね。
私自身は、あまり今風で言えば「物質的に甘やかされた環境」で育った子供ではありませんでした。とはいえ、今ほど昔は「どの家もそこそこ裕福そう」という感じではなかったものの、その中でも、相対的に見れば「下」だったと思います。
当然、不満でした。
そして、幸福になるためには、たくさんお金を得る手段というものが必要なんだな、ということが、子供ながらに分かってもいました。
うちにはお金がない、と、母がよく言っていましたので。
そういうわけで、私は高校生の頃から、「当然」アルバイトで、自分の必要なお金を得るという手段を覚えました。正確には、中学を卒業する前から、「シゴト」を確保していました。当時は漫画も書いていて、漫画家になりたかったのですが、漫画の懸賞に応募するのも、どちらかというと、「懸賞金」目当てでした。一万、二万を貰えるわけですから。大賞を取って漫画家デビューする、というよりも、佳作とか努力賞で良かったわけです。
しかし、アルバイトの時給で得られる、1ヶ月5万円から多い時で7、8万円の魅力のために、せっせと漫画を書いて、一万、二万じゃなぁ・・・という心から、高校三年生の時に、筆を折りました。
その後、就職し、まったく漫画の世界からは離れました。
その当時、ずっと漫画を投稿しつづけていた雑誌の編集部のお姉さんに呼ばれ、「就職するんだ。」と言ったら、「そうか~。描けなくなるよ~。」と、もったいない、とおっしゃっていただいたのですが、心の中で「漫画描いたりなんて、大学に行かせて貰ったり、そういう余裕のある家の人間がそれはやればいいんだ。」と呟いていました。
とてもシニカルな孤独な子供だったと思います。
しかし、就職した先で、私はもっと孤独でした。
たまたま、いわゆる一部上場の大企業への就職でしたから、それまでの人生で出会ってきた人々などよりも、「もっと恵まれたバックボーンを持つ人たち」が、溢れている環境だったからです。
普通に大学に行かせてもらって、結婚式の費用や、マイホームの頭金まで親が用意してくれるような、そんな人たちだらけでした。
いわゆる、「腰掛け」で嫁入り前の吊り書き用に就職したようなお嬢さんだらけ。
就職してお給料をいただきながら、親からおこずかいをもらっているような人もいました。「給料が安すぎて、とてもじゃないけど、服が買えない。」と言う、その人が身につけているものは、確かに、常になにか良さげなブランド品ばかりのようでした。
私は、面くらい、そして、なんと世の中というのは、どこまで行っても不公平なものなのか・・・と、溜息をついたものです。
人間は頭では「世の中には恵まれている人も、そうでない人もいる」ということを、頭では理解していても、どうしても自分の置かれている環境の物差し、基準で、計ってしまいます。私もそうでしたし、今でも、完璧に人間的物差しを脱却しているとは言い難い。
当時は当然インターネットなどもない時代でしたし、就職先、という環境が自分の世界のすべてとまではいかなくとも、相対的にモノを見る基準になりがちです。
でも、以来、さまざまに紆余曲折を経て、今があるのですが、その当時の自分が囚われていた小さな小さな世界観を、打ちのめすような危機的経験をその後にしてみて、いかに自分が文句たらたらの人生を送ってきたのかを、実感せざるを得ませんでした。
その、O.L時代にこつこつ貯めた貯金を短期間ですべて失うどころか、借金までできて、地獄の日々でした。それが、身から出たサビ、とは、どうしても思いがたいことの連続でした。
作詞家になることとバーターに、私の現実というものは、一変した感がありました。
いったん、普通の社会環境から隔絶されたような世界を生きてきた私が、それでも、また普通の会社員となり、やったこともなかった営業の仕事で、また財産をいただき(超不況、30代の職探しが困難、という中で、今から思うと破格の年収だったと思います)それも辞めて、今また「無職の職探し中」(あんまり探してないんですが^^)という、あんまり大それたことを堂々とは言えない立場、余裕たっぷりとはとても言えない立場ですが、それでも、こうして生かされている、というのは、何かしらの「御用」が私に課せられているからなのだ、何かしらの御役目があるからなのだ、と、今は思っています。
人間的捉え方をすれば、文句たらたらながらも、いちばん最初に就職した大企業に勤め続けている人生を選んでいたほうが、社会的立場も今よりは安定していて、物質的にも相当恵まれた現在であっただろうと思います。実際に、当時の同期も数人、その会社には残っていますしね。
でも、やはり私同様、その会社を辞めてからの紆余曲折を経験し職があることの有難さを知った経験を持つ、今でも仲良しのその会社の時の同期の女史に言わせると、「まぁ、彼女達には、わかんないね。」ということでした。なにしろ、大企業といえど、昔のぬるま湯感覚ではとてもいさせてもらえない環境に追い込まれていますから、そのぬるま湯育ちの彼らには、傍から見ると、「そんなの恵まれてるほうだよ。首になるわけじゃないし。」というような、会社の計らい(部署移動とか子会社への出向とか)であっても、ものすごい重圧とストレスを感じるようです。
しかし、おそらく私も、そこにい続けていれば、間違いなくそうなっていたと思います。「貯金残高で安心感を得ようとしながらも、自分の老後は本当に大丈夫なんだろうか」程度の心配を胸に抱きつつ、頭の中でそろばんをはじき続ける独身O.Lであり続けたであろうことが、想像されます^^。
人間、「生きているあいだの経験だけが、最後の財産」です。
生かされているあいだに、その経験からいったい自分は何を感じ、何を得て、何をしてきたのか。
途方も無く長く続く、時には苦しい、時には楽しい人生のようですが、実はその経験が生かされる魂の本番は、肉体を脱いでからの話なのですから。
我が身が明日どうなるかわからない、その窮地に立たされた時でも、同じことをできるかどうか。そこがおそらく、分かれ目でもあるのではないでしょうか。
私もよく昔はそういう風に考えていました。
生活に余裕がある、自分の未来に自信がある、生まれた境遇そのものが恵まれている、親がたっぷりの物質的精神的愛情を注いでくれる、そういう人は、そりゃ自然に素直に家族を好きになり、他人を素直に愛せるだろうよ、と。
人間は、自分が受け取った実感値で、他に返す。
ギブアンドテイクというやつですね。
私自身は、あまり今風で言えば「物質的に甘やかされた環境」で育った子供ではありませんでした。とはいえ、今ほど昔は「どの家もそこそこ裕福そう」という感じではなかったものの、その中でも、相対的に見れば「下」だったと思います。
当然、不満でした。
そして、幸福になるためには、たくさんお金を得る手段というものが必要なんだな、ということが、子供ながらに分かってもいました。
うちにはお金がない、と、母がよく言っていましたので。
そういうわけで、私は高校生の頃から、「当然」アルバイトで、自分の必要なお金を得るという手段を覚えました。正確には、中学を卒業する前から、「シゴト」を確保していました。当時は漫画も書いていて、漫画家になりたかったのですが、漫画の懸賞に応募するのも、どちらかというと、「懸賞金」目当てでした。一万、二万を貰えるわけですから。大賞を取って漫画家デビューする、というよりも、佳作とか努力賞で良かったわけです。
しかし、アルバイトの時給で得られる、1ヶ月5万円から多い時で7、8万円の魅力のために、せっせと漫画を書いて、一万、二万じゃなぁ・・・という心から、高校三年生の時に、筆を折りました。
その後、就職し、まったく漫画の世界からは離れました。
その当時、ずっと漫画を投稿しつづけていた雑誌の編集部のお姉さんに呼ばれ、「就職するんだ。」と言ったら、「そうか~。描けなくなるよ~。」と、もったいない、とおっしゃっていただいたのですが、心の中で「漫画描いたりなんて、大学に行かせて貰ったり、そういう余裕のある家の人間がそれはやればいいんだ。」と呟いていました。
とてもシニカルな孤独な子供だったと思います。
しかし、就職した先で、私はもっと孤独でした。
たまたま、いわゆる一部上場の大企業への就職でしたから、それまでの人生で出会ってきた人々などよりも、「もっと恵まれたバックボーンを持つ人たち」が、溢れている環境だったからです。
普通に大学に行かせてもらって、結婚式の費用や、マイホームの頭金まで親が用意してくれるような、そんな人たちだらけでした。
いわゆる、「腰掛け」で嫁入り前の吊り書き用に就職したようなお嬢さんだらけ。
就職してお給料をいただきながら、親からおこずかいをもらっているような人もいました。「給料が安すぎて、とてもじゃないけど、服が買えない。」と言う、その人が身につけているものは、確かに、常になにか良さげなブランド品ばかりのようでした。
私は、面くらい、そして、なんと世の中というのは、どこまで行っても不公平なものなのか・・・と、溜息をついたものです。
人間は頭では「世の中には恵まれている人も、そうでない人もいる」ということを、頭では理解していても、どうしても自分の置かれている環境の物差し、基準で、計ってしまいます。私もそうでしたし、今でも、完璧に人間的物差しを脱却しているとは言い難い。
当時は当然インターネットなどもない時代でしたし、就職先、という環境が自分の世界のすべてとまではいかなくとも、相対的にモノを見る基準になりがちです。
でも、以来、さまざまに紆余曲折を経て、今があるのですが、その当時の自分が囚われていた小さな小さな世界観を、打ちのめすような危機的経験をその後にしてみて、いかに自分が文句たらたらの人生を送ってきたのかを、実感せざるを得ませんでした。
その、O.L時代にこつこつ貯めた貯金を短期間ですべて失うどころか、借金までできて、地獄の日々でした。それが、身から出たサビ、とは、どうしても思いがたいことの連続でした。
作詞家になることとバーターに、私の現実というものは、一変した感がありました。
いったん、普通の社会環境から隔絶されたような世界を生きてきた私が、それでも、また普通の会社員となり、やったこともなかった営業の仕事で、また財産をいただき(超不況、30代の職探しが困難、という中で、今から思うと破格の年収だったと思います)それも辞めて、今また「無職の職探し中」(あんまり探してないんですが^^)という、あんまり大それたことを堂々とは言えない立場、余裕たっぷりとはとても言えない立場ですが、それでも、こうして生かされている、というのは、何かしらの「御用」が私に課せられているからなのだ、何かしらの御役目があるからなのだ、と、今は思っています。
人間的捉え方をすれば、文句たらたらながらも、いちばん最初に就職した大企業に勤め続けている人生を選んでいたほうが、社会的立場も今よりは安定していて、物質的にも相当恵まれた現在であっただろうと思います。実際に、当時の同期も数人、その会社には残っていますしね。
でも、やはり私同様、その会社を辞めてからの紆余曲折を経験し職があることの有難さを知った経験を持つ、今でも仲良しのその会社の時の同期の女史に言わせると、「まぁ、彼女達には、わかんないね。」ということでした。なにしろ、大企業といえど、昔のぬるま湯感覚ではとてもいさせてもらえない環境に追い込まれていますから、そのぬるま湯育ちの彼らには、傍から見ると、「そんなの恵まれてるほうだよ。首になるわけじゃないし。」というような、会社の計らい(部署移動とか子会社への出向とか)であっても、ものすごい重圧とストレスを感じるようです。
しかし、おそらく私も、そこにい続けていれば、間違いなくそうなっていたと思います。「貯金残高で安心感を得ようとしながらも、自分の老後は本当に大丈夫なんだろうか」程度の心配を胸に抱きつつ、頭の中でそろばんをはじき続ける独身O.Lであり続けたであろうことが、想像されます^^。
人間、「生きているあいだの経験だけが、最後の財産」です。
生かされているあいだに、その経験からいったい自分は何を感じ、何を得て、何をしてきたのか。
途方も無く長く続く、時には苦しい、時には楽しい人生のようですが、実はその経験が生かされる魂の本番は、肉体を脱いでからの話なのですから。

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カテゴリ : ちょっとスピリチュアルな話
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