パワーストーンの中には、いわゆる「ネガティブ感情」というものを、「解放する」といったような表現で、意味が謳われている石がよくあります。
というか、ほとんどの石がそういう意味では、本来ネガティブな方向にはたらく意味のものなどないので、基本的には、どんなパワーストーンも、持ち主の何かしらの「ネガティブからポジティブへの変容」へのはたらきかけをしている、というのが実像です。
しかし、こういう時にはこの石、と、その石を持ってみても「何かしらの変化」を感じやすい人もいれば、「何ら変わらない」と本人が感じている人もいる。
また、「自分は変わったのだ」と、思い違いをしている場合もある。
この違いは、どこから生まれるものなのでしょうか。
簡単に言ってしまえば、その本人がどれだけそのネガティブ感情を、本気で手放さそうと意図しているか、していないか、の違いなのだと思います。
そして、そういう「ネガティブ面」が、なにゆえもたらされているのか、そのことに気付くまで、ネガティブ感情を引き起こす場面は、自分の前に形を変えて現れる。
なかなか、泰然自若、とまではいかないものです。
しかし、繰り返し繰り返し、カタチを変えて目の前に現れてくるもの、コト、の本質的な共通性に気付いた時が、大きなチャンスです。
気付いたら、こう言ってはなんですが、悪あがきしてもしょうがないので、いったん諦めるのが肝腎です。
「ないものねだり」「あの人がこうなってくれたら」「どうして自分だけ」
という、外側の世界の在り様に縛られ続け、自分の内部に「不平不満」を溜め込みつづけてきた軌跡というのは、そう簡単に手放せるものではない。
モノゴトは、一瞬にして変わることももちろんありますが、自分だけの問題ではなく、世界は「他とのかかわり」において構成されているため、そうすぐには変わり様がないのです。
自分の世界が変わったことに気付くのは、「変えたい、変えたい」と願っていた執着心からすっかり離れた時ですから。
(だから「石のシゴト」だと気付かないことも多いのです)
石は、魔法使いではないので、「持ち主にとって、超える必要のある場面」を避けさせることはしてくれません。
なので、「この石を持ったから、もう自分の中のネガティブは解放されたのだ!」となるのは、ちょっと甘いかもしれません。
むしろ、場合によっては、必要あれば「醜い自分、ひとりよがりな勝手な自分を知らされる」こともあるのです。
石が発しているバイブレーションの強さや、この石はいい石、パワーの強い石、という、石の側の良し悪しの問題に結論づけられるケースもあるかもしれません。
また、そうしたがる人も多いでしょう。
持ち主自身が「意図せずに手放そうとしていないネガティブ感情」という難解なものに、はたらきかける石も、もちろんありますけれど、最後に、それに気付き、手放すことを選ぶのは、結局本人なのです。
私は、こういうことを考えていると、つくづく、石と神様は似ているな、と思うのです。与えっぱなしの愛。与えっぱなしの力。与えっぱなしの光。
さすがに地球が育んだ、次元の高い存在。そう思います。
私たち人間を、度々救いながらも、また救いを求められれば、目の前にいる。
そして、なぜ自分にとって、自分を苦しめる場面が与えられているのか、理解させようと、ありとあらゆる手段を使って導いてくれている。
なんで、そんなことを好き好んでしているのか?
そうですね、神様を親と考えれば、それは分かることだと思います。
親は、自分の子に、無償で尽くし、自分より偉くなれよ、と願うもの。
(そうじゃない親も、昨今は少なくないかもしれませんが)
じゃ、なぜ、親なのに、こんなに苦しい目に合わせるのか? とも思われる方も、多いでしょう。それは、親だからといって、「子供を自分の意のままにしよう」としないからです。ならば、意のままにしてもらったほうがいいくらいだ、こんな感情を持つくらいなら、ということも言えるかもしれません。
でも、実際にもし「親だから」といって、意のままにしようとされれば、それはそれで、反発するのではないでしょうか。
自発的に、親を見て、真似る、それが子供です。
石も同じで、本人の自発性を待っています。
というか、ほとんどの石がそういう意味では、本来ネガティブな方向にはたらく意味のものなどないので、基本的には、どんなパワーストーンも、持ち主の何かしらの「ネガティブからポジティブへの変容」へのはたらきかけをしている、というのが実像です。
しかし、こういう時にはこの石、と、その石を持ってみても「何かしらの変化」を感じやすい人もいれば、「何ら変わらない」と本人が感じている人もいる。
また、「自分は変わったのだ」と、思い違いをしている場合もある。
この違いは、どこから生まれるものなのでしょうか。
簡単に言ってしまえば、その本人がどれだけそのネガティブ感情を、本気で手放さそうと意図しているか、していないか、の違いなのだと思います。
そして、そういう「ネガティブ面」が、なにゆえもたらされているのか、そのことに気付くまで、ネガティブ感情を引き起こす場面は、自分の前に形を変えて現れる。
なかなか、泰然自若、とまではいかないものです。
しかし、繰り返し繰り返し、カタチを変えて目の前に現れてくるもの、コト、の本質的な共通性に気付いた時が、大きなチャンスです。
気付いたら、こう言ってはなんですが、悪あがきしてもしょうがないので、いったん諦めるのが肝腎です。
「ないものねだり」「あの人がこうなってくれたら」「どうして自分だけ」
という、外側の世界の在り様に縛られ続け、自分の内部に「不平不満」を溜め込みつづけてきた軌跡というのは、そう簡単に手放せるものではない。
モノゴトは、一瞬にして変わることももちろんありますが、自分だけの問題ではなく、世界は「他とのかかわり」において構成されているため、そうすぐには変わり様がないのです。
自分の世界が変わったことに気付くのは、「変えたい、変えたい」と願っていた執着心からすっかり離れた時ですから。
(だから「石のシゴト」だと気付かないことも多いのです)
石は、魔法使いではないので、「持ち主にとって、超える必要のある場面」を避けさせることはしてくれません。
なので、「この石を持ったから、もう自分の中のネガティブは解放されたのだ!」となるのは、ちょっと甘いかもしれません。
むしろ、場合によっては、必要あれば「醜い自分、ひとりよがりな勝手な自分を知らされる」こともあるのです。
石が発しているバイブレーションの強さや、この石はいい石、パワーの強い石、という、石の側の良し悪しの問題に結論づけられるケースもあるかもしれません。
また、そうしたがる人も多いでしょう。
持ち主自身が「意図せずに手放そうとしていないネガティブ感情」という難解なものに、はたらきかける石も、もちろんありますけれど、最後に、それに気付き、手放すことを選ぶのは、結局本人なのです。
私は、こういうことを考えていると、つくづく、石と神様は似ているな、と思うのです。与えっぱなしの愛。与えっぱなしの力。与えっぱなしの光。
さすがに地球が育んだ、次元の高い存在。そう思います。
私たち人間を、度々救いながらも、また救いを求められれば、目の前にいる。
そして、なぜ自分にとって、自分を苦しめる場面が与えられているのか、理解させようと、ありとあらゆる手段を使って導いてくれている。
なんで、そんなことを好き好んでしているのか?
そうですね、神様を親と考えれば、それは分かることだと思います。
親は、自分の子に、無償で尽くし、自分より偉くなれよ、と願うもの。
(そうじゃない親も、昨今は少なくないかもしれませんが)
じゃ、なぜ、親なのに、こんなに苦しい目に合わせるのか? とも思われる方も、多いでしょう。それは、親だからといって、「子供を自分の意のままにしよう」としないからです。ならば、意のままにしてもらったほうがいいくらいだ、こんな感情を持つくらいなら、ということも言えるかもしれません。
でも、実際にもし「親だから」といって、意のままにしようとされれば、それはそれで、反発するのではないでしょうか。
自発的に、親を見て、真似る、それが子供です。
石も同じで、本人の自発性を待っています。

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カテゴリ : 石のホント or はてな?
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