アーカイブ
2006年08月06日の記事のリスト

「天分」は平等ではない

2006年08月06日 (日) 03 : 20
のっけからなんですが、そういうことだと思います。
これは、カッコ書きで「(現世での)「天分」は平等ではない。」となるところですが、私たちには今生かされているこの現実、現在、今がすべてであり、自分がここに辿り着くまでのその前の人生や、その前、その前、と遡ったすべての人生を把握することは不可能ですので、とりあえず、今目に見える「天分」について、思うところあり。

昨日、渋谷の映画館で「ブライアン・ジョーンズ ローリング・ストーンズから消えた男」という映画の封切のイベントで、小説家の山川健一さんがトークショーをなさるイベントがある、ということで、渋谷に行ってまいりました。
(8年ぶりくらいに、山川さんご本人にお会いしましたが、そこまで久しぶりという感覚がまったくありませんでした。同席されていた方も、「そういう年月を経た違和感が感じられなかった」とおっしゃっておられていたので、私の思い違いってわけでもないんだな、と思いました。不思議な人間関係というものがあるものですね)

ブライアン・ジョーンズという人は、今も現役の「世界最年長最強スター・ロックバンド」とも言える、ローリング・ストーンズを創めた人で、彼がいなければ、そもそもストーンズというビッグバンドがこの世に生まれ、こうして何十年単位でロックシーンの歴史を塗り替える偉業もなされなかったことになります。
ブライアンは、創世記のローリング・ストーンズにあっては、「唯一」とも言える才能と美的センスとに溢れた、「アーティスト資質」を唯一持っていた、光輝く存在でした。
正直、初期の頃のミックやキースなんて、ブライアンに比べると「ロックスターに憧れるイモ兄ちゃん」程度の存在だったと思います。

しかし。
ブライアンの死は、結局、自殺なのか他殺なのか、が取り沙汰されながらも、時間の経過とともに、いずれにせよ「センシティヴで気鋭の才があるゆえの悲劇」として、ローリングストーンズのフリークの中では、長年心に留まっていたのではないかと思います。
映画の最後のほうで、それが真相なのかどうか? はやはり謎ではありますが、ある一方向からの真相告白のようなメッセージがありますが、それじたいは、なんとなくどうであろうとかまわない、と思いました。
もし殺されたのであっても、おそらく、当のブライアン・ジョーンズ自身の魂は、それを恨んでいないだろう、という気がするからです。

映画そのものの出来は、見方によっては、ちょっと退屈な映画かもしれないです。
60年代の退廃したロックスターの悲劇、なんて、今さら感もある。

でも、先日からお話していた「18」にも繋がる話ですが、「18」を持つことの大事さ以上に、そもそも人生というのは、どこかの面で不平等なもので、その不平等さの経験は何ゆえ自分にもたらされているものなのか? に、気付くべきタイミングで、人は絶妙なステージに立たされている・・・この映画を見て、そう思いました。

それは、ロックスターであろうと、無職の一般人であろうと、その部分においては「同じ」なのです。
どんなに華美で豪奢な人生を生きようと、地味に堅実に暮そうと、必ず、個々における人生のテーマにその中でぶつかるように仕組まれているのですね。
その、仕組まれた場面から、私たちはもがいてもがいて、それでも見つけ出さなくてはならない気付きを得て、越えていく。
それが、与えられた「天分」のひとつ、そして課題のひとつ、なのだろうと。
(映画のテーマがそこにあったのかどうかは不明ですが、私にはそう受け取れました。これは、ロックスターの悲劇を描いた映画、ではなく、もうひとつの側面、そういう存在に「かかわらざるをえない縁を持った人」の視点からも描かれていたので)

ブライアンは、才能に溢れ、且つ努力しもがきながらも、その壁を越えることができなかった。「18」がある人なのに、その「自分なりの18」に満足できずに、死を招いたのだろうと思いました。才能があるがゆえの、自負心と美意識と奢り、そして知識や技能や才覚があるゆえの劣等感とプライドとの闘いの終生でもあったのです。
自分の「18」に、満足できている人など、実際にはこの世にはいない。
もし満足しているのだとしたら、それは単に「他からの評価」や「名声」を頼みの綱として、自分にラベル貼りを許しているだけの話で、自分の心は本当はそれを知っているんですね。

しかし、満足はせずとも、足りない自分を許し、足りない自分を愛し、今いるところを足場として、一歩一歩、歩を進める。
そして、「性急に辿り着こうとしない」ことが、要なんだな、と思いました。

トークショーで、山川さんもおっしゃっていたように、40年間ストーンズを続けてきたミックやキースのように、「辿り着こうとしている、まだ登山の途中」を、粘り強くやり続ける。少しずつ、少しずつ、「18」の欠片を広い集める。
流石さんが、コメントでくださっていたことにもリンクしますけれど、「何が自分の「18」となるか?」の“可能性”は、誰にも分からないし、その可能性を見過ごしていることだって、実は往々にしてあることなんですよね。
人生が続く限り、やはり、それしかないのだ、遠いようでいて近道はやはりそれなのだ、と思いました。


この記事のシェア&ツイートfacebookでシェアTweetする

カテゴリ :  ちょっとスピリチュアルな話
follow links FB pageGoogle+Go to top of page ページの上へ移動

ページの上へ移動
Go to top of page