アーカイブ
2006年07月15日の記事のリスト

お洒落をする、のは“無駄なこと”なのだろうか?

2006年07月15日 (土) 20 : 51
なんとなく、今日思いついたというか、考えていたこと。
たとえば、アセンションがらみのことが書かれていると思われるサイトなんかを覗いてみたりすると、一様にその「共通項的概念」に、「一切に執着をしない」というような内容が見え隠れしている。
ある意味、今現在の世の中の成り立ちとは、基本的に「正反対」に見える価値観だ。
現在の世の中では、何かを実現しようと考えた時に、いい意味での欲望、そしてしつこいまでの執着心を持っていなければ、なかなか自分の思うようなライフスタイルや信条を実現することはできないからだ。

2012年というキーワード。
予見される、天変地位やら、資本主義経済社会の崩壊やら。
アセンションのことに絡むと、とにかく、「どうしても大変動があること」が必要なのだ、といわんばかりの勢いだ。

私も一時期、この手のある種の「思想」めいたもの、実際にはまだ起こっていないけれど、なんとなくあるかもしれなさそうな、霊的次元上昇の世界の実現というものを、とても真剣に受け止めていたし、自分なりに勉強したつもりだ。
そしてもちろん、今尚、真剣に受け止めている。

結局、達した結論は、「何がどうであれ、その日その日をちゃんと喜んで生きよう」ぐらいのことで、それ以外には特別な方法があるような気にはならなかった。

アセンションを真剣に目指す向きには申し訳ないが、「私はアセンションを意図します。」とか、いちいち誓いの言葉を自分に言い聞かせることも、それはそれで悪くないかもしれないけれど、人間は何かを意図した時に、必ず自分の意図しない状況、意図しない感情を生む現場、意図しない人間関係、などなど、「誓えば誓うほど、試しの場を、この世で用意される」のだ。
それは、生きている限り続くこと、といっても過言ではないだろう。
当たり前だ。
めぐり果たしも済んでいないのに、「意図します」といくら言ってみたところで、神様の帳面の勘定に合わないのだ。
聖書の中で、イエス様が悪魔に試される記述があるのをご存知でしょうか?
あれと同じことが、日常レベルで起こるようになって当然なのだ。

なんのために、霊的覚醒を目指すのか。
なんのために、次元上昇後の地球に、生き残らん、と意図するのか。

ずいぶん長い前置きになってしまったけれど、
つまり、シンプルな人間になること、執着を持たないこと、その辺を目指すと、「お洒落しよう、綺麗になろう」という、いわゆる「本能的な喜びの根源」部分との矛盾が起こってくる。

美というのは、神様からくるもの。
美は神的な表現の現れで、喜びなのだ。
そして、「喜びが弥栄えること」
これが、アセンション後の、地球の姿であり、次元上昇した人間の姿だと思う。

美は、人から奪ってこないと、成り立たないのだろうか。
現在の資本主義社会での情勢下では、一見そういうものに見える。
お金を出せば手に入れられるもの、という幻惑に、人が錯覚しているものの象徴的価値観、それが「美」という扱いなのだ。
高い化粧品が売れ、高い健康グッズが売れ、高いブランドものが売れ、そして、「石」が売れることも。「美は商品」となっている。

しかし、そうではないと思う。
美は、能力なのだ。
美に対応する能力の現れの程度の差そのものには善も悪もなく、それが、喜びであり続けることができるものなのであれば、「弥栄」の世界へと繋がっていく。

お洒落をする、というのは、その「美という能力を開発する」喜びに繋がる糸口のひとつ。
確かに、シンプルに生きよう、無駄をなくそう、という「地球規模」的考え方に、無理やり合わせようとすれば、毎年新しい服を買ったり、身につけるアクセサリーなんかに凝ってみたり、そういう、「お洒落をする」ことは「無駄」なこと。
モノが溢れるこの国を憂う、「精神性の高い生き方」を目指そうとすると、とたんに、では自分は?の世界が目の前に現れる。
今の段階では、このあたりに決着のつきそうな答えは、私たち人間は持っていないのかもしれない。

しかし、美を目指し、美を実現せんとすること、無駄を無駄でなくするには、しつこいまでの執着心がなければ、成就しない。
あれあれ、「執着心をなくす」という、アセンションレベル基本のところに戻っちゃう。
石に、この辺りの問いかけをすると、面白い。
色々な答えが返ってくる。
なにしろ、整理整頓術などによくある、「2年着なかった服は捨てる」とか、風水的な発想である、部屋や家についてのほにゃららなんかも、場合によっては、ちょっと違うぞ、となることがけっこうあったりもする。
「あ、それは捨てなくていいよ。」と、石にストップをかけられることも、しばしば。
なんでもかんでも「シンプル」になればいい、ってものでもないのだ。

彼らは、「使われること」を待っている。人間を飾るための扱いになることは、嫌いではないようだ。そして、当たり前だが、それぞれの石には実現したいことのテーマがあるようだ。
石と人は、持ちつもたれつ、の関係性。彼らにも、人間を通して実現したいことがあるのだ。だから、パワーストーンなのである。
だって、石だって「神様に褒めてもらいたい、手柄をたてたい」でしょ?そのためには、人間に手柄を立てさせるのが早道なのだ。この場合の手柄っていうのは、「天地」の立場から見たものなので、いちがいに「人間的価値観の手柄」には該当しないケースも、しばしば。
より、有効に、より美しく。彼らは、自らを美しく演出してもらうことを、嫌いではないらしい。

しかし、ずいぶんと「無理難題」もあったりもする。
この世的な価値観では、「より美しい石」「より稀少性を持つ石」は、確かにお値段も高いが、それ相当の価値は持っている。説明しやすい。
だが、実は、なにもそういう「価値の根拠がわかりやすい石」だけに、そういった価値が付随しているわけではない。

その辺を、アタシに、石たちは「頑張ってね。わかりやすく伝えてね。」と言ってくる。う~~~~ん。
そうねー。
私は、分かりやすく伝えることができているんだろうか。


この記事のシェア&ツイートfacebookでシェアTweetする

カテゴリ :  私にとっての2012年
follow links FB pageGoogle+Go to top of page ページの上へ移動

ページの上へ移動
Go to top of page