ひふみ神示の中に、何度も出てくる言葉に、
「身欲信心」なら、そんな人間はいらんから去りてくれてけっこう、というニュアンスのひつくの神の言葉があります。このニュアンスの言葉は、「身魂磨き」の重要性とともに、とにかく目に付く箇所でもあります。(というか、私自身が「身欲満載」の人間だからこそ、その部分に目がいくというか、恐れちゃうのかもしれませんが)
「この道に入って始めの間はかえって損したり馬鹿みたりするぞ。それはメグリ取っていただいているのぞ。それが済めば苦しくてもどこかに光見出すぞ。おかげのはじめ。それが済めば次に自信ついてくるぞ。胴がすわってくるぞ。心が勇んできたらおかげ大きく光だしたのじゃ。」
「この道に入ると損をしたり、病気になったり、怪我をすることがよくあるなれど、それは大難を小難にし、またメグリが一時に出て来て、その借銭済ましをさせられているのじゃ。借りたものは返さねばならん道理じゃ。損もよい、病気もよいぞと申してあろうが。ここの道理もわきまえず理屈申しているが、そんな人民の機嫌取りする暇はなくなったから、早う神心になってくだされよ。」
「この道信ずればすぐよくなると思うている臣民もあるなれど、それは己の心のままぞ。道に外れたものは誰れ彼れはないのざぞ。」
これ以外にも、とにかく、「ご利益」欲しさであれば、この神はそうでないから、代わりの身魂はいくらでもいるから、去りて、神の邪魔をするな、という言葉がやたら多いですね。
つまり、「神は、“願いを叶える”御用聞き、小使い」ではない、ということが、はっきりといくども述べられているのです。
私自身、そういうわけで、「神様の邪魔をしてはいけないなぁ」と思い、ひふみ神示を知りながらも、長年それは自分の中に溜め込む知識、というだけでした。
なんというか、おおっぴらに人様に神示の中身のさわりのさわりぐらいではありますが、お話し始めたのは、このブログが第一歩みたいなところがあります。
その程度で胎をくくった、そんなつもりになっていた自分でしたが、
昨日アップしたようなもの凄い事態を経験して、今日はだいぶ落ち着いてきまして、冷静に考えてみたところ、「これだなー。」と、得心しました。
つまり、ひふみ神示というものを「知った」から、「メグリ取り」の災難がスタートするなんてことはない、ってことです。
読んだだけで、メグリ取りができる、ご利益宗教のようなものではないのだ、ということを、また身に沁みて分からされましたねー。
読むこと、知ること、は、もちろん始めの一歩なのですが、
「この道に入る」とはきっとまた別なのだろうと思います。
聖書にも同じようなことが書かれていますね。
「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない。」
話は聞いても、それが「得にならないことだ」と分かれば、去る人がほとんどです。
ましてや、ひふみ神示のように、ハナから「はじめのうちは損や病気や怪我をすることがよくある」といわれてしまうと、退いてしまうのが人情ですよね。
たった2日間の悶絶の経験でしたが、私はこれは確実に「大難を小難に」まつり変えていただいてるなー、、、、と、今実感しています。
その渦中ではどうなることかと思っていましたし、とてもじゃないですが、「感謝」どころではありませんでしたので、今日、氏神様へ行って、ありがとうございました、と報告してきました。
私は、「“この道に入った”と、神様に認めてもらえた証拠」、それが、病気だったり、怪我だったり、損だったり、要するに「あんまり本人にとって一見よろしくないことの勃発」なんじゃないか・・・? と思いました。きっと、ようやく「入れてもらえた」のですね。
(この悶絶の渦中で、この感謝の思いを抱くことができたのならホンモノなんですが・・・まぁ、まだまだひよっこですので、ゆっくりぼちぼち行きます)
パワーストーン、ヒーリングストーンと呼ばれる石たちについても、似たようなことが実は言えますね。
彼らは、人間の“願いを叶える”ための御用聞き、小間使い、ではありません。
効果があるとかないとか、そもそも、それは「己に都合のいい目論見」ということであって、石じたいは、ちゃんとその石の特性を発揮しようとうずうずしている、もしくは持ち主が気付かなくても、ちゃ~んとやってるんだよなー。
これは、ホントウですよ。
但し、持ち主が考えたとおりの目論見どおりかどうかはわかりません。
その願いが、「天地人に叶う願い」であり、「自己保身、自己満足」から離れたものであればあるほど、石は力を発揮してくれるんですよね。
自分を捨てて、自分を忘れている時が、いちばん石が馬力出す時なのです。
私は、パワーストーンと呼ばれる石たちを、もっと「石の力を有効に引き出してもらえる人たち」に向けて、発信できたら・・・と思い、何社か、出版社さんをあたりましたが、今のところ「快諾」はありません。
この業界というのも、いろいろあるようです。
特に、新規参入者には、かな~り厳しい高い固いぶ厚い壁があるようです。
それはなぜか?
それは、「パワーストーンが、こういう願いを叶える」という単純な図式、定説が崩れると困る人たちがいるからです。
そういうことに、しておきたい、それだけなのです。(新しい説が出てくると何かと困ったことになるのでしょう。まるで、新約聖書の時代の話みたいですね)
そして何よりも、「あなた自身が“石でこの世的に成功していない”」ということが問題だ、ということでした。ここでいう成功とは、「名を成している」とか「金持ちになって何不自由ない暮らしができているのは、石のチカラです!」みたいな感じでしょうか・・・。
(聖書の時代にも、ボロをまとった大工の息子のイエス様の言葉は、ブルジョア階級は信用なさらなかったわけで・・・)
人は、「カンタンにモノゴトが実現する方法」を喜びます。
そして、「カンタンにモノゴトを実現してきたチカラを持つ実績のある人」の話を聞きたがります。
しかし、もうそろそろ、モノゴト、そんなにカンタンにうまくいくほうがおかしい、という、もともとあった「日本人らしい」奥ゆかしさを、取り戻してもいいんじゃないでしょうか?
清貧になれ、とか、謙譲の美徳、とか、そういったものを押し付けるつもりではないのです。ただ、あまりにも、安易に「成功」だの「幸せ」だの「才能」だの「金儲け」だのを、商品にし過ぎているきらいがあり、そして謳い文句が「即効性」「確実性」「利便性」などばかりなのが、なんか気になるのです。
そんなに、人は、人から与えられるモノや情報に、「即効」「確実」「利便」ばかりを「カンタンに」手に入れられると、本気で思っているのでしょうか?
絶対に、そんな安易な人ばかりではないはずです。
しかし、そういったモノを“提供する側”の「安易な思い込み」が作用して、こういったもので蔓延する世の中になっている面も、多々あるのでは・・・? と、常日頃から感じるのですが。
「身欲信心」なら、そんな人間はいらんから去りてくれてけっこう、というニュアンスのひつくの神の言葉があります。このニュアンスの言葉は、「身魂磨き」の重要性とともに、とにかく目に付く箇所でもあります。(というか、私自身が「身欲満載」の人間だからこそ、その部分に目がいくというか、恐れちゃうのかもしれませんが)
「この道に入って始めの間はかえって損したり馬鹿みたりするぞ。それはメグリ取っていただいているのぞ。それが済めば苦しくてもどこかに光見出すぞ。おかげのはじめ。それが済めば次に自信ついてくるぞ。胴がすわってくるぞ。心が勇んできたらおかげ大きく光だしたのじゃ。」
「この道に入ると損をしたり、病気になったり、怪我をすることがよくあるなれど、それは大難を小難にし、またメグリが一時に出て来て、その借銭済ましをさせられているのじゃ。借りたものは返さねばならん道理じゃ。損もよい、病気もよいぞと申してあろうが。ここの道理もわきまえず理屈申しているが、そんな人民の機嫌取りする暇はなくなったから、早う神心になってくだされよ。」
「この道信ずればすぐよくなると思うている臣民もあるなれど、それは己の心のままぞ。道に外れたものは誰れ彼れはないのざぞ。」
これ以外にも、とにかく、「ご利益」欲しさであれば、この神はそうでないから、代わりの身魂はいくらでもいるから、去りて、神の邪魔をするな、という言葉がやたら多いですね。
つまり、「神は、“願いを叶える”御用聞き、小使い」ではない、ということが、はっきりといくども述べられているのです。
私自身、そういうわけで、「神様の邪魔をしてはいけないなぁ」と思い、ひふみ神示を知りながらも、長年それは自分の中に溜め込む知識、というだけでした。
なんというか、おおっぴらに人様に神示の中身のさわりのさわりぐらいではありますが、お話し始めたのは、このブログが第一歩みたいなところがあります。
その程度で胎をくくった、そんなつもりになっていた自分でしたが、
昨日アップしたようなもの凄い事態を経験して、今日はだいぶ落ち着いてきまして、冷静に考えてみたところ、「これだなー。」と、得心しました。
つまり、ひふみ神示というものを「知った」から、「メグリ取り」の災難がスタートするなんてことはない、ってことです。
読んだだけで、メグリ取りができる、ご利益宗教のようなものではないのだ、ということを、また身に沁みて分からされましたねー。
読むこと、知ること、は、もちろん始めの一歩なのですが、
「この道に入る」とはきっとまた別なのだろうと思います。
聖書にも同じようなことが書かれていますね。
「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない。」
話は聞いても、それが「得にならないことだ」と分かれば、去る人がほとんどです。
ましてや、ひふみ神示のように、ハナから「はじめのうちは損や病気や怪我をすることがよくある」といわれてしまうと、退いてしまうのが人情ですよね。
たった2日間の悶絶の経験でしたが、私はこれは確実に「大難を小難に」まつり変えていただいてるなー、、、、と、今実感しています。
その渦中ではどうなることかと思っていましたし、とてもじゃないですが、「感謝」どころではありませんでしたので、今日、氏神様へ行って、ありがとうございました、と報告してきました。
私は、「“この道に入った”と、神様に認めてもらえた証拠」、それが、病気だったり、怪我だったり、損だったり、要するに「あんまり本人にとって一見よろしくないことの勃発」なんじゃないか・・・? と思いました。きっと、ようやく「入れてもらえた」のですね。
(この悶絶の渦中で、この感謝の思いを抱くことができたのならホンモノなんですが・・・まぁ、まだまだひよっこですので、ゆっくりぼちぼち行きます)
パワーストーン、ヒーリングストーンと呼ばれる石たちについても、似たようなことが実は言えますね。
彼らは、人間の“願いを叶える”ための御用聞き、小間使い、ではありません。
効果があるとかないとか、そもそも、それは「己に都合のいい目論見」ということであって、石じたいは、ちゃんとその石の特性を発揮しようとうずうずしている、もしくは持ち主が気付かなくても、ちゃ~んとやってるんだよなー。
これは、ホントウですよ。
但し、持ち主が考えたとおりの目論見どおりかどうかはわかりません。
その願いが、「天地人に叶う願い」であり、「自己保身、自己満足」から離れたものであればあるほど、石は力を発揮してくれるんですよね。
自分を捨てて、自分を忘れている時が、いちばん石が馬力出す時なのです。
私は、パワーストーンと呼ばれる石たちを、もっと「石の力を有効に引き出してもらえる人たち」に向けて、発信できたら・・・と思い、何社か、出版社さんをあたりましたが、今のところ「快諾」はありません。
この業界というのも、いろいろあるようです。
特に、新規参入者には、かな~り厳しい高い固いぶ厚い壁があるようです。
それはなぜか?
それは、「パワーストーンが、こういう願いを叶える」という単純な図式、定説が崩れると困る人たちがいるからです。
そういうことに、しておきたい、それだけなのです。(新しい説が出てくると何かと困ったことになるのでしょう。まるで、新約聖書の時代の話みたいですね)
そして何よりも、「あなた自身が“石でこの世的に成功していない”」ということが問題だ、ということでした。ここでいう成功とは、「名を成している」とか「金持ちになって何不自由ない暮らしができているのは、石のチカラです!」みたいな感じでしょうか・・・。
(聖書の時代にも、ボロをまとった大工の息子のイエス様の言葉は、ブルジョア階級は信用なさらなかったわけで・・・)
人は、「カンタンにモノゴトが実現する方法」を喜びます。
そして、「カンタンにモノゴトを実現してきたチカラを持つ実績のある人」の話を聞きたがります。
しかし、もうそろそろ、モノゴト、そんなにカンタンにうまくいくほうがおかしい、という、もともとあった「日本人らしい」奥ゆかしさを、取り戻してもいいんじゃないでしょうか?
清貧になれ、とか、謙譲の美徳、とか、そういったものを押し付けるつもりではないのです。ただ、あまりにも、安易に「成功」だの「幸せ」だの「才能」だの「金儲け」だのを、商品にし過ぎているきらいがあり、そして謳い文句が「即効性」「確実性」「利便性」などばかりなのが、なんか気になるのです。
そんなに、人は、人から与えられるモノや情報に、「即効」「確実」「利便」ばかりを「カンタンに」手に入れられると、本気で思っているのでしょうか?
絶対に、そんな安易な人ばかりではないはずです。
しかし、そういったモノを“提供する側”の「安易な思い込み」が作用して、こういったもので蔓延する世の中になっている面も、多々あるのでは・・・? と、常日頃から感じるのですが。

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カテゴリ : 私にとっての2012年
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