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2006年04月の記事のリスト

メディアと呼ばれるモノについての雑考

2006年04月26日 (水) 21 : 47
私達が「メディア」と聞いて思い浮かぶのは、主に新聞、テレビメディアや、週刊誌、雑誌、電車の中吊り広告などの、「公に公然を存在を認知されている」と思われる媒体のことだろう。
インターネットも、ヤフーなど、存在を広く認知されている知名度の高い存在は、メディアとしての認識を持たれていると思う。

時々、「メディアの嘘」というようなコトバを目にすることもあろうかと思う。
陰謀論系の話では、メディアを牛耳る影の世界政府的存在のことなども伝え聞くことはあるが、これについては、自分が見聞きし体験した話ではないので実像を確かめようがない。
そもそも、「ヒトが語ること」「ヒトがコトバで伝えること」が、「すべて真実」「すべて事実」ではあり得ない。
それは、こんな個人のブログふぜいでも同じコトだ。

私達は、それぞれが、自分の波長に合うものを咀嚼し、自分の中に情報として取り入れ、それを自分の真実として加えていくこともできれば、見切っていくこともできる。

話が少し逸れたけれど、その一般的にいうところの「大手メディア」に関わることで、私が大昔に高校生の頃に体験した話。

当時、私は都立高校の野球部のマネージャーで、3年生の夏、最後の甲子園の予選大会のことだった。
「都立高校が甲子園に出る」がまだ夢物語だった頃で、しかしながら、都立ながらも破竹の勢いで3回戦まですべてコールド勝ちを収め、4回戦は「因縁の対決」となる私立の野球の強豪高校との対戦となる・・・という状態にまで進んだ。

確かに、都立ながらに強いチームだった。
練習試合では、その年は4試合くらいしか負けていない、という状態だった。
でも、私達は「甲子園出場」なんてものは、スローガンにしたことは一度も無かった。
監督以下、合言葉は「まず都立の星を目指す」だったのだ。

その3回戦の試合終了後、新聞記者が私に寄ってきた。
インタビューだ。
私は、常日頃から監督がおっしゃっていた、「都立の星」を口にした。
それが目指すところです、と。
新聞記者は、「甲子園に行きたくないですか?」と、私に聞いた。
私は、「いや、まったくそれはあり得ないと思ってます。」と、答えた。
新聞記者は、「でもできるならやっぱり甲子園に行ければ嬉しいですよね?」と、再度尋ねる。
私は、「そりゃまぁ、そうなれば嬉しいかもしれないですけど、でも今は、都立の星、です。」と答えた。
高校生といえど、客観的に見て、特にそういったスポーツの世界というのは、実力の差というものを実感しやすい世界でもあるので、そんな身のほど知らずの夢は抱かないのだ。ものには順序というものがあり、私たちのチームは、そういうことを自然にわきまえているチームだった。

しかし。
翌日の、新聞記事を見て、私は仰天した。
監督の〇〇さんのコメント「都立の星を目指してやってきた」
主将の〇〇さんコメント「ベスト8を目指します」
マネージャーの「私」のコメント「甲子園に行きたい」

・・・おいおい、と思いましたよ。
三人の写真まで並んで載せられて、その新聞紙面の中で、私一人が、身に過ぎた調子の外れたバカな夢を見ている、チームの中でコンセンサスの取れていない頭の足り無そうな軽々しい野球部女子マネージャーとなっているのだ。
私は、後日、当時の主将に愚痴った。
「あたしは一言も「甲子園に行きたい」なんて言ってない。なんか、すっごいバカみたいじゃん。一人で夢見てるみっともないアホ女子マネージャーみたいに映るよね。ひどいよね。新聞とかって、嘘が多いってほんとだね。嘘が多い、というより嘘じゃん。」

私は、新聞記者の“誘導尋問”を思い出していた。
しつこく、甲子園、甲子園、と、聞かれたことを。
要するになんとかして「甲子園に行きたい」というニュアンスのコトバを私に言わせたかったのだ。
おそらく、監督も主将も、それにひっかからなかった。
私だけが、「そりゃまぁそうなれば嬉しいかもしれないけど」という、相手のひっかけに乗せられてしまった、ということである。
新聞というメディアは、「野球部の女子マネージャーというものは、甲子園に行きたがっている」というイメージで記事を仕上げたかっただけで、載せられたコメントはフィクションなのである。

私たちは、4回戦で負け、ベスト16止まりだった。
しかし、私達の卒業後、以前は都立校との試合など鼻にもかけてくれなかった私立校の野球の伝統のあるチームが、練習試合をしてくれるようになった、と、後に後輩に感謝の意を告げられた。
私が、電話で門前払いのように練習試合の交渉を断られていた名門私立校の名も、そのラインナップの中にはあって、私は「先人の苦労が報われる」という世界を、ここで体験していたことになる。

それはさておき、以来、私は、新聞やテレビなど、「編集された情報」の類は、かなーり眉に唾つけて見るようになった。
(これは、経済ニュースなんかでも同じだ。事実を多少知っていると、なんとまぁ、という内容の記事がある。昔、勤めていた会社で読んでいた新聞の記事に、やはり「をいをい・・・」と思ったことが、一度や二度ならずあった)
というか、基本的に、新聞、テレビの伝えることを「本当のこと」とか「事実」だとは思っていないし、今はもう、そういうものはまったくといっていいほど見ない。
そんなもん、別に見なくても生きていける。
これは、自分が実体験すると、実感できる世界観なのだ。


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ひふみ神示について。

2006年04月25日 (火) 01 : 28
ひふみ神示に書かれてある内容すべてを、いっきに把握しようとするのは、とてもじゃないですが、その道の研究者であっても難しい部分もあるかと思います。
原文を読むことを、私はもちろんお薦めしていますが、そもそも「何のことやら」状態に陥った時の、助っ人手引書はないんだろうか・・・と思うのが人情で、かつ大半は、そう思われるに違いないのでは? と思います。

私自身も、ひふみ神示に出てくる「数字」の意味などに関しては、とてもではありませんが、これはこういう意味なんだろうか? と感じつつも、実際は確信して言えるほど、体得していない箇所がほとんどです。
高級霊と巷で言われる存在ほど、「数字」そのものが言葉であり表現であり魂であり、のようなことを聞いたことがありますが・・・。

私が、原文の中で、比較的とっつきやすかった箇所は、「二日ん(ジシン)の巻」に書かれてある、いわゆる、霊界と呼ばれるものの実相が書かれてある部分でしょうか。
(しかし、これはもともとが自分の親が霊界についての知識、いわゆるメグリ(カルマ、業)についての知識を持つ、敬神崇祖の信仰心を持つ親のもとで育ったがゆえの、下地があったためかもしれません)

私は、まったくクリスチャンでもなく、キリスト教についての知識には疎いのですが、なぜか「聖書」を楽しい読み物として読むところもあったため、特に「新約」のほうに書かれている内容と、ひふみ神示に書かれている言葉で、クロスするものが多く、そのあたりをヒントにしながら、読み進めていきました。

しかし、ある意味、昨今の「スピリチュアル」という横文字系の響きの良い「精神世界」系の知識や、天然石、占い、などの方面の「心地よさげ」な系統の知識を探求している向きには、ひふみ神示のいう「行い、仕事」のことも、突飛な捉え方をする方も中にはいらっしゃるかもしれません。

ひふみ神示は確かに謎は多いですが、繰り返し繰り返し、ひつく神がおっしゃっていることで、「霊かかりもほどほどにしろよ」「霊人と語るなよ。人は人と語れよ」と、霊的世界、見えない精神世界に偏重するモノの見方や生き方をたしなめる言葉が出てきます。
「神様の御用」と称して、この世の仕事をほっぽり出してしまう生き方をたしなめるような言葉は、こういうもの以外にも随所に出てきます。
日々の仕事、職業などが、「行」であり、いわゆる「出家」的な生き方からは学べない、俗世を捨てて浮世離れする危険性についての、再三の注意が出てくるのです。
「在家」であってこそ、俗世の中で俗世の仕事をしてこそ、身魂磨きになるのだ、と。
滝に打たれたりなどの荒行修行によって知るものは「幽界」のこと、と分けておられます。

霊性に偏ってもならず、物質的価値に偏ってもならず、ということです。
なんといっても「中行く道」ですから、「モノ、コト」どちらも必要で、どちらも無いと成就しない、ということを、はっきりおっしゃっておられる。
そして、「自己犠牲」を、はっきり否定されています。
人のために自分を犠牲にする生き方であってはならないと。
「我善し、人も善し」であれ、と。

そういった、ひふみ神示のナビゲーション役として、「ひふみ神示というものは、いったいナニモノなのか?」を分かりやすく説明してくれている本があります。
中矢伸一さんという方の書かれた、「日月神示・完全ガイド&ナビゲーション」という本です。
本の帯には人目を引く「この世の大建て替え、大建て直し」「神一厘の秘策で、ミロクの世、光の御世にグレンとひっくりかえる!!」などとありますが、書かれてある内容はそういう「恐怖心を煽る」類のものではなく、「聞けば当たり前に聞こえるが、実行するとなるととたんに難しい」という、ひふみ神示に書かれてある内容が、もっと「現代のわかりやすい日本語」で噛み砕いて書かれています。

ひふみ神示原文を読んで、難解でどうもとっつきにくい、という場合には、有効な良書だと思います。


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悪を抱き参らせる

2006年04月24日 (月) 00 : 59
ひふみ神示の中に出てくる言葉に、「悪を抱き参らせよ」という言葉がある。
神様は、悪も善も共に、と言う。悪も善もないのだと。
そして、悪も改心したら善いほうに回してやるし、むしろ悪の改心は早い、悪を非難して「人が、人が」と言っていたことが、全部自分のことだった、ということに気付くであろう、と。

悪の非難をしているうちに、“善のつもり”でいた己が、実は大変な思い違いをしていて、身魂磨きに何度も“お出直し”になるということも、ひつく神はおっしゃっておられるが、これは、新約聖書の中にも似たような記述がある。

「先の者はあとになり、あとの者が先になるだろう」と。

これは、畑を耕す人のたとえ話の中に出てくるのだが、要するに、何年も何十年も善を志向し魂を磨いてきた“つもり”の自分と、最後のわずかの時にいっきに身魂みがきに参加し、ほんの短い期間だけ頑張った人と、「神様からの報酬が同額」であることに腹を立てた人に対する神様の言葉。

なんで自分はこんなに頑張って苦労してきたのに、後からほんのちょっとだけ頑張った人と、同じ報酬なんでしょうか?と、神様に抗議している農夫への言葉なのだけど、私達は本当に気をつけないと、日常的にこの気持を抱く場面に出くわすことが多い。

「人がみんな始めたら」「世の中がそうなったら」
と言っているうちに、自分の未解決のめぐり(カルマ)にまったく手をつけていないどころか、新しくめぐりを積む生き方をしていたのだった、と、必ず気がつく時がくると思う。

私達は、まず自分を許し、他人を赦し、自分から見て悪に見えるものを赦し、そしてまるごと抱きとめて、そこから変えていかなくてはならないのだ。それは、「人がやってくれる」のを待っていても、無理なのだ。
そのために生きている、と言っても過言ではないのではないだろうか。

一歩外に出れば、そのことが分かっていても「まるで魂を試されるかのように」ありとあらゆる、そのことを体得させられる場面に出くわす。
まるで、本当に筋書きのあるドラマのようだと思う。
このからくりが分かっていると、「どんな人に出会っても」あんまり驚かないし、そこで「悪を抱き参らせる」を自分なりにクリアできれば、ピンチがかえってチャンスになり、嫌だ、と最初は映った人が“神様に変わる瞬間”を経験できる。
これは、本当です。うわー、自分は何もしていないのに、相手が勝手に変化している・・・
という経験。ひふみで言うところの「嬉し嬉し」状態ですね。

楽しければいいじゃないか、という人も多いし、好きなことをして生きていきたいし、という人もいる。人は人、自分は自分、と、自分の世界を大切にしたがる人もいる。
どれも間違いではない。
そこに、「我良し」オンリーの心が働いているのでないのであれば、だけど。

自分を維持していくことで精一杯の人が溢れている世の中だ。
神様が用意してくれている、身魂磨きの試験場は、まさにスリリングで奇跡に満ち溢れた大劇場なのだと思う。
観客は、大勢いらっしゃる。
それは、それぞれの人の守護神であり、守護霊、指導霊、など、多くのスピリットが私達が「真人間」となるために、一日も早く天地宇宙の法則を理解するようにと、毎日の中にたくさんのヒントを与えて誘導してくれている。


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