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確かに、アセンションって何だろう?

2006年02月19日 (日) 08 : 54
アセンションとは、何だろう。
自分で「2012年問題」と表して、この問題を振っておきながら、恐縮なのですが、その次元上昇後の世界というものが、見当がつかないから、アセンションという現象が起こり得るだろう、起こるのだ、と確信する人、もしくは半信半疑ながらも、ちょっとYes寄りの人と、そんなことはあり得ないという人、そういうことに想像がまったく及び様の無い人、さまざまなのでしょうね。

アセンションが起こりうる、と感じる人にとって、「そうなった時の、それ以降の世界、地球、宇宙、もろもろ」のイメージを具体的に説明できないことは、とても歯がゆくて切ないものがあるし、ない、くだらない、と思う人にとっては、仮にその具体的な絵を見せられたとしても信じがたいものなんじゃないでしょうか。

私たち人間の思考の癖は、少々大胆なものを見せられようと、たとえ自分が生死の境をさまよう目に合ったとしても、それで死生観が変わるような人ばかりではない。
よく臨死体験をした人の話に共通項があることなどで、霊界、幽界の存在などが語られ、そういう経験をされた方の死生感が変わる、死は始まりなのだ、ということを自覚する、などの話を伝え聞くことがあるけれど、そういう方もそりゃちらほらいらっしゃるけれど、それは全員ではないはず。そういうものを自分自身が見ても、そこに意味を見出す人ばかりではない。

私自身だって、よくよく考えてみれば、とても不思議な体験や、あり得ないような偶然の経験、これは自分の力ではないな、という幸運だけなら、すべて思い出せないくらいにたくさんあるし、今はもはや日常的に、ある。
いいものも悪いものも、自分の撒いた種の戻りがすごく早くなっているのが分かるので、「気付かされるタイミング」をだんだんだけど、逃さないようになっている。
これは、5年前、10年前には、まったくあり得なかったことだ。

だからといって、「人間は何のために生きているのか」「この世の仕組のこと、幽界、霊界、神界の仕組のこと」などどいう一見あまりお得感のないことに、真面目に向き合い考え始めたのは、この5、6年くらいのことで、それも、日がなそういうことに囚われて生きているわけではない。
だいたい、人間っていうのは、霊界のようにずっと起きっ放しでもなければ、食べたり、出かけたり、仕事したりがあるし、それほど毎日毎日、この手のことを考えていられるほど暇じゃない。

だけど、特に近年、本当に「時間が飛ぶように過ぎていく」実感が、今年になってまた高速化しているように思うので、自分で「向き合う」と決めないと、「まぁ、時間ができたらいつか・・・」といつまでも保留にしていると、おそらく「霊的な世界のことを知りたい」と思ったときには、アセンション云々の問題抜きでも、結局は死に際になるんじゃないだろうか、という気がした。

こういうことを考える人は、「暇人」だったり、この世的な価値観で言うと「負け犬の立場」だったりすることが、慣例的に多いし、(これも、仕組み的には仕方ないのね。人間は苦境に立たないと、なかなか神様を見出せない生き物なのだ。幸せな時は、確かに感謝はしても、苦境で救われる経験ほどのインパクトってないから。これはねー、ほんとに、なんで?なぜ自分にあの力が?なの。いわゆる火事場の馬鹿力です)日本人ほど実は信心深い民族はないはずなのに、「神」「宇宙の仕組」的な世界へのアレルゲンを持っている人口が多すぎるので、本当は今を生きる万人に共通の趣味としてだって語れる話なのに、なかなか、おおっぴらに普通に話せない空気があるのだ。

風水だの占いだのは日常的に嬉しそうに話す人は本当に多くなったけど、「人間の業」が自分にもあなたにもある、って話なんて、面と向かってとてもできない。
これは、分かっている人同士の共有感覚は、もう至上の喜びなのだけど、いざ現実社会では、「あーーー、、、それは、こういうことなのかもしれないよねー。」と、気付いて言ってあげられたら。。。と思いながら、絶対言えない。口が裂けても言えない。
どうかその人が、気付きますように・・・と、祈ることしかできない。
(でも、それはそれで良かったみたい。人のカルマ解消のお手伝い、なんて、いい気になってやることじたいが、「何を偉そうに」ってことなんですよね)
こういう時、実は私は「もう早く霊界に戻りたいです・・・」の気持ちだった。
もう、早く役目を終えたい。。。って、何もしてないくせに思っているだけだった。

でも、インターネットのおかげもあるし、それこそ時節なのでしょう、やれ前世がどうだ、とか、テレビなどでも霊能師、占い師が、その「霊的世界」アレルゲンに徐々に「慣れさせて」くれているところもあって、それほど「ほんとにごく限られた人たち」だけが真剣に考えてる訳分からない問題、というのでもなさそうだ、自分の問題だ、ということに、気付く人も増えていると思う。あの方たちは、賛否両論あるのは当たり前だが、今この時に、非常に重要なことをしている、と思う。

要するに、「勇気」の問題なのだ。
私は、そもそも「神様がいるもの、霊界があるもの」としてのスタンスできているので、本当なら声を大にして言ってもいい場面はいくらでもあったはずなのに、そこから、とにかく逃げ回っていた。
人から「変人」と思われるのは嫌だったし、(でも、職場を辞める時って、周囲の人にはいつも辞める時に言われるんだけど、かなり「風変わり」だったらしい。。。うーん。いろんなところで仕事して、自分はいたって周りの人と変わらないつもりだったけど、そうは映ってなかったのか。というか、そんなに会社をころころと変えるな、って言われそう。これは、色々訳があるのですが、好きでそうなってるわけでもないものもあるのでして・・・)それに何よりも、「我欲」が大有りの私なんかに、とてもそんな偉そうなことが言えるわけが・・・っていうのもあり。

ここが、本当に難儀なところなのね。
こういうことに「気付いて」それを「偉そうに言う」人ほど、カルマでどろどろだったりする例って、世の中に腐るほどあるでしょ。
だけど、カルマでどろどろの人の方が、実感しやすいからそれはそれで当たり前なのだ。
芸術系、音楽系に走る人って、そういう人、実際に多い。
物欲とか名誉欲とか金銭欲とかを否定する部分が多分にあっても、根底にある「魂を表現したがる我欲」に関しては、人一倍旺盛な人が多いし、それがモチベーションになって、表現したいって欲求があるから、当たり前といえば当たり前なんだけど、だから、とても苦しいし、壁にぶつかるし、嫉妬や妬みも「自分ではどうしようもない天賦の才」に関わるところへ向かうわけだから、必然的に「神」的なものを希求する道が、あちこちに用意されている現実に気付きやすいわけで。

で、気付く。
もう今でもアセンションなさっちゃっているんじゃないかと思われるようなリアルくさい方ほど、実は「精神世界だの、アセンションだの」と大威張りしていない。
「魂の入った表現」だの、「未来だの夢だの自己実現」だの、「腐りきった世の中がどうの」とか、そういうことを言わない。
「今」を淡々と自分のできることをして、生きておられる。
本当に生きている人間でも「後光が差している人」っているんですよ。
これはだれでも光に包まれていることは事実なんだけど、肉眼で今の現世の段階ではっきり見える眩しい光を纏う人って、さすがにそんなにいないのです。
普段、そこまではっきり「うわ。」と、対、人間で見ることがなかっただけに、本当にいる、っていうか見ると、びっくりしますし、そしてなるほど・・・と、納得します。
必ず、と言っていいほど、そういう方は、絶対に人や物事を批判しない人。
身魂磨きに物凄く努力されていることがわかるんだけど、物凄く謙虚な人。
でも、謙虚といっても、それはもちろん自己卑下じゃないんですよ。静か、なんです。
そして、世の中を善くして行こうという行動を自らが地道になさっていますね。

こう言うのもなんだけど、本物ってそんなに簡単に万人にわかるようには出てこないし、世の中の仕組じたいが、実際にそういう方を評価する仕組になっていないですね、よく見ると。
こんなに凄いことをやっている人(会社、団体なども含む)が、なぜ世に知れていないのだろう・・・この人(会社、団体)のこんなに良い部分が、なぜ世の中には、そのまま伝わってないのだろう・・・ということは、山ほどありますよ。
目立たないし、目立とうとしていないし。見てるこっちが歯がゆいですよ。

結局、世に出ているものは、宣伝上手なのだと思う。全部が全部ではないけれど、そういうものがあまりにも多いのは事実だし、多くがそこを志向する。

自然に還りたいなー、とか言いながら、都会で暮している私みたいなのは、似非なんだと思います。今のままでは、どう考えても「落第生」のまま、サヨウナラになりますね。
「石は大自然の恵みがくれた、どうのこうの」とか言いながら、その大自然を本当に知っている人たちというのは、鉱山で採掘なさっていただいている国々の鉱夫の方々ですから。
危険を冒して「ヒマラヤ水晶」を採りにいくのも、自分じゃない。
自分は、そういう方々が採ってきてくれたものを、石業者の人々に輸入してもらって、それをお金出して買うだけ。何の痛みも苦労もなく、宝をタダ同然で、いただいちゃっているようなものです。ほんと、お金の問題以前の感謝ですよね・・・・・・。
資本主義の欠陥を批判することはいくらでもできるけど、このシステムがなかったら、私は「石を手にすることは確実にできなかった」と思うので、そこで、やっぱり「感謝」なのだと。資本主義を批判する心が生まれそうになった時に、私は心をこういうところへ持っていくことにしているのだけど、それだって、取り様によっては「逃げ」なのです。

アセンションっていうのは、何もかもが「ひっくり返る」現象なんじゃないのかなー、っていうのが、私の想像の域での像ですね。
もちろん、この「上下グレン」は、ひふみ神示なんかにもある言葉なので、その刷り込みで始めは思っていたんだけど、この「上下」というのが、自分が単純に思っているような上下の概念を越えた「そんなことまで・・・。でも確かに、今までは上下逆さまだったなぁ。」という“考えうるすべて”において、そうなるのかな、と思う。
次元が上昇するのだとしたら、今までの「霊界」「幽界」が近付く、もしくは部分的に融合してしまうので、もう、「心が素顔」になっちゃう、という、まぁ突飛ではありますがスペクタクルなことが、少しだけあるのかもしれない。

だから、あんまり「表の顔」「裏の顔」を使い分けてこなかった人、それも、無意識の次元でそれをやって来た人で、且つ、もちろん「心底の計算の無いやさしさだとか思いやりだとかを、本当に損得抜きで出し惜しみしてこなかった人」には、ものすごーーく報われる世界なんじゃないかな。つまり、そういう方には、「自分が報われること」そのものに頓着がないのだと思う。(その「裏」「表」のギャップが激しい人ほど、ちょっとそうなった場合については、想像の範囲に収まらないことになりそうなんだけど、これこそ「分からない」ことですね・・・)
「善も悪もない」ということを、本当に思い知るのだろう。

こんなこと、「誓って私はそういう人間です」って言える人なんて、人類史上存在するんだろうか、って思うくらい、難しいことだと思う。でも、無理なことではないのだ。
今までは、自分には無理、と思ってきたけれど、そんなことないかもしれない、いや、そんなことない、と感じる。
その「私には無理」で、どれだけ自分の可能性を閉ざしてきたか、を考える時に、分かる。「無理かもしれないけどやってみよう。」と思ってできなかったこと、って、ようく考えてみると、今までにそんなにないのだ。むしろ、自分が本気でやろうと思って実行してきたことは、全部実現している。
だからこそ、こつこつと内省して行動を積み上げるしか、やはり道はないのだと思う。

結局、「アセンションというのを人間は生きたまました経験がない」ので、やっぱりその時になってみないと分からないのだと思います。

ごめんなさい。振っておきながら、分からない、なんて。
だからこういう精神世界を語りたがる奴は嫌なんだ、と思われちゃいますよね。
確かに、人には好き嫌いがありますからね・・・。
だけどさ、ワールドカップの勝敗だって、予想はついても、勝敗とか実体は、私たちは知らないし、その時にならないと結果が出ないし、そもそも「実体を自分は知っている」と言い切れることなんて、どれほどあるんだろうか?と、思いませんか。
トリノオリンピックだって、ここまで「メダルが取れない」とは、誰も思っていなかったはず。わからないんですよ。先のことは、ある程度の目安の予定はあっても、それはやはり、私たち人間すべての総意なのだろうと。

人間は自分の身体ひとつ感情ひとつ、コントロールできない生き物。
病気とか、幽霊とか、孤独とか、仲間はずれとか、死ぬこととかを、怖がっちゃう生き物なんですよ。食べなきゃ、眠らなきゃ、生きていけない、ってことになっている。
その生きてくことでさえ、今は「長生きリスク」を考える人もいるくらいです。
(これは、金融業界では格好の商売ネタなんですけどね。「だからお金が必要でしょ?」と思わせるのに、これほど有効な恐怖はないのです。「長生き」。)

それはなんでか、っていうと、突き詰めるとそれがいいことなのか何なのか「自分で判断できる能力の限界を超えていると、誰もが当然のように思っているのが常態と考えている」からなんじゃないでしょうか。


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カテゴリ :  私にとっての2012年
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