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2006年02月06日の記事のリスト

カルマについて6

2006年02月06日 (月) 03 : 46
私が、作詞以外の仕事で、今まで関わってきた仕事の内容に、私のカルマがすべて現れてきていたのだ、ということが、今となっては実感できます。
小さい頃から抱えつづけてきた不満、私の目に映る「世の中にある不公平感」とはいったい何なのか、を、とことんまで勉強させるために、私の霊界は働いていたとしか思えません。

「カルマをどう定義するか」で語らないと。。。というコメントをいただきましたので、私の場合は、「ある」という視点で語ります。
「カルマ(それは自分が生まれる以前のものも含め)、因果応報の世界がある」「自分の思いが自分に還る、現実を創っているのは自分」という視点で省みるほうが、私の場合は、人生の符号性、いわゆる「合点がいく」ことが多い、ということです。
そして、この「カルマというハンデ」は、逆に、大きなチャンス、宝でもある、ということを、実感しています。
なぜなら、このハンデに「感謝する心」を心底持てた時にこそ、霊界が後押ししてくれていることがわかるからです。
そして、もちろん死後の世界がある、ということも前提となりますが。

この辺りを、あやふやにほとんど意識せずに生きてきた頃の、話をお話します。

5年ほど続けた仕事でしたが、いわゆる「世のお金持ちと呼ばれる人々」「そこそこの富裕層相手」の資産運用ファンドの営業をやっていたことがあります。とにかく、私が「不公平と思っていた、根幹の“お金”に関する仕事」を通じて、これでもか、これでもか、と、人々の欲心得心利己心を見せられ、その欲心得心利己心を満たしてあげることで報酬をいただく、という経験は、時としてとても空しいものでした。

「人は、何千万円、いや、何億円持っていても、満足しない、それどころか、不安で不安でそのお金を握り締めている」その不安を払拭してあげるのが、こんな何の財産も持たない人間なのですから、なんだか、冗談のようでした。
彼ら富裕層にとっては、若者が仕事につけない正社員になれないこんな時代を憂うでもなく、自分たちの老後の資金繰りだけが、この予想していなかった低金利時代の関心事でした。おじいちゃんたちは、必死。自分が、そして自分のご家族が生き残るために。そして、その頼みの綱が、まさに“お金”なのです。
戦争を経験してきた世代、戦後の貧しさを経験してきた世代だけに、「財産」とは「お金」なんですね。そして、十分に持っているのに、今度はそれを失うことを非常に恐れているのです。

これを、「悪」とは言いません。
当時は、そういう人々の「欲心・得心」を、時として、「そんなに自分たちだけが安泰ならそれでいいのかなー、この老人たちは。少しはそのお金を日本の未来のためとか、若い人たちのために役立てようとか思わないのかな」と、心の中で悪態もついてましたけど。今働いている40代、30代は、あなたたちのように財産は作れないし、20代、10代の子達のこと、日本の未来のこと、この人たちは気にならないのだろうか?と。

しかし。
状況は、その当事者、本人にとって、「どう映るか」それだけなのだ。
ということを、私はたくさん勉強させられました。

学校の先生を定年退職された、というおばあちゃんのお客様に、「あなたが羨ましいわ。」と言われたことがありました。
「なぜですか?」と聞くと、「私はずっと教職の仕事をしてきたから、あなたみたいに経済や資産運用の知識がないでしょ。世の中のことを、知らないんですよ。だから、不安で仕方ないの。」と言われました。

私は、心の中で苦笑していました。
その方には言いませんでしたが、私は仕事なので経済知識、金融知識は持っていましたが、それで「自分の財産を増やす」ことに興味もないし、そもそも、その増やす原資を持っていなかったこともあったのです。
それよりも、教職を何十年となさってきた方が、こういう感覚であることに、軽い失望感を覚えたのです。
少なくとも、公職ですから、何も心配しなくても、普通の人よりかなり恵まれた退職後の環境を持っている方のはずなのに、私のような明日どうなるとも分からない人間を“羨ましい”と言う・・。
こういう人が、「先生」って呼ばれて人を教えていたのか・・・。
そのお宅からの帰り道、涙が出そうに悲しい気持になったことを覚えています。

と、同時に、「人は、自分ではいかに自分が恵まれて生かされているかに、なかなか気づけない生き物なのだ」ということを教えてもらい、我が身を振り返りました。
どんなに恵まれている人でも、それを本人が自覚できない限りは、恵まれていることにならないのです。

この仕事を始めた頃は、世の中のそういった「私利私欲」や「恵まれている自分を自覚できないお金持ち」をたっぷり見せられて、本当に憂鬱でした。
そして、その「私利私欲」の部分を掻き立てる側の利を生むための仕事の片棒を担いでいる自分が、本当に嫌でした。
自分だって、それで生計を立てているじゃないか。
そういう人々がいてくれなければ、成り立たない仕事だったのですから。

しかし、ある時、ふっと気付いたのです。
私はファンドという「商品」を売っていて、それは確かに相手にとって「安心」とか「幸福感」とか「信頼感」という大切な“喜び”を与えているじゃないか、と。
それに、人間相手の営業の仕事は、とにかく「ありがとうございます。」を言葉にする頻度がものすごく高い仕事です。電話口で相手に見えていなくても、つい頭を下げながら、一日に何度もその言葉を使います。
とにかく、「人に感謝できないと務まらない仕事」なのです。
それに気付いてから、「これは、いい仕事だな・・・」と、無理矢理にでなく思えるようになったのです。
そう思えるようになってから、そういうおじいちゃん、おばあちゃんたちを愛しく思うようになってきました。
彼らは、目に見えない未来の利子という数字を手にする前に、私の言うことを信頼してくれて、“命の次に大切”といわれるお金を預けてくれている・・・これは、凄いことだ、と。

そう心底思えるようになってからでした。
自信が生まれ、ノルマがピンチの時も、タイミングよくリピーターのお客さんに声をかけると、「ああ、ちょうど満期になったお金があるからどうしようかと思ってたところなんですよ。」とか、一声かけたら追加で預けてくれる“よくわからないけど大金持ちのおじいさん”のお客さんが増えていったりとか。
もう、これは「人気商売」じゃないか、と思えてきたのですね。

そして、「先祖代々の資産家」というのは、ある種の人徳を持っていらっしゃることが多い、ということも、実際そういう方に接してみて、とても勉強になりました。
この仕事をやらなければ、そういうお宅にお邪魔してお話を伺う機会などあり得ませんでしたので、すごく楽しかったし、ああなるほど、こういう新興ではない生粋のお金持ちは本当にお金を大事に扱っているのだな、と教えてもらったのです。
そして、必ず、ご先祖様、ご家族、周囲の人々を大切になさっています。

まぁたまに威張っている人もいましたけれど、そういう方は、お金持ちのふりをしながら内実は決まって「実は余裕の無い虎の子すべてを賭ける」の心境の方でした。
そういう「お金持ちのフリ」をして、契約を仄めかす愉快犯とか、本当にたくさんいました。いちいちそういう人に怒ってもしょうがないくらい、いるんですよね、「お金持ちになりきったふりをする人」「知識のあるところを見せたがる人」。
寂しいんだろうなぁ、と思いましたけれど、本当に多かったです。

そして、もうひとつ、気づきました。
私は、こういう人々、お金を増やそう増やそうとしたがる人々を、始めは軽蔑するような眼差しで相手にしていたけれど、それは、自分が「お金を持っていない」妬み、僻みから、実は来ていたのではないかと。
私自身だって、自分がそれなりの財産を持てば、彼らのように「どうしようか、どうしようか。」と、その目減りに不安で、でも少しでも増やしたい、とにかく安心で確実なものはないか、と、右往左往することに神経を注ぐかもしれないのです。

お蔭様で、「増減を気にするほどの運用する財産」など持っていないので、私は“お金そのものに頓着する”必要性からは、免れています。
これは、とても在り難いことだったなー、と、もしかしたら、それを知るためにこの仕事をさせられたのだなー、と思いました。

お蔭様で、もうずいぶん経ちましたが、今のところそのファンドは、一度も「元本割れ」を経験していないようですし、その会社じたいも経営的には、私がいた頃よりもムーディーズ格付も上がったようですし。(それを新聞で見た時には肩の荷が降りた気がしました。私がその営業をやっていた頃はトリプルBでしたから、本当に大変なことは大変だったのです。こんなに気が小さい私は、絶対、株を売る証券会社の営業マンにはなれませんね。)

私は、「お金は必要な時、自分に必要なだけ、必ず用意できる」という自信を、持っています。
今までの人生で、もうこれは“万事窮す”ではないか?と思うような事態に遭遇することも、しばしばでしたがありました。
でも、なぜか気づくと、ちゃんと生活させてもらっている。
その自信の根拠は、お金こそ“カルマの現れ”であることを、身を持って教えてもらった、数々のピンチやこういった仕事の経験にもよりますが、何よりも、私をこういう風に導きたがっていた霊界の意思と、やっと繋がったなー、という実感が生まれたことが大きいです。

やはり、苦労も、苦労の裏側を読み取っていかなければ、苦労損、になってしまいます。苦労損にしないためには?
簡単です。「不平・不満を言わないこと。」「物事の良い側面を見て、喜ぶこと。」

行為じたいは全く同じ事をしていても、自分の心の持ちよう受け取り様そのものが、「カルマを増やす原因」を作るか、「徳を積む原因」を作るのか、本当に、この一瞬一瞬が、正反対の方向へ向かう現実、そして未来という結果を生み出しているのです。

これだけのことを知るのに、まったく、どれだけの年月を費やしたのかと思うと、、、
トホホ、ですね。
だけど、霊界は諦めてませんからねー。本当に。

なぜなら、今生きている私たちの霊性の向上の助っ人として、日中夜仕事してくれているそれぞれの霊界、霊団自身にとって、在る意味私らの肉体を持った行いや想念というのは、「死活問題」なわけですよ。
生きている人間ではないのになぜ死活問題かというと、早い話が、彼らには「この魂の助っ人になります!」と挙手して、守護霊、指導霊、に立候補して、数々の難関をパスして、その重大な使命を請け負っているという責任感が、私らが生きている間中あるわけです。昼夜の休み無くひとつでも多く、受け持ちの身魂に、その精神の向上心へ志向させなくてはならない。
それは、肉親の責任感の比ではないと思います。

そして、始末の悪いことに、「直接、話ができない」わけです。
話したくても、現世に生きる私たちの身魂というアンテナが曇りすぎていて、彼らの忠告をキャッチできないわけです。電波は発しているけれど、キャッチできる周波数をこちらが持っていない、という感じですかね。
それを、もう、“偶然”“幸運”だろうが、“災難”“病気”だろうが、あの手この手で「気づかせよう、気づかせよう」とするわけですから。
起こることすべてに意味がある、というのは、そういうわけです。
その苦労が偲ばれるでしょ。

なんでそんな面倒くさい仕事をしてくれているのかというと、彼ら霊界にとっても、この地上を肉体を持って生きる人間のサポートをすることは、いわゆる「神性」へのサポートの御役目なので、少しでも地上の人間がそれに気づき「感謝」したり、「喜びを持って生きる」ことをしたり、「見えないところで徳を積む行為をすること」で、彼らにとっても神様からの「ポイントゲット」となるのです。
霊界においては、生きた人間を通してでしかカルマを解消できない。
いわゆる、「持ちつ持たれつ」の、絶対切っても切れない関係。
生きた人間が身徳を積むことは、霊界にも同時に存在している自分の貯金を増やすようなもの。
そして、霊界で日夜サポートしてくれているそういった霊団の人々(ご先祖様も含め)に、仕送りをしている「孝行娘」のようなもの。

彼らは、「自分たちにああしてくれ、こうしてくれ」ということは言いません。
(たまにそういう成仏しきれないご先祖様の御魂もありますが、人間のサポート霊として働いている霊団は、そういう霊魂とは、人間的な言い方でいえば、次元が違っているということになります。未成仏霊や幽界にいらっしゃる霊は、どちらかというと人間の感性に近い存在、というか、肉体を持っていない状態の人間そのもののようなもので、言っている要求も分かりやすいし、波長が合えば見えることもあるのでしょう。)
それよりも、今、地上で、ひとつでも多く喜び、感謝し、世のため人のために仕事をさせてもらう、そういう姿を見せてあげることを、本当に望んで喜んでくれているのです。

人間の世界では、わざわざ自分でアピールしないと、人には分かってもらえませんが、霊界では“すべて分かっている”と思ったほうがいいです。
一人で生きてるんだけど、実は、一人で生きているわけではないんですね。

だから、「逆境が多い人生」「ハンデが多い人生」の人ほど、実は、物凄く霊界的には、「期待の星」なのです。
もちろんその中には、自分が生まれてから増やしてしまったカルマというものもあるので、これには霊界は干渉しようがないので、自分で返すしかないのですが、それに気付かせる助力をしてくれます。だから、「悪事が露見する人、自分の中の負に気づく人は、運がいい」のです。

「こんなことをしたら親が悲しむ」が、あまり抑止力にならなくなっている現代、「こんなことをしたら霊界が悲しむ」を、時々思い出すと、ほんのりと励みになりますよ。
物凄い数の魂に、見守られて生かされていることを、一日の中で、ちょっとだけでもいいから、思い出してみてください。


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カテゴリ :  ちょっとスピリチュアルな話
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