アーカイブ
2006年02月の記事のリスト

石のPowerを感じる方法2

2006年02月28日 (火) 01 : 07
 前回の続きです。
 「石のパワーを感じる方法」には、身体の浄化が有効、ということでした。
 
 食生活の改善の他に、身体の浄化に有効な手段は、「合成界面活性剤」を使わない、ということがあります。
 なんじゃそれ、「合成界面活性剤」って?と言いますと、この「合成界面活性剤」というのは、市販されている石鹸、シャンプー、洗剤、歯磨き粉、化粧品などの、身の回りのありとあらゆる「洗浄剤」などに使用されているものです。

 え?じゃぁ、何も洗えなくなっちゃう、と思いますよね。
 それらをずべて代用できる、「界面活性剤」というものがあります。
 それが、「せっけん」です。
 せっけんに使用されている界面活性剤は、「脂肪酸ナトリウム(ソーダ石けん)」「脂肪酸カリウム(カリ石けん)」の二種類です。
 「せっけん」と人類の歴史は、約5000年。
 一方、「合成洗剤」「合成せっけん」「合成シャンプー」との歴史は、4、50年くらいじゃないでしょうか。
 私たち「現代人」は、まさに壮大な人体実験をしている最中なのです。

 今は、合成洗剤や合成シャンプー、基礎化粧品など、指定成分以外のすべての成分表示が義務付けされていますので、見分け方は簡単。
 「脂肪酸ナトリウム(ソーダ石けん)」「脂肪酸カリウム(カリ石けん)」以外の、界面活性剤は、すべて、「合成」です。つまり、化学物質です。
 なんで、「合成界面活性剤」を使っているものが身体に良くないのか?
 皮膚を通して、それらの化学物質は体内に吸収されるからです。
 肝臓が、ひいひい言いながら、そういう毒を解毒しているのですが、それも追いつかない場合があります。あまりにも、多すぎるから。

 一日のうちで、これらの「合成界面活性剤」に触れざるを得ない場面は、実は、止めて見るとわかるのですが、本当に、身の回りに溢れていたことがよくわかります。

 「せっけん」に切り替えればいいのね? と、話は単純そうなのですが、長年それらに親しんできた皮膚というのは、人によっては「好転反応」も出ますし、シャンプーに関しては、「せっけんシャンプー」独特の違和感が最初に思いっきり現れるので、これに馴染めずに、結局「合成シャンプー」に戻してしまう人も多いようです。

 でも、私の場合は、「洗浄剤」関係は比較的スムーズに馴染めました。
 最初は、食器をせっけんで洗う、というのがとても不思議でしたけど、すすぎの早さ、汚れ落ちの良さに、かえってビックリしたほどでした。
 これも、せっけんに変えてしばらくは、ずっと使っていた「合成食器洗い洗剤」が食器に付着して残っているため、少々違和感がありましたけど。
 合成洗剤は、「水で流しきれない」という怖さがあります。
 体内に入っても、残るそうです。

 私が、なんといっても途中で挫折しそうになったのは、「化粧を止める」「基礎化粧品を使わない」でした。
 肌にとって「百害あって一利なし」を、どんなに理屈で分かっても、これは、大変時間がかかりましたね。というか、その概念を受け入れるのに、これは理屈ではないのだ、ということが分かるまでに、時間がかかりました。
 でも、やってみて思うことは、どう考えても「肌にいろいろ塗る」のは、「肌にいいわけがなかったのだ」ということでした。

 化粧を取ると、素顔はなんとなく疲れた顔色に見える、というのが、化粧をする女子の定番の姿だと思いますが、その原因が、あの塗りたくっていた「基礎化粧品類」と、「化粧」そのものにあったのだ・・・ということを、自分の肌で知ると、もうあの不自然な油類を塗ろうという気がなくなります。
 実は、人間の肌ってのは、「保護」など必要ないくらいの正常さを保てるんです。
 「なにもしなければ」肌はそのチカラを、発揮してくれます。

 私自身、超コスメ大好きオンナで、メイク命、でしたので、なかなかこれは大変でした。なにしろ、基礎化粧品使用と、メイクの歴史がとても長いぶん、その好転反応も凄まじかったです。たまたま、あんまり人に会わずに済む時だったからトライしてみようという気にもなったんですけど、とにかく、顔を洗って肌に何もつけない、ということがつらくてしょうがなかった。肌は、がさがさになりました。
 でも、じきにその感触が変わり始めました。
 せっけんで洗って放っておいても、つっぱらなくなってきました。
 そして、がさがさだった表面が、とうとう何もしていないのに「つるつる」になった。
 今はもう、その「肌がつっぱる」という感覚を忘れてしまいました。
 あの、「疲れた顔色」というのもなく、血行が良くなり、化粧で陶器のような肌を作って油を顔に浮かせなくても、顔の油が気になる、ということそのものがなくなりました。 昔は、冬になればなったで、肌がかさかさで、身体がかゆくて、っていうのが通常の姿でしたが、今はそのかさかさも、かゆみも、まったくないのです。
 なにも「つけない」のに、です。

 今は、化粧に関しては、基本的に、ノーメイクです。
 どうしても必要な時だけ、口紅とアイブロウで眉書きするくらい。
 でも、コスメ大好きオンナの名残でしょうか。
 ネイルアートだけは捨てきれず、着け爪まではしませんけど、常に指の爪の上だけは遊んでいます。でも、その爪も、昔はよくはがれたり割れたりがしょっちゅうでしたけど、今は伸ばしても全然割れなくなりました。爪も丈夫になっています。

 まるで、「健康オタク」みたいな話ですが、これが「身体の浄化」です。
 しかも、世間一般の「健康オタク」と違う点は、「お金や道具がいらないこと」です。 食生活が地味になると、多少有機玄米とかいいお野菜を買ったとしても、それでも、加工食品を買ったり、お弁当を買ったりするよりも、結果的に安く済みます。
 その分、よいお醤油を買うとか、よい食塩を買うとか、できる。
 お金を使うところが、変わります。真の意味で、贅沢ができます。

 「合成界面活性剤」を使っている、もろもろの洗剤やシャンプーやらをすべてストップして、「せっけん」に切り替えると、驚くほど、今まで「用途別洗剤」を買わされていたんだな、ということに気がつきます。ものすごく不経済だったことを知ります。
 今、こういう「せっけん」がらみのもので、年間どのくらい使っているのかな?と、ざっくり計算したところ、だいたい1万5千円くらい。せっけん、シャンプー、洗剤、食器洗い、歯磨き粉、など、せっけん系のものにかかる費用は、年間でそんな程度。ドラッグストアでごちゃごちゃこまごまと買っていた頃とは、もう比較になりません。
 基礎化粧品、化粧品、は言わずもがなですね。
 基礎化粧品をやめると、年間いくらになるんだろうか? のレベルの女の人もいるんじゃないでしょうかね。
 なので、今や「ドラッグストア」での買い物は、「ごみ袋」と「トイレットペーパー」くらいのものになりました。

 ちなみに、これは人から聞いた話ですが、皇室のご家庭では昔から一貫して「せっけん」を使っているそうです。これが、何を意味するか。
 私のダンナさんが昔とある大学病院で外科手術をした際、包帯を解いて、お医者さんが「じゃ、ここで手を洗って」と言われた蛇口の横にあったのは、「アイボリー石鹸」という昔ながらの「せっけん」だったそうです。皮膚や傷口を通して浸透する「合成界面活性剤」の危険性を、その大学病院の外科では分かっているからなのだと思いました。
 良心的で、評判の良い皮膚科の病院も、「せっけん」への切り替えを薦めます。
 近所にとても繁盛している皮膚科医院があり、私も何度か通ったことがあるのですが、最初に「せっけん」のことを教わったのは、この病院でした。15年前くらいなのですが。 当時は、せっけんの凄さを実感しながらも、皮膚の状態が良くなったら、合成界面活性剤の洗浄剤に戻してしまったんですよね。化粧や基礎化粧品の肌への影響も、その時に教わったのですが、その頃は「そうは言っても・・・」と、やめられませんでした。

 私がこういうことを始めてから、かれこれ7年くらいになります。
 食生活のほうは、なかなか徹底できず、本腰を入れて、3年。
 長年やってきて、今はもう私にとっては「これが通常」なのですが、昔に自分がさんざん自分のカラダを虐めてきたことを振り返ってみると、「もうあの状態には戻れないな」と、逆に感じます。
 身体の浄化が、「習慣」という状態になるのは、これはやってみないと実感できないことなのですが、とっても「気持いい、気分がいい、具合がいい」のは事実です。
 
 石のパワーとか「気」と、それがどう関係するのだ?と思われるでしょうけれど、これは実際に「身体に何が溜まっているのか?」を、実地で自覚して、それを浄化することが、精神に及ぼす影響があるのだ、ということを「体験」すると、石のことが「身体と精神の両方で」分かるようになると思います。


この記事のシェア&ツイートfacebookでシェアTweetする

カテゴリ :  ちょっとスピリチュアルな話
follow links FB pageGoogle+Go to top of page ページの上へ移動

石のPowerを感じる方法

2006年02月27日 (月) 21 : 08
人それぞれ過ぎちゃって、コレっていう明確な方法を謳えない、この「石のパワーを感じる方法」ですが、えーと、単純に「気を見たり」「石の活性化を感じたり」っていうだけだったら、たぶん、誰にでもできるようになると思います。
私でさえできるようになりましたので。

「石がしゃべってる言葉がわかる」いわゆる、「石のこころのリーディング」ですが、これは、あくまでも「そのように感じる」レベルですので、これも人それぞれの「人生観」や「人生経験」や「霊性」や、さまざまな要因が複合的に絡んできますので、その表現が人によって違う、ってのは、ある程度までは致し方ないのかな、と思います。
背負ってる霊界は、みんな違うのでね。

ここでは単純に、「石の振動を感じる」だとか、「気を見る」方法について。
まず、「気」っていうのは、基本的に「形あるものすべて」が持っていますので、何も天然石に限らず、ジャケットやバッグや服なんかからも出ています。
もちろん、人間も動物も発していますね。
オーラとは、また別のものです。

「石の振動」が比較的わかりやすい石は、ルチルクォーツ、ルビー、ロードクロサイト、オパールなどの、パワーが強いと一般的に言われている石で、大きめのタンブルとかポイントとか丸球なんかがわかりやすいと思います。
左手の方が敏感なので、左手で何気なく握っていると、「あれ?」っていう感覚が伝わってきます。携帯電話の音消し状態の、あの、ブルブルって感じの振動が似ていると思います。
ルチルクォーツなんかは、時々「ビリッ」みたいな静電気のような、こっちがびっくりするような反応があったりしますので、私は一時期ルチルのポイントには注意して触ってました。

「気」に関しては、自分の指から出ている「気」が、気を見る練習としては、いちばんやりやすいと思います。
 指先を、じっと見つめるというよりは、ぼんやり見ていると、なんとな~く「立ち昇る筋状の気体」が見えてくると思います。
 私は、こっちが先でした。

 石の「気」を、はじめて見たのは、徹夜明けの明け方でしたので、始めは「ぢぶん、疲れてるんだわ。」と思いました。そういう「幻影」とか「幽霊」とか見たことない体質でしたので、これは、自分はちょっと頭がおかしくなったのかな?と感じました。
(幽霊ってのは、未だに見たことがないですね。幸いにも。ちなみに、旦那は時々見てしまう人ですね。邪気というものも感じる人なので、とても便利です。しかし、そういう人でも、「石の気」「石のチカラ」とか「霊界」なんてものは信じなかったりします。本当に、人はそれぞれです。)

 しかしそれ以来は、平常時でも普通に見えるようになり、どういう時に「石が活性化しているか」まで、なんとな~くですが、わかるようになりました。
 「浄化すると石が喜ぶ」とか言いますけれど、その浄化も無理にすることはないです。 「面倒くさいけど、浄化しなきゃ」って義務感でやるような浄化なら、しないほうがいいように思います。
 願いが叶わないのは、浄化が足りないからだ、とか、ネガティブな感覚で接しても、はっきり言って、彼らは反応しませんね。
 そもそも、「石は願いを叶える」というのは、根本的には間違いです。
 「運を良くする」というのも、人間側の都合で考えているものと、「いい運、わるい運」は、彼らの定義とはどうやら違うようなので、「自分の思ったとおりにコトが運ぶこと」を、「運がいい」と捉えているのであれば、若干違うかもしれません。

 石は「モノ」には違いないのですが、製造者を考えると、普通に人間が作ったものと、ちょっと違うかもしれない、っていうのは、分かると思います。
 よく、太古の昔から云々の「神秘」と表現されている類のものですが、要は製造者は、人間ぢゃない、っていうことだけは、誰もが知っていると思うので。

 なので、粗末に扱っていいモノではありませんが、あまりに「偶像崇拝」するのもどうかと思います。
 水晶の形状なんかに見られる、妄信的な偶像崇拝が一部には見られますけれど、まぁ、「使いこなす」にはどのみち技術が必要ですし。
 意図的に意味を持った水晶を探すよりも、たまたま買った水晶の形状が、調べてみたら「あれ?これはチャネリングだな」とか「イシスじゃん」っていうほうが、喜び度合いは大きいものです。自分が意図しないところにある幸福感を教えてもらえる経験になります。自分に、「今必要なもの」のサインにもなりますしね。

 単純に、「見たり、感じたり」だけなら、誰でも出来ます。
 身体を浄化すればいいのだと思います。
 浄化のために石を持っているんだ、と、思われるかもしれませんが、石に浄化を頼らなくても、誰にでもできる浄化があります。
 まず、肉を食べないこと。
 なるべく白米ではなく、玄米、五部搗き米、五穀を食べる。
 旬の野菜を食べる。
 加工食品は、食べない。
 食事の量を、腹八分にする。
 一日二食にする。
 オカズは二品。おひたしとか、シンプルなものを。お味噌汁は毎日。
 牛乳や乳製品、漂白砂糖を使ったものは、食べない。
・・・あたりを、実行すると、身体が喜びます。
 
 これを一気にやるのは無理だと思いますが、「なるべく心がける」だけでも、変わってくると思います。
 私自身も、これは百パーセントは実行できていないですし、時々、チョコレートとか食べますし。
 でも、「意図的に肉を食べない」ことを意識して、実際にほとんど食べない生活となってからは、3年を過ぎたくらいになりますけど、超虚弱体質で、年に3回くらいは豪勢な風邪をひいていた私が、最後に風邪をひいたのはいつだっけ?、というくらいになっています。
 「疲れたー。」っていう言葉を口にしなくなりました。
 便秘なども、まったくなくなりました。
 世の中に出回っているビタミン剤の類も、以前はよく摂取していましたけど、いっさいそういうものも摂っていません。
 
 食生活の改善が、何よりの体質改善で、体質改善というベースがあって、私の場合は、それらの物質の発する「気」や「気質」に対して敏感になってきたことは確かです。

 「食べることが大好き」で「食べることが生きがい」っていう人には、つらいかもしれませんねー。私の場合は、たまたまですが、「食べること」への執着度合いっていうのが、自分が生きて生活している日常の中では三番目くらいの位置でしたので、わりとすんなり、できたのかもしれません。
 もうひとつ、「これもそうだろうな」という、体質改善の方法がありますけど、長くなってしまったので、また今度にします。


この記事のシェア&ツイートfacebookでシェアTweetする

カテゴリ :  ちょっとスピリチュアルな話
follow links FB pageGoogle+Go to top of page ページの上へ移動

外側から見たStone業界

2006年02月26日 (日) 12 : 54
これは私が、あくまでも私個人の感じ方なので、真偽のほどは定かではない話。
なんとなく、以前から「似てる」と思っていた。
不動産業界と、石業界って、なんか似てるというか、共通項が多い。

扱う金額の大きさの違いはあれど、「世界にひとつしかない」を謳う点。
土地も建物も確かに一点ものなのだ。そこにしかない。
マンションだって、部屋のちょっとした向き、階数が変われば、そこに広がる景色は変わる。
そして、その価格の微妙な点。これも、実は明確な基準はない。
別に、売主は売りたい値段で売っていいのだ。
慣習で、家賃相場で、価格が決まる、「まわりがこのくらいだから、うちも」という、値付けを決めるやり方で、これが周辺相場から大きく逸脱して「安い」価格にすることを、不動産屋は嫌う。ひとつこういうものが出てくると、価格の維持、付加価値の維持が困難になる、というのも、そのひとつの理由。

天然石の価格も、似たようなところがある。
「石のグレードが高いモノ」「産出量が少ないもの」に対する、まったくの人間がどうすることもできない希少性部分を謳った、価格維持はなされている。
そして、金相場のようには動かないけれど、たとえば同じ卸売店で売る似たようなグレードのものであっても、そのときそのときの時価という要因、プラス、為替も多少関係してくる。
しかし、そういう大きな外的要因抜きに、その卸価格、つまり原材料価格が流動的であることとは別に、実際に二次的に何か形になった時の価格というものが、完全に「まったくの自由」であるという点では、不動産以上に、曖昧だ。
食べ物屋さんが、「野菜の価格が上がったから」って、いちいちメニューの価格を仕入れ相場によって変えることが、慣習的に難しいことに比べると、石とか不動産とかって、価格の固定感を買い手側に与えていないぶん、かなり商売に流動性を持たせることができる。
これは、やはり、「それしかない」と思わせることが、ある程度までは可能な「モノ」だからなのだろうと感じる。
「それしかない」という点では、音楽とか小説とか映画だって同じようなものではあるが、こっちは、「モノ」でないぶん、まだまだ弱い。
(でも発売されてから時間が経って、稀少性が認められたものは、オークションなんかではびっくりするような値付けになったりもするので、あながち、モノでなくても、人はその「稀少性」というものにとても弱いのだ、の法則が通用しないわけではない)

理屈じゃない世界に動かされている「モノ」。
そういう点と、その理屈じゃないものの周辺に流れる、ちょっとうさん臭い空気感が、とてもよく似ている業界だと思う。

そして、なんとなく「安かろう、悪かろう」な感じがする点も似ている。
その「安くても悪いものじゃないんですよ」を謳ったヒューザーがあの始末なので、「やっぱり安いには安い訳がある」という感覚を、より買い手側に植え付けるには、他の不動産屋にとってはかなりの好材料を提供したことになる。

でも、「高いからいい、というわけではない」モノが、相変わらず混在していることを、買い手は忘れてはいけない。
実際、石がらみのアクセサリーほど、その価格の根拠がよく分からない商品はないのだ。その根拠、付加価値というものに、共鳴した人が吸い寄せられて、それを手にするわけだから、それが、いい、悪い、ではないけれど。

なんで私がこんなことをぼやいているのかというと、ネットで、「アベンチュリン&水晶ピアス、6800円」なんて商品を見つけちゃったからだ。
これには、少し呆れるを通り越した感覚で、「ヲイヲイ、680円の間違いじゃないの?」と、つっこんでしまった。
せめて、パーツの材料費を考えても、1000円がいいところだと思う。
だって、石じたいも特別なにか素晴らしいアベンチュリンってわけじゃないの。
6mm玉1個である。
でもま、これ買う人はまさかいないよなー、と私は思うのだけれど、世の中にはそういうのを買う人もいるから、こういう値付けがあるのだろう。
うーん。ますます、やっぱり不動産業界と同じ匂いが漂うね。


この記事のシェア&ツイートfacebookでシェアTweetする

カテゴリ :  石のホント or はてな?
follow links FB pageGoogle+Go to top of page ページの上へ移動

ページの上へ移動
Go to top of page