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2006年01月22日の記事のリスト

カルマについて3

2006年01月22日 (日) 23 : 10
カルマというものの根拠、由来をいくら紐解いていって「少しわかったような気になって」前向きになれても、
肝心の自分の「今」という現実に向き合ってみると、その包囲網の凄さには、とにかく圧倒されるばかり。

気付くと、ぺしゃんこな、耳を塞ぎたがっている自分がいます。
気が抜けて、どうしようもない自分。
無力な、口下手な、弱くてどうしようもない自分。

私も、常にそういう自分との揺り戻しの毎日です。
一進一退どころか、「以前より悪くなっている」ような気さえするほど、自分が悪化していることもあります。

光を知らなければ知らないで良かったんじゃないか・・・
なまじ、そんなものがあることを知っても、現実には何の役にも立たないじゃないか・・・何も感じないようにして生きていったほうがラクなのではないだろうか・・・

主に、これは、「現実世界で人と対峙する時」に起こる心のブレです。
人間、それは、家族であったり、仕事で関わる人であったり、すれ違うだけの人であったり、さまざまですが、「石や植物や動物、空や海や大地」と接するようなわけにはいきません。

出会う人はすべて、「カルマ」「縁」で結ばれている人。
この世で自分が何と出会い、何を勉強するのか、を、事前に決めてきた、その魂の勉強のために、自分に課題を与えてくれている人たち。
それが分かっていても、時には、その相対が苦しくて涙することもあります。
なぁなぁで対峙できない人であれば、本当につらいですよね。
受け流すこともできない、受け取って受け入れているつもりでも、それが相手にとっての100%のやり方に映らない場合は、特に難しい。

そして、それはその向かう相手にとってもカルマを解消したことにならず、つらさの堂堂巡りになる。
新たなカルマのコレクションを増やしてしまうことになあってしまうことへの恐れ。怒り。「どうして自分は自分なのか」の信頼感の一瞬の希薄化。
その渦が加速し、大きくなっていく様が見えてしまう。
とてもやりきれないことです。

成す術を持たない自分。
ここをどう超えれば、自分はいいのだろうか・・・
苦しい時、私は、石に聞いてみることもします。
でも、石が答えを出してくれるわけではありません。
答えを出すのは、自分自身なので。

ただ、こういうことがある時。
今までの経験上ですが、確実に「飛躍」(小さいジャンプかもしれませんが)のチャンスではあるのです。
石も、それを知っていて、黙っている。
コトバは喋らない。けれど、「聞いて、ヒントならいくらでも。」
そう言っています。

ここで、後を向くか、前を向くか。
問いただして、問いただして、問いただして。
それをしないと、いつまでたっても道は開けないことを、本当は、自分は分かっている。
その「苦心困難」にその時は見える道を、選ぶのも避けるのも、進むのは自分なのです。

そして、この天地宇宙の法則の物凄いところは、「避けても」必ずその課題は、姿形を変えてまた巡ってくること。
だからどうせなら、「軽いうちに」何でもさっさと済ましたほうが良いのです。
風邪でも何でも、そうですよね。
あ、風邪引きそうだな、と思ったときにすぐ養生すれば寝込む風邪にはならないけれど、そのまま無理してると、結局長引く。
これと、同じなんですよね。


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カテゴリ :  ちょっとスピリチュアルな話
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