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カルマについて2

2006年01月13日 (金) 16 : 33
カルマってものが、人間にはどうやらあるらしい、ってところから、世の中を見つめ、自分の今いる環境や状況を見つめ直していくと、けっこう合点がいくことが数多い、っていうのは、なんとなく分かると思う。

で、ここで、人間的感情として湧き起こって当然のものが、「カルマが少なそうな人っていいよなー。なんで、自分にはこんなカルマがへばりついておるのじゃ。」という、どこにぶつければいいのやらよく分からない、悶々とした不服感、不足感、だ。
これは、回りを見渡せば見渡すほど、世の中の仕組みを知れば知るほど、お勉強すればするほど、体得していく感情だ。

そうやって、「自分に足りていないもの」ばかりに目が向き、なんと、実は生きながらにして「“不満”という名前の新しいカルマを積み増していってしまう」というスパイラルに陥ってしまうことも、しばしばだ。

世の中では、「前向きな人」いわゆる「なるべくモノを善いように考えるクセの出来上がっている人」を、褒め称える傾向にあるし、実際そういう人間が“成功”している例が取り上げられることは数が多いから目立つし、そういった「ポジティブシンキング」系の、自己啓発を促すような本などもゴマンと出版されているし、きっと、そりゃーこうすればうまくいくだろうよ、と、ウンウン、と頷きながら、“前向きに”書かれてある文章を読んで気持は高揚したりもするのだけど、いざ、「自分自身の現実の世界」に立ち返った時には、その自分を包んでいた高揚感がまたたく間にしおれている、って経験をされたことはないでしょうか?

向上心はあるのに、何か、続かない。継続感が持てない。

なぜなら、それは「自分自身の声」を聞こうとしていないからなんですわ。

私たちが持つ向上心や自分なりの成功への夢などは、生まれてから見聞きして、体験してきたことの中から、感覚的に選び取っているものなのだけど、もちろん、それは素晴らしいことなんだけど、多分にそこには「本来の自分の魂の軌道から、かなり外れている願望」なんかも含まれていたりする。

本来の魂が求めているものなんて、知ったら、がっかりするくらいシンプルなことで、つまり「善き種を撒き、持って生まれた課題であるカルマに気付き、それを解放してあげる、そして、善き人となる向上心を持ち続け、回りの人を幸せにしていくこと」くらいのもの。
今の世の中では、こういう地味な課題をテーマに生きている人は、とても少数だと思うし、そもそも、自分のために生きるのがもう精一杯、で、疲れちゃってる人も多い。
こういう、人生の意義だの何だのに、目を向けちゃって、なるべくそれに沿った生き方をしていこうと思うと、「とたんに食い詰める可能性」という恐怖感に、潜在的に支配されちゃっていたりする。

精神世界系では、ワンネスだとか、根源意識だとか、宇宙との一体化だとか、これまた「自分の現実とそれがどうクロスするのだ?」という視点からでは、なかなか想像の及ばない領域の話がてんこ盛りで、今ひとつ、「愛が大事」と分かっていても、その「愛」の表現ですら、千差万別。

なぜなら、それは「自分自身の声」を聞こうとしていないからなんですわ。

私が、私に聞いてみて、今のところやっていることは、
まず、カルマをなんとかしよう、と思わないこと。
自分のカルマと、闘わない。闘わなくても、必要な時必要な形で、いつも目の前に現れてくるので、もう、受け入れている。

一見、これは「諦め」にも見えるでしょ。
しかし私は諦めていないのだ。しっかりカルマを認識したら、そこですぐにその出所に立ち返り、なるほど、ああだったからこうなったのか、という検証作業を、必ず、する。
これは、けっこうやっていると面白いです。
自分の一連の人生が、映画のように物語性を帯びていて、なんとなーく「仕組まれたもの」感が生まれてくる。
「そうかー。ここでは、これに気付け、ってことだったのかー。まったく分かんなかったなー。はっはっは。」
と、これは実際にある映画ですが、「トゥルーマン・ショー」を見ている気持になってくる。

この気持を、「神の目線」であれば、どうか?
というところへ、広げていく。
この一連の作業に、パワーストーンたちというのは、本当にお役立ちグッズなのだ。


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カテゴリ :  ちょっとスピリチュアルな話
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