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2005年10月の記事のリスト

せっかく始めたブログですけど。。。

2005年10月22日 (土) 20 : 59
せっかく始めた「パワーストーン」について、のブログなんですけれど、諸事情により、ここで続けることができなくなってしまいました。
とても残念です。
でも、必ずいつかまた、開始します。
ご縁があれば、お会いできることを楽しみにしています。
Good-luck. See ya!


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姿を消す石たち

2005年10月22日 (土) 12 : 41
姿を消す石、つまり、世間でいう「紛失」です。
「どっかにいっちゃった~。でもどこにいったんだろう?」
という、よくある話です。

外出先に持っていって無くす、家の中で無くす、パターンは色々ですが、時々ひょんなことろから出てくる時もあります。たいてい、「なぜに?(こんなところにしまったり置いたりした記憶はない)」という場所からだったりします。

あと、紛失でも、自分が落とした場所をよく知っていて(落とした瞬間を、きっちり目で見ている)その付近を隈なく探すのですが、どうしても見つからなくなってしまうもの、いと不思議現象もあります。
つい最近、このパターンで、アイオライトとサファイヤのピアスを片方無くしたのですが、落とした瞬間、落ちた場所をこの目で目撃しているのに、どうしても出てこないのです。その時、「とうとう羅針盤を失ったか・・・」と、ネガティブマインドになりかけたのですが、まだ方耳分残っているし、私は左にふたつ、右にひとつ、ピアス穴を開けているので、こういうハンパな片耳オンリーピアスも、必要といえば必要なのです。
「これは、このピアスをいつも左のピアス穴の多い耳にしてなさい」というメッセージなのかな・・・と、勝手に解釈しました。

ま、基本的に、無くすケースというのは、パワーストーン好きの人たちの間では、圧倒的に「縁がなかった」「役目終了」「自分のための石ではなかった」などのケースが想定されているようですけれど、一歩つっこんで考えると、いかにその紛失した時点での自分に対する絶妙のサインだったか、ということが、よく分かります。

姿を消す、っていうのは、人間の場合だと、色々意味ありますけど、まぁたいていは、「関わるのが嫌になっちゃったから」とか、「苦手な人の姿を遠くから見かけると、意味も無く進路変更したりして、気がつかないフリをしてその人を避ける」などの、行動を起こしたりしますが、それは人間の持つかな~りネガティヴ系自発的エゴによる行動パターンかと思われるのですが、石の場合は、そういうのとは少し違うように感じます。

私は、石との出会いというのは、天の采配が大きく関与している、と感じている部分があるので、その縁は、出会った時点では「私に必要なものだから、私の手元にやってきている」という事実があるのですが、人間は変わります。いい意味でも、悪い意味でも。

私は過去に、ダイヤモンドの指輪を、ふたつ失いました。
ひとつは、本当にここに置いてあったのに、どこをどう探しても見つからない、というケース。もうひとつは、お金に困って質屋に入れたケース。
取得時の金額にすると、合計で80万円くらい。
これは、へこみました。
その頃は、今のように、パワーストーンに関する含蓄や意味には無頓着な人間で、単純にアクセサリーとしての宝石好きだったのですが、今、その頃の自分を振り返ってみると、確かにダイヤモンドなど身につける資格の無い生き方をしていました。
天は、そんな生き方をしていると、大切なものをどんどん無くすよ、ということを、そういう石たちを通して私に教えてくれていたのだと思います。

その頃は、やたら、私の前から色々な物質がなくなっていく時期でした。
友だちが、誕生日の度ごとにプレゼントしてくれた、4℃のルビーの指輪も、やはりどこで紛失したのかわからないまま、どこをどう探しても出てこない現象、3個とも謎のまま姿を消しました。後に、ルビーについて、色々文献を調べてみると、ルビーというのは力がある石ですが、持ち主のエゴを相当嫌う面があるようで、そのなくした時期というのは、ダイヤモンドをなくした時期とほとんどかぶるんですけど、エゴイスト街道まっしぐらの時期でした。

そんな風に、石たちというのは、持ち主の生き方に呼応して存在する性格が、他のモノ、たとえば洋服とかバッグとかも本来そういう性質を持ちますが、よりその傾向が強いものという感覚があります。

あ、私は、その頃、真珠もなくしてますよ。そういえば。
なんかねー、高く購入したものがどんどん消えていく時期だったんですよね。
(石じゃないけど、ジャン・ジャンセンという画家の絵も売りました。)
後に、それらの高価な宝石の紛失事件は、お金に象徴される、いわゆる全財産を失う、ということの前哨戦でもあったことに、ずいぶん後になって、その頃の自分を振り返って反省するのですが、天は、何の前触もなく私たち人間を突然苦しめたりすることなどなく、必ず、石に代表されるような天の息がかかったものを利用して、その人に分かりやすいように「サイン」をくれているのです。

私は、こういうかつて私の手元にあった石たちの紛失のことを振り返ると、そこにある、人智を越えた大きな「愛」に、頭が下がる思いで、今は感謝の二文字しか浮かびません。そして、過去のその頃の自分を猛省するとともに、そんな風に常に「転ばぬ先の杖」を必ず用意してくれている存在がいる、ということも確信しています。


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欠ける石たち

2005年10月21日 (金) 21 : 27
パワーストーンと呼ばれる石たちは、変化します、ということを書きました。
その変化の中には、破損も含まれます。
鉱物には、モース硬度といって、どのくらいの硬さ(この場合傷がつきにくいかどうかが基準)を要する鉱物なのかが、数値で表されています。
最強は、ダイヤモンドの「10」。
ダイヤモンドが、永遠性を示す理由がよくわかりますよね。
(「石の意味」と呼ばれるものは、その石の持つ外見的特徴、色、組成などから、さもありなん、と頷ける意味付けをされているものが多数あります。だから、「この石にはどんな意味があるのだろう?」と、始めのうちは結構調べまくるのですが、たくさんの石の外見や組成などを知るようになってくると、大雑把なところでは、おそらくこんな感じだろうな、ということがだんだん分かってくるようになります)

オカルト的な意味合いで、石が割れる、欠ける、ということを「何か悪いことが起こる前兆を石が知らせてくれている」とか、「身代わりになってくれた」とか捉える傾向がありますけど、何でもかんでも、じゃないように思います。
モース硬度の低い石というのは、ただでさえ傷つきやすいですし、複雑な組成の石、つまり色々な石の成分の複合体のような石(わかりやすいところでは、ラピスラズリ。モース硬度は、5から5.5くらいですが、組成がカルサイト、ソーダライト、パイライトの複合体です)というのは、環境の変化、たとえば温度変化や水などに弱い。外部的な変化に反応しやすい石です。
(まぁ、それだけに、「持つ人の波動」つまり、精神状態にも反応しやすい、ということの根拠にもなりそうですけどね。)
だから、そういう安定していない石を、自分がどう扱っていたか?を、まず振り返る方が先だと思います。

石が、何もしていない、落としたり乱暴に扱ったりなどいっさいしていないのに、真っ二つに、たとえば丸球などが割れた、などの経験は、私はまだしたことはありません。
(たとえば、マラカイトという緑の石は、持ち主に危険が迫ると真っ二つに割れて、それを知らせる。と言われています。マラカイトを見ていると、確かにそういう持ち主を全力で守るようなところを感じる場面はしばしばありますけれど、まだその「真っ二つ」には、幸か不幸か遭遇していないです。マラカイトを、ストレスを感じやすい人が持つと、艶がなくなりパサパサになります。これは、ある種のバロメーターと言えますね。「自分はストレスなど感じておらん!」という強気の旦那様を持つ奥様とか、一度旦那に身に付けさせてみると分かりますよ。いかに無理をしているか。)
何も思い当たるような粗雑な扱いをしていないのに、真っ二つ、っていうのは、確かに意味があると思っていいと思います。でも、それは極端に怖がる必要のある話ではないと思います。石が、そんなことまでして姿を変えるからには、大事な何かをきっと自分は見落としているのだろう、ということを知らせてくれているのだと、石に感謝こそすれ、怖がるのはナンセンスだと私は感じます。

石は、本当に健気です。
時々、本当にその身を傷つけながら、色々なことを知らせてくれるのですから。
そういう時、あらためて頬擦りしちゃいたい愛しさを感じます。

「あること」に対する偏見、というのかしら、でも、大事なことで、自分もなんとなく気付いているのだけどなんとなく好きになれないモノとか、ありませんか?
自分のほうが正しい、とまでは言わないけれど、同じようなことを言ったり思ったりしているはずなのに、他の意見とか主張にどうしても嫌悪感を感じてしまったり、とか。

私にも、あります。
「精神世界」と主に呼ばれるカテゴリーに付随する表現の仕方などですね。
たとえば、パワーストーンなどは、べったべたに、その手合いの表現のための道具にされているようなところがあって、なんだかなー、、、と、思っていたりもするのです。
なんか、「頭でっかち」な印象がしていたのですね。
だから、自分の表現でブログやってみようと思ったわけですし。

しかし、その手の想念を扱う、「思い」とか「心」という形のない世界も色々です。
だいたい、自分自身だって、まさに「形の無い音楽」の世界を形作るための「歌詞」というパートを担う仕事をしてきたわけですしね。

で、あるきっかけを経て、その自分の中にあった偏見というか嫌悪感とかが、すっと消えていったことがあったのです。
そもそも、頭でっかちだったのは、まさに自分のことでもあったわけです。
すっと、自分の中に、そういう嫌悪感覚が消えていく(精神世界系では「手放す」とか言いますよね)のは、とても快感でしたね。自分の器が広がるわけですし。

その日、さぁ寝よう、という時に、うっかり大量の石を落っことしてしまったのです。
「あー、絶対欠けたり割れたりしてるはず、とほほ。」
と思いながら、広い集めました。
その中で、明らかに形状を変えてしまった石がありました。
グリーンのカルサイトで、真四角のサイコロの上の角に突起がある、凸形の突起部分が角にあるみたいな形だったんですけど、その出っぱっていた「カド」部分が取れて、真四角になったんです。(ちなみに、カルサイトというのは、モース硬度3。菱面体方向に割れる特性を持っています。めちゃめちゃ傷つきやすい石です)

うわ。と思いました。
私はこれを見て、グリーンカルサイトが「心のカドが取れて良かったね。」と、姿を変えて言ってくれているように感じました。

こういうのを、世間一般では「思い込み」「気のせい」「偶然」と呼びますが、まぁそういう一面もあるでしょう。
私が言いたかったことは、「石が欠ける」っていうことを、よく恐れの方向へ持っていくようなケースもありますけど、考え様によってはそんなことじゃないケースだってあるのですから・・・という一例を示したかった、ということです。


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