「悪もお役」ということについて。

2006年05月24日 (水) 00 : 41
ひふみ神示の中に、ひつくの神がおっしゃっておられる言葉の中に、「悪もお役ぞ。」というものがあります。
悪も神がさしているのだから、憎んではならん、と。

「何もかも存在許されてゐるものは、それだけの用あるからぞ。近目で見るから、善ぢゃ悪ぢゃと騒ぎまわるのぞ。」

「我がなくてはならん、我があってはならず、よくこの神示読めと申すのぞ。悪はあるが無いのざぞ、善はあるがないのざぞ、この道理分かりたらそれが善人だぞ。千人力の人が善人であるぞ、お人よしではならんぞ、それは善人ではないのざぞ、神の臣民ではないぞ、雨の神どの風の神どのにとく御礼申せよ。」

「まことの善は悪に似ているぞ。まことの悪は善に似ているぞ、よく見分けなならんぞ、悪の大将は光輝いているのざぞ、悪人はおとなしく見えるものぞ。」

「今の臣民見て褒めるようなことは皆奥知れてゐるぞ。今の世のやり方、見れば判るであらうが、上の番頭殿悪い政治すると思ってやってゐるのではないぞ。番頭殿を悪く申すのでないぞ。よい政治しようと思ってやっているのぞ。よいと思ふ事に精出しているのざが、善だと思ふ事が善でなく、皆悪ざから、神の道が判らんから、身魂曇りてゐるから、臣民困る様な政治になるのぞ。」

「楽してよい御用しようと思ふてゐるのは悪の守護神に使はれてゐるのざぞ。」

・・・こういうもの以外にも、「悪」というものについて、書かれた箇所は、山ほどあるにはあるのですが、私自身が思うに、人間が人間の頭で「悪を定義する」ことは、おそらく不可能に近いことなのではないのだろうか・・・ということです。

精神世界系や、たとえば、石の世界なんかでもそうなのですが、よくその「善も悪もない」という部分を飛び越えた「根源はひとつ、ワンネス」であることなどが語られていますが、確かにそれはそうなのですが、一足飛びにそんな境地を目指しても、まず今この時代を生かされている私達人間には難しいのではないだろうか、と思います。
理想は理想としてそういう世界があることを知ることは大事ですけれど、そんな高い頂上に羽が生えて飛んでいけるわけではありません。

ひとりひとりが、自分の中にある「悪」「めぐり」「曇り」をまずなんとか掃除しない限りは、現実世界から「悪」がなくなることはないのですからね。
そして、なんと言っても始末が悪いのは、誰しもが自分の中にそれがある、という認識を持っていないこと、悪というものは自分の外側に別個に存在するものであり、人目に判り易い姿をしているもの(詐欺や窃盗や暴力などですね)のことだと思っている人が、どうやら多そうだ、ということに尽きると思います。人目に触れたり、それが社会的に裁かれる範囲のことではない、という知恵をつければ、人間というのはいとも簡単に悪に汲んだ生き方を知らず知らずのうちにしていることがあるのです。

だから、私はひつくの神のおっしゃる「悪もお役」というのは、それじたいが「いい、悪い」ではなく、そこに関わった人間ひとりひとりが、「さて、自分はどうか?」ということを振り返り、内省し、気付きを得るためのはたらきをしてくれている象徴としての存在でもあり、一種の有難い存在でもある、ということを悟れ、ということなのかな、と考えています。
何しろ、悪もお役、と言いながらも、その悪に汲む心や行動そのものには、厳しい言葉が満載ですので。

「今の仕事、悪いと知りつつ行うは尚悪い」そうです。
神様には、人間の言うような「方便」「理屈」はないのです。
この考え方に基づくと、世の中から確実に消えていく業態、職業は、数知れずではないかと思います。
よく属している組織や会社などの悪慣習を知りながらも、その仕事に従事している人の言い分に、「生きていくためには仕方ないだろう。」という言い訳があります。また、そういう人はこうも言います。「みんなやってるじゃないか。」と。(そういう人の言う“みんな”というのは、単純に“類は友を呼ぶ”の自身の狭い範囲の世間でしかなかったり、テレビで言っていた雑誌で見た、とかいう根拠のない“みんな”なのですが)
しかし、こういう言い分は、人間社会では誤魔化せても、霊的見地からはなんのチカラも持たないようです。
「自分が生きていくためには仕方が無い」というのは、その人の「我善し」な発想なわけです。「我善し」は、つまるところ、「悪」に汲む生き方を選びやすくなるわけです。

まず、たいてい、私達人間が憤りを感じたり、相手を悪だと決め付ける心の裏には、「自分にとって都合が悪いから」という思いに起因しているのが、ほとんどのケースなのではないか、と思います。
単純に正義感が強くて、世の中の悪や不公平に対して憤りを持つ場合なども、同じです。「自分の正義感という、自分の都合に叶わない世の中」であることが、その人にとって、「悪」と映っているケースが多いように感じます。

自分の存在も含めて、この世に存在しているすべてを嬉しい愛しい素晴らしいと思える感覚、すべてが自分と繋がっていると思うその心に無理や嘘や曇りが無い感覚、これをすべての人間が持ちえた時に、「悪は居場所がなくなる」のですから、これはなかなか難儀な話だと思いますね。

今の世の中は、2012年アセンション的な見地、ひふみ神示的見地から見ると、居場所がもうすぐなくなろうとしている「悪神」が、最後のひと頑張りで、ひとりでも多くの人間の魂を道連れにしようと猛威を振るっている最中、その総仕上げ段階に入ってきているのではないのかな、という気がします。

日本の国は「雛型」ということですから、ここ近年「二極化」「格差」「一部の金持ちと大半の貧乏」という言葉が、マスコミが取り上げる経済ニュースなどから刷り込まれていますが、これも時節を現す象徴的な側面を持っていて、実は、人間の身魂じたいにも、「一部の身魂掃除を進めている人たちと、大半の何もそういうことをしない、その必要性すら感じていない人たち」という二極化が加速しているように感じる、今日この頃です。

神様に任せきる、自分の我欲「我善し」の心を捨てる、といっても、それで「懐手して見物」していてはいけないそうです。
身欲は捨てても、神様の弥栄の世界を実現するには、それぞれに役割、仕事があるわけでして、だから、「絵描きになれ、大工になれ、百姓になれ」「なんにでもなれるようにしてあるではないか」という、ひつくの神の言葉は、来る弥栄の世界に参加するための、最低限の条件でもあるのかと思います。何しろ、「自分自身が仕事なのだから、失業はないぞ」とまで、おっしゃっておられるので。

仕事、といっても、この世的な見方からだけの仕事だけが仕事ではないと思います。いわゆる、お金の儲かる仕事のことですね。それは「稼ぐ」と言い、身魂磨きの行としての「仕事」になっていない人も多いのではないかと思います。
よく、女子供を食わせるためと称して、頑張って働くお父さんを褒めるような風潮もありますが、それだけのために我慢して仕事をしているのであれば、それは本質的にはひつくの神のいう「仕事=行」ではないように思います。ただの「我善し」です。
何しろ、「働かざるもの食ふべからず」を、「方便」だとおっしゃるひつく神です。
働かない奴も食わしてやれよ、金儲けしたい奴にはさしてやれよ、それが、神様の言い分なのです。
人間の言うところの、平等だの自由だの、それは悪平等であり悪自由なんだそうです。

私は、「ある程度のことまでなら自分にできない仕事はない」というのが、心のどこかで信条になっているようなところがあるので、なんとな~く振り返ってみると、基本的に常に職場が変わるたびに「今までやったことがないことが今の仕事」になっています・・・。
普通の転職って、何かと自分がやってきたことに関連した分野の中をうろうろするのが定番だと思うんですけど、私の場合、まずそういう風にコトが運ばないんですよね。(まぁ、たいしたことをしてきていないということの裏返しでもありますがね^^。)
それも凄い話ですが、もうそろそろ、今の世の中的な「ステップアップ」っぽさを経験してみたいのですが・・・。生きているうちに経験できるかしら?
いやー、ホントウに、なんて時代に生まれてきたのだろうと、つくづく思いますね。



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カテゴリ :  私にとっての2012年
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