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2015年09月25日の記事のリスト

9月のちょっとだけよ♪(予告)です。其の三。

2015年09月25日 (金) 00 : 21


昨日は、我が家のワンコの三歳のバースディでした。
本当は彼女が大好きな代々木公園に連れて行ってあげようかと思っていたのだけど、天気が今ひとつなので。その予定はナシに。
月末新作の準備も並行してしなければなので、まぁ、ちょっと我慢してもらおうかな、という感じ。

先代の時には、実は、それほど優秀な飼い主さんとはとても言えなかった私。
お散歩も、外を歩くことは決して嫌いじゃなくて好きなことは知っていたけれど、しっかり定期的にちゃんとしてあげてはいなかったし、連れて行ったとしても、せいぜいが近所を歩くだけ。
もちろん先代のことが大好きだったし、毎日「可愛い」って本当に思っていたから、「可愛い」と言葉に発しない日は一日もなかったんじゃないかな、くらいに愛しい大事な存在ではあったんだけど、気にかけているようで、わりと自分を優先しているところも目立っていたと思う。

昔、先代をお留守番させて、家人とふたりで新宿に出掛けている時に、東京で震度5でしたかね、わりと大きめの地震があったことがあったんですよ。さすがに、先代が無事か心配になり、すぐにその時は慌ててタクシーで飛んで帰りましたけれど。
部屋にはダンボールとか、少し落っこちていたりしている、揺れたんだな~、の痕跡がありましたが。先代は、きょとん、とした顔で、「あれ? 今日は早いね。どうしたの?」風な顔で出迎えてくれました。
そんなふうな飄々としたマイペースなところもある先代でしたから(実際に、、猫じゃないか? と思われるような、自分の好きなところで好きに寝ていたい系の行動もするタイプだったので)、お留守番も、連れて行かなくても平気だろう、って。
家にいる時は、いっしょにいることそのものが自然といえば自然で、そして当たり前に慣れすぎていて。
偏食なんかもしない、無駄吠えなんかも全然しない、甘えん坊ではあったけれど、本当に手のかからないコで、15歳で慢性腎不全になっていると知る時まで、ずっと健康で元気でいることがまるで当たり前のようにいつも側にいてくれたから、なんていうんでしょうか、それに甘えていましたよね。
彼女は、私の仕事を理解してくれていたのだと思うけれど。亡くなった日も、月末の出品日の翌日でしたから。すごいタイミングを選んだものだよなぁ、、、と感心してしまう、絶妙な日だった、って今でも思いますね。

そういう経験もあって、今のコには、考えてみると、けっこう猫かわいがりではないけれど、「このコが楽しいと感じている笑顔をいっぱい作ってあげたいな」っていう、前はそうできていなかった自分だったな、って振り返ると思う感覚もあって。
だいたい、代々木公園も、近いのに、先代が生きていた頃はですね、たぶん、数えるほどしか連れて行ってあげてなかった自分だったんですよね。



失ってわかる、失うと知った時からわかってくる、大切さ、というのが、あります。
私は先代がもちろん年齢なりの病気という面もあったけれど、治らない病気です、って獣医さんに宣告されて以降、それまでの自分を巻き返すかのように、心のなかは常に、先代のことでいっぱいで、毎日いっしょにいられることがどれだけ大切だったか、に気が付きました。
だから、彼女に、逝って欲しくなくて、一日でも長くいっしょにいたくて、延々、17歳まで延命治療続けたのも、やっぱり自分のためだったのかなぁ、そんなものにも、付きあってもらっちゃったんだなぁ、という風にも、年月を経て、思わないでもない面もありましたね。

今のコをお迎えしてから、私は「優良飼い主さん気取り」で^^、そうやって以前よりはなるべくマメにお散歩を心がけていますが、最初の内はね、いっしょにいて楽しくて、いっしょに広い公園走ったり、あたしの膝の上でお日様の光を浴びてじっとしている時も、すごくリラックスしていて嬉しそうな表情を見るのもやっぱり嬉しくて、私自身も、楽しいなぁ! って気持ちもありながら、そのかたわらで、なんで、前はこんなにカンタンにやろうと思えばいくらでもできた幸せになれることを、先代の時には自分はいつも習慣にしてなかったのかな、っていう、ものすごい後悔の気持ちもね、いっしょに溢れてきていたんですよ。

とても複雑でした。今のコといっしょにいて、とても幸福感を感じている自分が、同時に、先代といっしょに同じようにできなかったことを後悔してしまう時。しかしながら、それは今のコを愛する気持ちを減じさせるものではないですし、それはそれで今とても大切な時間であることを知っている自分もいて。私が楽しいと思ってしまう自分を悲しがれば、それは今のコを同時に悲しませることにもなります。

それでも、楽しいのに、つらい。
幸せなのに、つらくて悲しくてしょうがない。
その正反対な思いを同時に持つことを、無理やり払拭する、誤魔化すつもりは、自分にはありませんでした。
どちらも、常に感じるのであれば、それはそれで、そういう自分でずっといようと思いました。
(これはですね、、、たぶん、これでも多少は^^長年スピリチュアリティをお勉強してきている身ですので。「自分のこのつらさを誰かになんとかして欲しい」的な方向には疲弊していかないくらいには、自分が感じていること、状態に関して、見つめようとしてみるくらいの冷静さというのか、それはあったんではないかと思います。まぁ、じゃないとね~。何年、「石は凄いよ!! サポートしてくれるよ!!」って^^人に言い続けてるんだよ、って話にもなりますよね^^。感情は蓋しないで、全部感じきる。嘘つかない。もし耐えられないなら、石が助けてくれる。そういう時の見方でもあるからね、石たちは)

ここに先代もいたらな。でも、いない。自分が彼女が生きている時に、17年も生きてくれていたのに、常にこうして、今このコにできているように、本当はもっとできたはずなのに、楽しい経験をたくさんいっしょにしてあげられなかったことは、もう変えられないんだな、っていうことが悔しくて悲しい。
過去は変えられない。過ぎたことは、事実は変えられない。どれだけあとから美辞麗句で飾ろうとも、自分がしてきたことそのものは、変えることができない。



私が悲しかったのは、もちろん、ここにもう先代がいない、というその事実でもあったのだけど、結局後悔していたのは、「自分ができなかったこと、じゅうぶんに愛情を行動で示していなかったこと」のほうなんですよね。
悲しみ、ってどこまでも、そういう性質のものなんです。

そういう時に、空に、雲の姿を借りて、出現してくれていた先代の顔は、いっつも決まって満面の笑顔で。
私を慰めるかのように、身体を失ってもなお、あたしは、彼女に慰められてる、情けない弱っちい存在なんだ、と、それがまた悲しいような、でも、たとえ雲であっても、出現してくれている時というのは、やっぱり嬉しかったんですよね。
ブログでも一度だけお写真掲載したことがあったと思いますけれど、「ワンコの笑顔~」ってことで。ああいう感じでの空に出現する姿は、一年くらい前まで実は時々あったんですよ。

今は、、、見なくなりました。きっと、もう私が、後悔の、自責の涙を流さなくなったからだと思います。
また、そういう後悔を私にまったく望んではいない先代であることを、のちに知ることができたから、というのもあります。
つまり、余計な心配をかけなくなった、とも言えますね。

先代には、感謝の思い、変わらず「大好きよ!」の思いだけがありますね。
こんなバカ飼い主だったのに、なんにもしてあげていなかった私を、なんの見返りもなく無償で愛してくれていた、文字通り、高次から降りてきた、いつも励まして支えてくれていたエンジェルのような存在だったと思います。
(実際に、、、人間のペットとなる縁のある動物たちは、まさに、そういった人間の指導じゃないけれど、いっしょに生活することを通じて、私たちに色々な大事なことを教えてくれる天の使いでもあります。また、人間のエゴで殺処分される犬猫たちは自らの命を、ここ三次元の浄化を兼ねる目的で、そのことをわかったうえで生まれてきている、、、というような話も、あります。肩代わりではないけれど。あまりに切ない話です。私たちは早く、彼らがそんなことをする必要がない世界を実現しなくてはなりません)





「やろうと思えばできたこと」であっても、やろうと心から思っていなかった、気づいていなかった時期には、あとからそう気づいても、その時にできていなかった自分を、あとから責める必要はないんです。

と言ってもね、なかなかね、できないんですけれどね。
なぜなら、なんだか自分に都合のいい、そうとうムシのいい話のように思えますよね、これって。

でもそうなんです。
過去にできなかった自分を責めるのではなく、「今」気づいたからできること、心からそうしたいと思って、心に正直に行動している自分でいること。
これを、気づいた時から、心がけていくこと。が大事ですね。
「こうしておけば良かった」を言わないで済む人生。それは、「今」からできるし、ある意味、そうできるタイミングだからこそ、後から気づく後悔すること、が出てくるんじゃないかな、と感じます。

実はコレが、そうできなかった過去さえも癒していく魔法です。
なぜなら、過去、現在、未来、、、というのは、実は幻想で。すべては同時存在し、影響し合い、変容し続けている、、、というのが実相。。。というような話は、聞いたことがある方もいらっしゃるかもしれませんが。私はこれは本当だと思います。



こういう時間の概念に関して、実に面白い話を、以前、聞いたことがあるんですよ。
昔、子供の頃に、河に落ちそうになった時に「危ない!!」という大人の男性の声が聞こえて、その瞬間にふわっと身体が浮いて、危うく落ちるはずだったのに? なぜか助けられた?、、、という経験をされたことのある方がいらっしゃいまして。
なんだろう、ピプノだったかなんだかワーク名は忘れましたが、その方が、その子供の頃の河に落ちそうになっている時の自分の姿を自分が観ている、回想している状態となったそうで。その時、子供だった自分を助けなくてはと、とっさに彼に向かって、思わず「危ない!!」と声を上げたのだそうです。
そして、気づいたそうです。
子供の頃に、不思議に河に落ちずに身体が空中に持ち上げられて、助けられた経験をしたあの時に、耳に確かに聞こえていた大人の男の人の声は。まさに、「今の自分の声じゃないか。」ということに。

これは、世にも奇妙な物語とかじゃ^^ありませんよ。実話です。
つまり「未来(大人)の自分」が「過去(子供)の自分」を救っていたんだ、、、という事実を知って、本人も仰天した、そういう話。
子供の頃の経験は、守護霊さんとか、天使とか、まさにそういう存在に助けられたんだ、、、という超常現象と捉えていたそうなのですが、まさか「自分が自分を助けていた」とは、、、と、びっくりしたそうですよ。



このカップリングは、「シャーマンGUIDE」と言います。
シャーマンは、特別なヒトのことではなく。
私たちはみな、自分にとっての、必要な気づきを、今ここで、望めば得ることができるシャーマンです。
自分で自分を救うことができる、天使にもなれる力を持った存在です。

気づきを得てしまうことで、七転八倒してしまうような、いたたまれないような、辛さも、味わうかもしれませんが。
私がした後悔のように、「もう取り戻せないのに」気づいたがゆえに、苦しむことも、あるかもしれませんが。

しかし、ヒトは必ず、その道を通ります。そして、自分で自分を救い出します。
何年、何十年、何百年、何千年、何万年、かかっても。(ま、時間は関係ないんですけれどね。)
悲しみも喜びも、表裏一体の、三次元。
どちらもあって、どちらも選択してこそ、わかることもあるから、その経験をしている。
すべてが貴重な、感謝の経験です。
いつまで続くのかはわかりませんが、ここでしか得られないことのために、私たちはみずから目隠しをして臨むことをよぎなくされる三次元での人間経験を重ね、その都度の人生で、ひとつひとつ囚われを外していく三次元ゲームのプレイヤーとして、ここに立っているのだと感じます。


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