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パラダイム・シフトを促す石たち

2010年03月20日 (土) 18 : 49

パワーストーンとしての石に興味を持つ心の奥底には、たぶん、意識の中にはつまるところ、このパラダイム・シフトへの欲求が潜在的にあるのではなかろうかと。
そしてそれは、人間の中には、多かれ少なかれ、誰しもがなんらかの形で持ちえるもの。


たとえ表層意識においては「変化への恐れ」があったとしても、自己の気づかない内面の自己の声ならぬ声は、私たちは日々聞かされています。
よく言われることだけど、たとえば「病気」なんかは、その最たる顕れで、恐れや自己欺瞞、その他もろもろ、さまざまに要因はあるけれども、パラダイム・シフトへの欲求を訴える内面の自己が、身体という「姿」のチカラを借りて、その声を表現している。。。という「サイン」だという。
だから、その気づきのきっかけを作ってくれている「病気」には、実は「感謝」なのだと。
しかしこの場合、病気の姿そのものに感謝し続けていても、おそらく埒があかない。
感謝し、気づいたら、「変化への意志と行動」を固めていくのは、ほかならぬ表層意識の自分以外にはないと思います。
これは、それができるようになるまでは、「飛べない跳び箱」そのものなのですが、飛べるようになると、飛べなかった頃の自分がとても幼かったこと、未熟であったことに気づき、成長した喜びに気がつきます。


昨年末に、「パワーか、フォースか」という本がおすすめ、みたいなことを書いたら、けっこうそれを読んだことがきっかけで買って読んでいらっしゃる方が多くて、いわゆる現在の自分自身のエネルギー・レベル状態にいささかショックを受けたりなさっている方もちらほら、いらっしゃる。
このての本というのは、諸刃の剣的な要素があります。
人は、ものごとをいくらでも「取り様」によって、そのエネルギーの在り様そのものを変容させるチカラを持っているため、たとえば、スピリチュアル的発想そのものにではなくとも、その語り部にいったん抱いた嫌悪感のようなものは、なかなかに拭い去ることは難しいです。
この本を読んで、少しでも説教くささを感じた場合には、いったん先へ読み進むことを中断されることをおすすめします。
時期がきたら、必ず、また読む日がやってくる。そういうタイプの本だと思います。


スピリチュアリティを標榜する人間、実は、責任重大なのです。
時々、自分も「こんなことを言える人間か?」という重さに、書いた文章を、消しては書き直し・・・になることがあります。
文字になって人様の目に入るエネルギーとなった言葉は、人様を元気付けるだけとは限らない。
上記の「パワーか、フォースか」のように、「難解」で混乱を招く場合もあるし、へたすると、いらぬマイナス感情を想起させてしまう場合だってあります。
たまたま、たったひとりの心無い(というよりも、未熟な)そういった人間に縁があっただけで、スピリチュアリズムを全否定したくなるような要素を、他人様に植え付けてしまう可能性だってあるのです。
自分は、時々、日月神示のことも書いたりするけれど、とてもじゃないが、中身の「解説書」なんて書く気になれないし、私が書いてしまうことによって、日月神示のいわんとすることの要素が、それを読んだ人に曲がって受け取られてしまう可能性を考えると、恐れ多くて、本当はこうしてその本の名前を出すことでさえ、タイミングを多少考えてもいたりするのでして。
伝えたい気持ちもありながら、自分ごときが伝えちゃいけないぜ、という気持ちがありまして。


今月の、神社庁さんの命の言葉そのもののような心境かもしれない。
「何事のおはしますかは知らねども、かたじけなさになみだこぼるる」
これは、西行法師が伊勢神宮詣出の際に、詠んだ歌だそうです。
西行法師は、伊勢神宮の名前を直接出すことを遠慮し、何がいらっしゃるのかはわかりませんが、そのありがたさに涙がこぼれる・・・と歌ったと伝えられるそうな。


これを見た時、「ああ、この〝かたじけない”という感覚。これだわ・・・・」と、自分は感じた。
スピリチュアリティを標榜する人間には、これが必要なのです。


人は、妙ちきちんな宗教に縁があっただけで、人間に備わる「敬謙な信仰心」そのものを全否定してしまうことだってあります。
「あんな人が言ってることなら、眉唾」
ではないけれど、人ひとりが接することができる人間の数は、物理的に限られているのがこの世で、「たまたま接した人間関係」のことを袖摺り合うも他生の縁、とはいうけれど、全世界のスピリチュアリズム標榜者の意見をくまなく取り入れる、見聞きすることなど、不可能な話。
だから、ある意味、そういうことを語る時、全世界を背負ったくらいの気概と、かたじけなさ、の両方を、常に持ってなきゃあかんのだと思います。
それなのに、限られた事例を見知っただけで、全世界を掌握したようなつもりになってみたりすることがある。


その反対に、実は、自分は、ただ知らないだけで、他にもっと「本当の違う真実」があるんじゃないか、と、ジプシーになってしまう、スピリチュアル探検隊となってしまう場合だってあります。
探検隊であるうちは、その高揚感が続いてさえいれば、それはそれで楽しいのだけれど、まだ探検隊なのに、いっぱしの口を利き始めてしまう場合もあります。
これも、自分のことでもありますね^^。


「で、自分はいったい何なんだろう」に結局は立ち戻ってきた時に、「まだスタートライン」にいたことに愕然としたりもするのです。
ウォーミング・アップ段階が何十年になる人もいれば、一年もかからない人、人それぞれ、で結局はかまわないのだけれど、ウォーミング・アップを済ませたら、くっちゃべっていないで、そして心細いからと同志を探したりしていないで、さっさと走り出すことをお勧めします。
走り出してからだって、いくらでも修正が利くのが、スピリチュアル道なのだと思います。


ちなみに、自分自身も、よく思うことがあるのだけど、
もともとが偏狭な性格ということもあるし^^、自分でも気がつかないうちに、ものごとをジャッジしたり、なにか特定のことに対して偏見やこだわりを持っていたりしやしないか、と、はらはらしてもいます。
石のことを説明する場合にも、自分が言葉足らずであったり、そこに牽制的要素があったりなどしないように、細心の注意を払ってはいるつもりだけれど、それでもおそらく、漏れや抜けがあるに違いないです。


石の世界なんか、実際に、石の見た目クォリティや希少性という歴然とした「差」の世界でありながらも、その価値基準は一定ではないし、スピリチュアリズムが絡んだ利権じゃないが、目に見えない「パワー(波動)の違い」なんかまで、その価値基準としてかかわっている(それは、売価に^^)世界。
この、石の波動の違い・・・というもの、たしかにあることはあるのだけれど、へんな話、石の波動がどんなにすばらしいものであっても、そこへコミットする側の態勢しだいでは、あまり付加価値どおりにコトが運ばない場合だってあります。
猫に小判、ではないけれど「そういうものだ」という認識に対して否定的な信念体系の人が、そういった石を持つ場合には、「石ころ」化するのが、石。
人は、自分の人生の中に、見たいものを見るだけです。
見たいと思っているもの、意図の中にないものを、見ても、見えていない。
それとは逆に、「過度な肯定感」にも、失望をプレゼントする場合もあります。
この場合の過度な肯定感というのは、焦りや依存。
「奉る」「奉らう」姿勢は非常に大事なのだけど、そこに「褒美」としての報いを求める心があると、見透かされるという気がします。
また、早すぎる、というのもあります。
日月神示にもあるのだけれど、「小学生に大学生のことは、わからないのが道理」というやつなんでしょうか。
私自身は、そういう意味では、以前からブログでも時々書いているけれど、石もある程度「順を追って」追っていく形態をお勧めします。
ただ、「いつまでも小学生」でいる必要もないのと、もう小学生ではないのに、小学生な石では、釣り合わない・・・ということも、でてくる。
昔々にも書いたけれど、「飛び級」ができる人だって、なかにはいるし、人間の欲目としては、心のどこかで「自分は飛び級可能かも」と思いたい人も多いんじゃないかと思うし。


綺麗な石だから、それで満足。という考え方もあります。
意味がどうこう、とか、そんなことはどうだっていい、とまでは言わずとも、その美しさに敬服しているから、それだけでいい、という人も多い。
石がとにかく好きな人には、このタイプの人も多いかもしれないです。
そういう方が選ぶ石は、なんとなく、同質異像、ではないが、エネルギー傾向的に似通った石となる場合が多いかもしれない。


時々、なにもその石組みの意味など知らなくても、なぜか石組みが意図したとおりの結果を手にする方もいるのだけれど(これは、自分もふりかえってみると、石の意味などを知らないで石を手にした場合であっても、なぜだかその時にまさに必要な石を手にしていた・・・ということが、過去に多々あり過ぎで、しかもものすごく時間が経過してから、「あ、ありゃ、そうだったんだ」に気づいたケースなどもあった)少なくとも、そういうかたの場合、「否定していない」のです。
つまり、パワーがあるとかないとか以前に、「石の存在そのものに好意的で、身につけていることに心地よさを感じている」場合が多い気がします。
だって、な~んにも知らないのに、なぜか石ブレスを気に入っちゃって、肌身離さず身につけるようになっちゃって、そうしたら、病気が治っちゃった・・・なケースの場合って、「これを身につければ、健康体に戻れるよ」と言われたわけでもなく、ただなんとなく身につけているうちに・・・なのですから。


上記で「石ころ化」と書いたことと矛盾するかもしれないですが、
それでも、不思議なもので、手元にやってくる石たちというのは、「石ころのままでいようとはしていない」のも事実。
人間もそうだけれど、存在するものは、生き物であれ、無機質の鉱物であれ、存在意義がそこにあるため、存在をアピールします。
石は喋ったり動いたりできないぶん、生物に比べると多少のハンディキャップがある。
だから、いざ、「持ち主にコミットできる瞬間」がくれば、それを逃さないようなところがあります。
自分の存在意義を示すことができるタイミングを、人間のように「勇気がないから」とか「気が進まないから」とか、「できないから」とかわけのわからない言い訳でお茶を濁したりはしない。
自分にできることは出し惜しみ無くやる、それが石かな、って思います。
見習いたいものだと思いますね^^。





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カテゴリ :  ちょっとスピリチュアルな話
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