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2010年01月10日の記事のリスト

「依存」と「信頼」

2010年01月10日 (日) 11 : 19

さて、「宇宙意識」に乗っかって、どこぞへ行ってしまうのだ・・・?
とご心配(?)をおかけしたかもしれませんが^^、いたって自分的日常でございます。
昨日は、浅草橋へ、梱包用品のまとめ買い、それから、例のごとく、石ビーズの物色&調達。
もう、これは、ぐっとくる!! な、みょうちきりんなものを見つけることにかけては、根拠なく自信がありますけれど、「うわ、これちょっと笑っちゃう。好みはまっぷたつかもしれないけれど、というか、まちがいなく万人受けはしないだろうけれど、こんなの見たことないぜ」な、風変わりな水晶ビーズ^^。


で、宇宙意識シリーズ(?)、これでしばらくお暇をいただくかと思われますが(そろそろ、月末に向けて、石アクセサリ制作に本腰を入れよう・・・という時期にさしかかっておりますゆえ)、「依存」と「信頼」ってことについて。
いろいろと、つたない自分の半生をふりかえり、つれづれと思いをめぐらせておりました。


「依存」と「信頼」。
これを見分けることは、容易ではないんだろうな、と感じます。
自分の人生を例にとっても、常にこの部分との闘いであったことを思いますし、実際、これは「克服」だとかそういう類に分類されるものではなく、究極的には、「信頼」の側へ、一生かけて努力する部分なのだろうと思います。
「依存」も「信頼」も、同じカードの表裏、なんだな、ということなのかな、と。
はじめは信頼だったものが、いつしか依存にくるりと変化することもあれば、依存心からスタートしても、信頼へと変化することもあります。


以前、このブログでも書いたことがあったと思うのですが、新宿の占い師さんで、マツモトさん、という人がおりまして。
一番初めにこの方に占っていただいた時には、「あなたは将来、道楽で生きてく」と言っていた・・・あの記事を憶えていらっしゃる方もいるかもしれませんが。
「生産的な仕事に向かない。この世の中でのいわゆる資格やステイタスを得ることなどに切磋琢磨する道には向かない」ということで、例としてあげられたのが、昼間っからカラオケ三昧の主婦・・・などというものすごい像だったのですが、「それじゃ、食べていけないじゃないですか」と私が言ったら、「それでいいんだよ、あなたの場合」と言われた・・・というやつ。
非常に解せない、そして、自分には、社会的なそういった成功の道がないんだ・・・という落胆のような、それよりも、そんな状態になっている自分像は、まったく想像がおよびませんでした。
それって、玉の輿、ってこと? ぜんっぜん興味なさすぎる。。。と思いましたしね。


そうなりたいとも思わなかったし、自分の行く末が、むしろ不安なままでした^^。
その頃の私は、おぼこい事務職でしたので、「なんらかの天職を見つけて、それでお金を稼いでいく」ということは、どこか、条件の良い会社に勤めることであったり、努力してなにかの手に職をつけて、有利な職につく・・・というくらいにしか、想像力がおよんでいなかったため、「昼間から自由自在に自分の時間を好きに楽しむ」像の例としてあげられた、上記の例えにまったく、ぴんとこなかったのでした。
それゆえに、私自身は、この占い結果に「依存」することは、まったくありませんでした。
ただ、もしかすると、無意識にそれがインプットされたがゆえに、もともと、たいした努力家でもない部分に、ますます拍車がかかった、とも言えます。


では「信頼」していたのかというと・・・・・それも微妙な話ではありますが、この、自分のまったく想定外の領域の「答え」そのものには、なんとなく興味深さは持っていました。
だから、忘れずに憶えていたわけです。


そして、ずいぶんな時間を経て、「あれ? たしかに、あの時マツモトさんが言ってたこと、その感じになってるかも?」に気がつきました。
カラオケ三昧ではなく、それは、「イシ三昧」でしたけれど。
ただただイシが好きなだけで、とにかく夢中になっていただけで、今や、寝ても醒めてもそれだけで生かされている、という、ありがたき日々。
これは、過去記事にも書きましたね。
「占い」ってものは、たしかに、当たる日はやってくるのかもね、ということで。


では、この占いが当たるマツモトさんを、今からまた探し出し、「それで、じゃあ、これからは? これからは?」と、もし私が聞きに行く行動に出るとしたら、それは「依存」と「信頼」のカードが、くるくるとスピンをかけて回っている状態・・・なのかもしれません。
この方は、すごい「先読み」ができるタイプの方なので、またしても「想定外」がでてくる可能性があるでしょう。



実は、このマツモトさんには、上記の、はじめて占ってもらった時以外に、その何年後でしょうか、自分的には当時「人生最大のピンチ」な状況だと思っていた時に、占っていただいたことがあったのです。
これはもう、完璧に、依存心でしたし、藁にもすがる、そのものでした。
上記のような、将来像を過去に言われているわけなので、「このまま行くと、まちがいなく、ああたの言ってたような未来は、あたしには訪れっこない」的な、シニカルな考えもあったかもしれません。
それと、ほかに占い師などに詳しくもなかった、という、当時の選択枝の狭さもあったと思われます。
いろいろ探しているような、心の余裕すら、ありませんでした。


マツモトさんは、何年も前に、私のことを占ったことがあることは、もちろん憶えておられませんでした。
私も、そのことは言いませんでした。
そして、マツモトさんが持ってきた答えは、およそ、「世間一般の常識からは外れた」つまり、普通の人なら、占いに頼る以前に、「まず、そんなことは、選ばない」という道だったのです。
私は、戸惑い、愕然としました。
ただ、助けて欲しいだけなのに、彼が「こうするべきでしょうね」と差し出してきた道は、私が期待していた「やめとけ」の答えと、まったく正反対だったのですから。
むしろ、「戻り道はもう考えないほうがいい」そして、「こういうふうにしていったら、まちがいなく、事態はうまくいくよ」という、今の自分であれば、「そうだろうな。」と、ある程度は、腹をくくれたかもしれないとは感じるものの、当時の、甘ったれた、自分の生活の面倒さえ自分で見たこともなかったような自分にとっては、「どうして、あたしが、そこまでしなくちゃいけないの~~~~??????」という、「苦労を絵に描いたような」恐怖以外の何者でもない、選択肢でした。


しかしですね。。。
こういう自分は、単純に「流されやすい、乗せられやすい」性格だっただけなのかもしれませんが、冷静に「そんな自分にできそうにもないこと」という恐怖感満載ながらも、結局、その選択をしちゃったんですよ^^。
なにゆえかというと、自分を守るためには、人を見切る選択枝しかありませんでした。
たとえそれが涙ながらにであったとしても、見切れば、その事実は、自分の中に一生残る。
人を見切った、という烙印に耐えられなかったんですね。
なので、その烙印の選択の由来を、占いの結果のせいにしたくて、そして、常識的な答えが返ってくれば、やはりそうだよね・・・自分の身を粉にする必要なんか、ないんだよね、という理由にしたかったんだと思います。
欲を言えば、どちらも選択したくなかった、というと、非常に矛盾しますが、心の中の本音は「このまま、すべての難題が消えてなくならないだろうか。」でした。虫のいい魔法を求めていたのです。
そのくらい、弱かったし、ある種の錯乱状態だったかもしれません。
そんなに弱い自分なのに、そういう「占いなんかに左右されて、できそうにもない選択をした自分」を、何年も、何年も、来る日も来る日も、後悔していたように思います。
(これね、ものすごく不思議なんですが、占いの結果に左右された自分を呪ってはいたものの、当の占い師であるマツモトさんには、向かわなかったんですよ。選択の決定を担った存在であるこの方に、ふつうは向かう可能性もあるかもしれないんですが、この方にそういった恨みがましい気持ちを抱いたことは、なぜかなかったんですよね。。。本当に不思議です)
できもしないことを、やるんじゃなかった・・・・・。
走り出している流れの中で、「やるしかない」状態で、実際には「やっていってる、そして、なんとかできていってる」にもかかわらず、次第に、自分のそういう運命を愛せない、そしてとうとう恨む、というよりは、諦め的なカタストロフ志向になっていったんですが、誰かに押し付けられたのではなく、「選んだのは自分」なわけなので、最低だったかもしれません。
もう、どこにもぶつけようもなく、自分の中では、幸福なこともたまに少しはあるけど、消えない無為感の要因は、永遠に続くような気がしていました。


当時は、「やると決めたら、それによって生じる事態に対して、不平不満、愚痴はいっさい口にしない」という、いわば「成功へのセオリー」みたいなものも知りませんでしたしね^^。
あれですよ、この、「不平、不満、愚痴」というやつ、もし、自分がそれを言いやすい人間だな・・・ということに気がついている方がいらっしゃったら、ちょっとゲーム感覚で、いっさいやめてみると、わかりますよ。
言いそうになったら、やめてみるだけです。
我慢して言わないのではなく、決めたゲームだから、という理由を思い浮かべます。
思うのは、仕方ないです。ただ、「言わない、言葉にしない」を試しにやってみると、面白いです。
なぜなら、不平、不満、愚痴まみれだった思考回路が、だんだん、「まみれ」から、「ぽつん、ぽつん」になり、だんだん少なくなっていき、そして、ほとんど出てこなくなります。
開いた脳みその隙間で、ほかの事を考える余裕が出てくるからなんでしょうか?
けっこう、そういうことは口にしないでいても、自分は大丈夫なんだ、という、変な自信が出てきます。
ゲームでやっているうちに、単に、「思考が作る癖の傾向」だったことに、気がついてきます。
こういったものは、言葉にすることで、どんどん「世界空間への刷り込み」にしてっちゃうんでしょうね。で、そういう事態の堂々めぐり、終わりなき不毛な実態世界を作る。
そりゃ、今日明日に状況一変、ってのは無理かもですが、やめてみると確実に、しだいに自分を取り巻く環境、状況そのものが、変化していき、不平、不満、愚痴じたいを生み出す現象そのものにあまり出会わなくなってくるのがわかりますから。


で、話は戻りますが、
「こういうふうにしていったら、間違いなく、事態はうまくいくよ」の部分は、マツモトさんがおっしゃっていたような「こういうふう」が、そんな人間ですから、実行できるようになれるのに、ずいぶん時間がかかりました。
そして、きっと、それはずっと満足にできていなかった、と思います。
しかし、「あれがそうだったのかな」という、「こうしなきゃ」ではなく、自然にそうなっていた自分がいた時期に、マツモトさんがおっしゃっていた「うまくいく」は実現していたように思います。その頃には、気がつきませんでしたが。


私的には、当時(10年とちょっと前くらいかな)のその実現は「過去の苦労の帳尻合わせ」のような、気持ちでした。
「生きていれば、すごいことがあるんだな~。信じられないね。」的なことでした。
しかし、そのすごいこと、は、これは自分のことではないため、なんとも言えないのですが、本人のもともとの才覚が、条件が揃って、花開いた結果だったのだろうと思います。
その条件の中には、「相手に対し、なにも求めない、ようやくバーターを提示しなくなっていた」私の存在も含まれていたと思います。
ある意味、こうしてふりかえってみると、見事なもんだな・・・・と、苦笑いするしかないです。
その時期は、とても、私の人生の中でも、普通に生きてるって、なんて幸せ。
そして、そういう幸福を与えてくれている原資を作ってくれる人に対して、満面の「感謝と信頼」の思いでいっぱいだった頃でした。これは、「衣食足りて、礼節を知る」ではないけれど、人並みの幸福、普通に暮らせる平凡な毎日、を、ずっと得られなかったから、その反動でもあったと思います。
しかしながら、今思えば、いわゆる「安定・安泰を提供してもらえるという条件つきの感謝と信頼」的な幸福感だったと思います。
幸福になったと実感して、人はやっと幸福と自分を認めるのですけれど、それでも、「安定・安泰」がもたらす幸福感を、なにゆえ、世の人々が求めるのか? の意味がわかったような気がしていました。



・・・・・・と、この続きを書こうとすると、とめどなくなってしまうため、
いったん、ここでやめておきます。
気が向いたら、この続きも、書かせてもらうかもしれません。



未来を先に聞こうとする、という行為は、そこに「なにが起こるかわからない」ゆえの好奇心の場合であるよりも、その動機としては、「この苦境をなんとかしたい、手がかり」としての場合が、多いと思います。
見える世界でなんとかなっていないことを、見えない世界に、窮状を救ってくれる手がかりはないものか、と。
なるべく「自分にとって、よい答え」つまり、自分が考えている「それで、その選択で、いいんだよ」という楽な答えを求めがちになります。


しかしながら、おそらく、上記のマツモトさんのようなタイプの占い師さんの場合、「そうなの?!」的な、今現在のその人の立ち位置では考えられないような答えが返ってくるケース・・・も想定されます。
いわゆる、「自分には、とてもじゃないが、楽にも楽しそうにも見えない道」です。それをさらっと提示するマツモトさんは、ある意味すごいかもです。
なぜなら、そこをうまく乗り切ることができれば、の話ですが、「魂の成長」という観点から見れば、大飛躍になるからです。
たぶん、現実世界での成功などとは比にならないほどの、飛躍のチャンス。
それを、提示する人。
普通は、嫌がられます^^。真実を見抜く目、というのは。だから、占い師になられたのかもしれませんね。
だって、そういうのを人に伝えるって、かなり勇気のいることだと思うんですよ。本人が望んじゃいない解答だもん。
割合的には、自分もそうでしたが、楽な道を行きたがる人のほうがはるかに多いでしょうし、けれどおそらく、ベター、もしくは、ベストな道は、どちらかというと、少し無理目・・・かもしれないが、逃げるよりは、やるべきだ。のほうであることが、多いですから。
占い師さんというのは、強靭な精神力とパワーをお持ちでないと、身を滅ぼしそうな大変な職業ですね。
なので、本当は、占い師さんになろうという時点で、すごく覚悟がいることなんですよね。
おそらく占い師さんの中には、この部分が麻痺しているような方も、中にはいらっしゃるのかもしれませんけれど、マツモトさんに関しては、「現状を、否定も、肯定もしない」というか、未来にはそうなるであろう事実だけ述べる、困難そうな場合には、「こうしていけば」を教えてくれる、アドバイザー的な方でしたが。
今思うと、多分に、プロフェッショナルとも言える方だったのかも。


私たちは、誰も、自分の寿命というものを、知りません。
その予定は最初からだいたいわかってこの世に生まれ出るケースもあるのかもしれませんが、おそらく、それはかなり特殊任務な方でしょう。
アガスティアの葉、などには、「それを知る勇気があれば」教えてくれる、第何々室の葉・・・だったかな、そういう寿命についての「室」があるらしい、というのは、本で読んだことがあったようにも思いますが。
あまり自分の寿命を知りたいと思う人はいないですよね。
なので、結局のところ、いつ死んでもいい、くらいの「今」を生ききる毎日が、重要なのかもしれませんね。


先に知ることによる運命変更、というよりは、先々の運命は、当たり前の話なんですが、「いま」自分で切り開くものなんだろうと思います。
もしかすると、人生のブルー・プリントというものでは、その「先に知ること」じたいが、予定調和であった可能性もあります。
そして、最近感じることですが、やはり、「先のこと」は「今そのもの」です。
先の運命を知ることにより、それがたとえば自分にとって都合のいいことだった場合、なかなかそうなっていかない現実が目の前にいつまでも立ちふさがっている時に、予定のはずの運命への依存心→失望、へとベクトルが向かわないようにする・・・という面倒な事態が生じやすいのも、先を知ることのデメリットでもあります^^。
私たちが寿命を知らされていないのも、先のことがわからないようにできているのも、それがおそらく身魂みがきにとって、最適環境であるから・・・のようにも思います。


「依存」も、それじたいは悪いことではないと思います。
そもそも、人間は、空気、水、太陽がなければ、死んでしまう存在です。
「お日様、お月様が、3日、世界をかまわなければ、誰も生きていけない」非常にもろい、有形無形の、無償で与えられているエネルギーによって、生かされている存在。
そもそもが、「依存」といえばまさに依存の存在であり、他を「信頼」すること、信じることでしか、成り立たないように、人間社会も構成されている。依存と信頼は、表裏一体ですし、それは「和」にも、姿が少し似ていますよね。


こういう当たり前なことに気づくのが、いささか遅すぎたんだよな・・・・
とも、思っています。
私のこういう遠い遠い回り道の、つまらない経験を持ち出すのも、どうなのかとは思いますが、「こうしなければいいんだな」の事例としては、いいんじゃないかと思います。



長い文章を、お読みくださって、ありがとうございました。




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カテゴリ :  ちょっとスピリチュアルな話
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