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2009年03月22日の記事のリスト

生きているだけで・・・幸福

2009年03月22日 (日) 00 : 01
確か、こういうことを、以前にも書いたように思う。
そして、これも記憶の限りでは、やはりこういう、失業というのか^^、まぁ、そんなような期間に、昔書いたっけ。


これは、実はなかなか「そうは思えない」境地なのである。
時々感じることはあっても、「常に」は、なかなか難しい。そして、「実感」が本当に難しい心身状態かと思う。
なので、シラフでこういう風に思える人というのは、幸福な人。
なかなかそうは思えないからこそ、人は、自分ではどうしようもない壁というか、人生の上で「克服しなければならない障害」のように見える、病気だとか、不慮の事故とか、失恋とか、死に別れとか、解雇だとか^^、まぁ、そういう目に合ったりもするのかも。
自分にとってのマイナスを経験することで、「生きているだけで十分」の境地を垣間見るために。


実は、過去の記事にもつらつらと書いてきていると思うけれど、私は、なかなかにそんな殊勝な境地には及ばないタイプのニンゲンである。
今もそれほど褒められたものではないけれど、とにかく、昔は凄かった。
不満が服を着て歩いているような、そういうタイプのオンナだったと思う。


やれ、同期より大変な仕事をしているのに同じ給料なんて冗談じゃない、とか、なんというか、「恥ずかしいO.L」の見本みたいな、謙虚さとか感謝とか、そういった心の微塵もない会社員生活を、のらりくらりと経て、こんなに自分の人生が不満なのは、たぶん「自分の好きな仕事をしていないからだ」と、一念発起、それで、昔「作詞家」になったのである。


作詞がそんなに好きだったのか? と言えば、まぁ、振り返ると、ギモンではある。
私は、「事務仕事などという、自分の代わりなどいくらでもいる職業ではなく、自分にしかできない仕事」がしたかったのである。
それで、目をつけたのが、当時は、作詞家、という肩書きだったんじゃないかな、と思う。
オンガクは好きだったし、歌詞を書く、ということは、特殊といえば特殊な技能である。


しかし、振り返って思うと、「自分の代わりなどいくらでもいる」という意味では、どんな職業でも、同じことが言える。
たぶん、裏を返せば、いわゆる「会社員として、社会に馴染んでいない自分」の孤独を埋める、そういうものが欲しかったのかもしれない。


会社員というスタイルで、社会に馴染めない、っていうのは、今も似たようなものだ。
一番最初に入った会社には10年以上いたが、それ以後、流浪の会社員経験を重ねている。
ニンゲン、「いちばん最初の会社」っていうのが、なんだかんだ言って、そこにいられるなら、それがいちばん無難な道らしい。
実はこれは、「結婚」なんかにも言えることだというのを、聞いたことがある。
「結局、いちばん初めに結婚した人で良かったのかもしれない」ということを、何度か結婚したりすると、思うのだそうだ^^。


ところで、発端は自分の我儘と無謀さからスタートしながらも、何度も転職せざるを得ない運命を繰り返してきた場合、今さらそんな「教訓」を耳にしても、流浪スタイルが変わるわけではなく、問題は、どうやったら、「社会に馴染んでいける自分」というスタンスを、実感として、身に着けることができるか? ではないかしら、と思う。
ニンゲンは、ひとりでは生きられないのである。
残念ながら、それは、真実というより、事実。


だから、やりたい仕事が、この世の中にある人は、幸福である。


私自身は、ようやく、やりたい仕事を、見つけ、なんとか続けてこれたわけで。
それが、石アクセサリの仕事である。
自発的に、自分が誰に頼まれもせずやりたいからという理由でこんな風に続けてきていることって、今までの人生の中では、ひとつもなかった。
そして、これからも、それをやっていこうと思っている。
なんの不満が、そこにあろうか。


実は、これは、今回こんな感じで「二足わらじ脱出」の機会に直面したことで、気が付いたんだけど、私は「自分の本当に好きな仕事一本を、生活の基盤にする」という経験を、今までにしたことがない。
つまり、そこには「成功体験」のデータがないのである。
これから、経験し、データを作っていく・・・ そういう段階にいる。
まだまだ、富士山の五合目にも及んでいない。


その気の遠さとか、もしかしたら経験するかもしれない「未だ見ぬ挫折感」だとか、なんというか、「石に助けてもらえるから、ぜ~んぜん大丈夫♪」なんて、呑気には思えない。
結果的には、彼らは助けてくれるのかもしれない。
が、やるのは自分、なので、不安なんかひとつもないわよ! なんていう、ポジティブ・マックスなんかには、到底なれるわけがないのだ。


なので、結局なんだかんだいって、なんというか、私は、私のためにも、石アクセサリを作っている。
自分が、不安だからこそ、未知数だからこそ、「そうか、こういう石組みかぁ」ができてくる。
もし私自身が、「生きているだけで・・・幸福」の境地に達してしまえば、石アクセサリを作る、源泉はそこでなくなるのかもしれない。
なくならないかもしれないけれど、面白いものは、もうできないだろう。


そして、なんとなく、私が「生きているだけで、幸福だった」ってことを知るのは、やっぱり、死んだあとになるんじゃないのかな、と思うのだ。
それが、石使いを職業にする人間が背負う業であり、バーターなんじゃないだろうか。


ところで、私は「生きているだけで・・・幸福」とは、あまり感じるタチではないが、「存在していることの、幸福」というのは、しょっちゅう感じている。
これは、命というカタチあっての、という部分での感覚・・・というよりは、たぶん、有形無形にかかわらずの感覚。
おそらく、この幸福感なら、死んだ後も持ち越せるんじゃないだろうか、とは思っている。


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カテゴリ :  ちょっとスピリチュアルな話
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