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2008年07月07日の記事のリスト

「だって、成仏したくないですか?」

2008年07月07日 (月) 23 : 02
・・・・なんて、知らない人から言われたら、なんと答えれば・・・・^^。


私は本当に、外歩いていると道聞かれ体質なのですが、今日は、歩いている時ではなく、昼休憩時に入った店で、さてそろそろ店を出ようかと立ち上がった時に、「となりの席に座った人」から、声をかけられたんですよ。

「あの、もし良かったら、これを読んでみていただけないでしょうか?」
って、いわゆる、宗教の冊子なんですけどね、すっごい分厚くて、HotPapperくらいの分厚さかしら、私は、
「あ~、すみません、これから何時間かバッグをずっと持ったままになるので、今以上に手荷物を重たくしたくないです。」
と言って断ったのですが、私もそのままさっさか立ち去ればいいものを、表紙に書かれていた「なんとか会」っていう、その宗教団体の名称の、その、なんとか、って漢字が読めなくて、「これ、なんて読むんですか?」って質問しちゃったんですよね^^。


まぁいわゆる、ジャパニーズ仏教系の団体のようなんですけどね、
現在国内だけなのか全世界なのかわかりませんが、一万二千人ほど会員がいるそうで、これがあと数年すると、「一億人」になるそうなんですよ。
まぁ、世界の総人口数考えると、一億っていってもねぇ・・・ とか、あたしもまた、余計な口をはさんじゃって、話が続いていっちゃったんですが、なんだか、要するに「成仏するには、ウチしかないよ」ってことを、結論的には言いたかったみたいなんですよね。

私は、死んだ後とか死ぬ時とか、成仏するとかしないとか、そこを目標にして、今やらなきゃいけないことを考えない人間にはなりたくないし、結果的にできないならそれでかまわないですよ。
それよりも、今、生きてやらなきゃいけないこと、この世を少しでも良くしていける、わずかでもそういった「ひっかき傷」のようなかすかなものでもかまわないから、自分なりにやれることをやるために生きているのであって、「成仏するために生きる」っていうのは、なんか違うように思います。

と、言いながら、その場を離れたんですけどね。


その人は、男性だったんだけど、
最初、私に対して、「お、こういう話ができる相手だ!」という好感触があったのでしょう、ものすごくイキイキと、その宗教団体がいかに「ホンモノ」か、そして、「成仏の証拠」なる、わけのわからない根拠についても、えんえん話したそうにしていたんですが、私が「そもそも、お釈迦様は、「仏教を信じなさい」とは、ひとこともおっしゃっていないはずなんですよ。仏教というものを核にして、お釈迦様以降の人間たちが、さまざまに宗教団体を作って、それぞれの解釈で説いているだけの話なんですよね。」と、返したあたりから、さっと顔色が変わり始め、もうそのあとは、「でも」の連発でしたね。


私は、否定はしていないんですよ。
ご自分が、そう思うのであれば、そう進めばいいだけの話。
ただ、私は、その現象(根拠なるもの)については、このように思いますがね。みたいなことを、返してしまうものだから、もう、必死なんですよね。

で、出てきたわけですよ。
「だって、成仏したくないですか?」の台詞がね。


ところで、「成仏」ってなんだ? とあらためて調べてみると、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』からの抜粋ですが、

「成仏(じょうぶつ)は、仏教用語で、悟りを開いて仏陀になることを指す。成仏への捉え方は宗派によって異なる。」というようなこと。

しかし、日本人観の成仏というのは、本来の「成仏」の意味とは少し離れているんですね。
私も、仏教用語としての成仏ではなく、日本人的感覚の成仏、で、この言葉の意味合いを考えておりました。
以下が抜粋。

「日本語の日常会話や文学作品などでしばしば用いられている「成仏」という表現は、「さとりを開いて仏陀になること」ではなく、死後に極楽あるいは天国といった安楽な世界に生まれ変わることを指し、「成仏」ができない、ということは、死後もその人の霊魂が現世をさまよっていることを指していることがある。
こうした表現は、日本古来の死生観が仏教に入り込みできあがった、仏教者が死を迎えてのちに仏のいのちに帰ると考えられた信仰を背景として、この国土である娑婆世界から阿弥陀如来が在す西方国土の極楽浄土へ転生する浄土信仰とも相まって生まれたものである。」


今日私に声をかけてきた方も、どちらかというと、上記の日本人的意味合いでのとらえかたで話してましたね。


もし、「本来の意味の、成仏」であれば、
それは、たぶん、身魂みがきをせなん、たる人間の、最終的にはたどり着くべく努力目標、、、というものであろうかと。
目指すべくところは、同じなんですよね。


しかし、やはりね、
「なにかの団体に属さな」「この教えによらな」っていう、「限定的」な囲いを作る宗教は、どうなんでしょうね。


その男の人は、最後、私がそこを離れる時、ひっじょうにくっら~い表情をなさっていました。
ところが、いったんそこを離れ、外に出た時に、店内のその席に傘を忘れてきたことに気が付き、また戻ったんですね。やっだな~、とは思いながらも。
したらば、いやはや、その方、
「おいおい、そんな顔してちゃ、あなた、成仏なんて、とてもできませんがな。」的な、思い詰めちゃった顔してましたね。
もちろん、傘を取りに戻ってきた私のほうは、見ようとはせず。


自分が、「これだ!これこれ!」と、満身創痍で、生きる支えとするものを、「他人から認めて貰えない」っていうことは、確かにつらいことではあると思います。


しかし、この娑婆は、つまり、この地球上で生きるってことは、そういう「修行のワンダーランド」。
昨日、コメントで、「在家こそ、宗教。」と書いたばかりですが、
同じ目的を持つ同士の、宗教団体の仲間内の範囲内で、戯れているぶんには、おそらく、その本来の意味での「成仏」には到達しないでしょうし、得体の知れない優越感と劣等感の中で、こういうタイプの方は、結局揉まれていくんだろうなぁ・・・と、そのクライ横顔を見ながら、感じましたけれど。


こういう方は、あれですね、
いちど「とにかく人から断られまくり」が当たり前の、飛び込み営業とか、やってみるといいんですよ。
そうすればたぶん、一生懸命なにやらを唱えたり、行事に参加したり、とか、いわゆる「教祖様の教えによる修行」をなさるよりも、よっぽど、魂の器が広がると思うんだけどな。




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カテゴリ :  私の体験(石系 & スピ系)
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