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2008年02月19日の記事のリスト

目的は同じなんだけど

2008年02月19日 (火) 21 : 35
ヒトそれぞれ、やりかたって、違います。
たとえば同じような夢を抱いていても、そこへたどり着く道程、個々のバックボーンはもちろんヒトそれぞれなのですが、そこへの「歩き方」っていうのは、やっぱりヒトそれぞれ。


何気なく日常、遭遇する人々。


毎日色々なところへシゴトで出かけるのですが、そうするとですね、度々ですが「声をかけられる」ことが多い人間なもので、道を聞かれるのはしょっちゅう、っていうようなことを、「道を聞かれやすいオーラ」を発しておるのだろうか・・・と、以前に書いたことがありましたが、それだけでなく、たぶんここを読んでいただいているみなさんにも日常的にあると思うのですが、「宗教の勧誘」の方に、声をかけられることも、けっこうありまして。


今日も、国分寺駅の改札を出て、私的には脇目もふらず、すたすたと歩いていたのですが、
例によって、その「宗教の女子」がつつつっと寄ってまいりまして。
「あのぉぉ」
で、私は、足を止めちゃうわけですね。そういう時。
「ここ2,3ヶ月で、なにか心境が変わったりなど、ありませんか?」と。
きたきたきた、と思い、すかさず「ないです。」とお答えしました。

で、またすたすたと歩き始める私に、その女子は、おそらく「見込みね~な~」と心中思いながらも、こう言いました。
「あ、そうでしたか。すみません。大変良いお顔の相をなさっていたので。」とのたまうのが、遠くから聞こえてきました。

私は、「へぇぇ、うまいじゃん。感心、感心。」と思いながら、おそらく察するにその女子、統一協会かな~、と思いながら、彼らも少し「マニュアル変えた」のね~、と。


で、思い出していたのが、これまた、東武線のなんて駅だったかな~、春日部近辺の駅だったと思うのですが、完全に住宅街で、人通りといえば、主婦の方がぽつん、ぽつん、と歩いている程度の街をやはりすたすたと歩いている時に、後から、チャリに乗った普段着の30代なかばくらいかな~みたいな主婦っぽい方に、声をかけれらた時のこと。

チャリに乗った女の人が、急に寄ってきて、
「あの~、私、天理教を勉強しているのですが。」と。
いや、そんなこと、知らんヒトに寄ってこられて言われてもなぁ、と思いながらも、でもまぁ、この時点でそういう「主旨」が明確になっているぶん、つまり、「騙して連れて行こう」ってな意図がないぶんは、宗教の勧誘ではあっても、まぁ許されるかな、と。

「最近、なにか気になっていることなど、ないですか?」と、質問され、
「なんですか? 気になってることって。」と、問い返します。
「身体の調子が思わしくないとか・・・。」と、彼女。
「いや、思わしいですよ。ご心配いただきありがとうございます。」

私がそう言うと、その方は、「あ、そうですか。」と言いながら、チャリでさ~~~っと去っていったのでした。


ぜんぜん、タイプの違う、両者の「勧誘」。
目的は、似たようなものなのですが、これ、どっちのほうが少なくとも、ヒトに与える印象として優れているかといえば、まぁ、今日の国分寺に軍配ですよね。


ヒトって、いきなり知らないヒトに、健康状態を問われた場合にですよ、
「身体の具合が、もし仮に悪かったとしても、見ず知らずの人間に、その具合の悪さを伝える」なんてこと、絶対にしないと思うし、そんなことを言われたことじたいが、不愉快で不安になりますよね。
ある種の、「不安につけいる」古いタイプのサマリで、春日部近辺のチャリンコ主婦さんは、勧誘なさっていたわけです。
まぁ、天理教です、という「正直さ」だけが、褒められる部分ですね。


今日の統一協会のほうは、「見ず知らずのヒトに、なんとか足を止めて、話をするきっかけ」として、「どうしたら、警戒されないように、また、適度な距離感を持ちつつ、“好意”を得られるか」の部分のみに、注力している。
そして、ヒトはどう言えば、少なくとも、「気分を害さないか」への気配り、それを、たぶん、徹底して指導されているのですね。
惜しむらくは、彼らの場合、「正直さ」がない。


これって、この双方の「良い部分、良いやりかた」を足して二で割るといいのにな、と思いました。


よいやりかたの部分で、なぜにやらないのかな、彼らは、というと、
前者は「基本的に、褒めていい気分にさせて、心を開かせて、後から、どさっと「神の名によるこの世での現実的要求」を手渡す」という、ヒトを舐めた裏切り行為を肯定する理由は、「まともに伝えたら、誰も見向きもしないであろう」という、古い「固定観念」をお持ちだから。最初からちゃんと順を追って伝えれば、ホントウにそれが真に良い、と思える人間もいるかもしれないのに、「そんなやつぁ、まずいない」というところから、スタートしちゃっているから、苦しい嘘をつかなきゃいけなくなってくる。


後者は、「ヒトは、苦しいヒトほど、宗教が必要で、そういった教えを納得しやすい」つまり、「すがる藁」を差し出せば、食いついてくる確率が高いのだ、という、これまた古い「固定観念」をお持ち。病気を治してもらっちゃったりすると、「宗教や、天の神様は、すがる対象」という勘違いをヒトはしてしまうかもしれないのに、なぜか、そういう「悪因」のほうから誘いをかける。
この世で言えば、「保険商品」みたいなものですね。


両者、目的は、同じなんですけれどね。
そして、あたしだって、「神様はいるよ」ってスタンスで生きているんだけどな。
そういう意味では、せっせと、宗教勧誘する彼らと、まったく相通じるものがない、ってわけではないのですが。
でも、彼ら的な「やりかた」は、好みじゃないですね。
そもそも、そういうものは、やはり「いきなり知らんヒトに薦められて」、ってのは、どうも違いますね^^。


人間、最終的には、個人個人の個性など、単なる「頭数揃え」みたいなものだよな~~~、というような、この世的にはあんまり夢のないことをほざいてしまいますが、「宗教」って、その「自分は単なる頭数」の夢の無さを、シビアに感じるんですよね。
あ、もとい、「宗教」にではなく、「宗教団体」に感じるのです。私はね。
仮に、実際に、霊の最終目標が「ワンネス」だとしたら、まぁ、それでもいいのかもしれないですが^^、せめて個体で生かさせてもらっている時くらいは、「個の楽しさ」「個のつらさ」ってものから、いきなり、霊の最終目標を目指さなくてもいいんじゃないのかなぁ・・・・・・・なんて、思ったりもするわけで。


ま、そんな勧誘をされてみて、ヒトは、何かがうまくいかない時って、「その時のやりかたすべて」を否定しそうになるけれど、たぶん、「一部」なんだな~、と思いました。
で、その「一部分」をなぜに自分は、手放していないのか? を問いただす姿勢を常に持って、自問自答と内省をしていけば、自分がやろうとしていることの真の意味に近づけると思うし、「もしかしたら、自分がやろうとしていることは、自分がやるべきことではないのかも、ちょい、間違っているのかも」という答えだって、出せるかもしれない。
それは、自己否定ではないのだと思います。






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カテゴリ :  ちょっとスピリチュアルな話
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