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2007年12月18日の記事のリスト

石はビョーキを治すのか

2007年12月18日 (火) 20 : 30
・・・といえば、「治さない」でしょう、と思います。
石に「治して」もらうってのは、無理だと思います。

この場合の「ビョーキ」というのは、定義は色々です。
まず、外傷。これは、きちんと手当したほうがいいです。傷の深さによっては、病院へ行くべきです。
内臓疾患。これも、気が付いた時点で、病院に行くべきです。
素人が、「なんとか療法」などに、やたらめったら手を出して、試行錯誤するよりも、そのほうが早いと思います。

それと、たぶんこれがいちばんやっかいであろうと思われる「精神疾患」。
けっこう、精神的な病には、石って効きそうに思われがちです。
しかし、私はこの場合も、きちんとその分野を得意とする医者を捜して、適切な回復のための指示に従う、という方法を取ることのほうが、早道だと思います。

でも、石の意味って、けっこう鬱状態を解消する系のものとか、多いですよね。
鬱だけではなく、不安を解消する類のものも多い。
いかにも、「精神にだったら、効いてくれそう」に思えます。

実際それはそのとおりだとは思います。
しかしそれは、「本人がその石に惹かれ、心を動かされ、自発的に、その石を手に入れる場合」ではなかろうかと思います。
最初から、そういう理由が根底にありき、の場合は、そこにはさまれている願望、つまり「治して欲しい」という、他頼みが、意識的にせよ、無意識にせよ、挟み込まれる。

鬱に効く石だから、という理由で、クンツァイトやラリマーを前宣伝で手にしても、それは当たるも八卦当たらぬも八卦の世界。
ヒーリングパワー最高峰のスギライトを手にしたから、「さぁ、癒やされるぞ!」というものでもありません。


私は、たびたび「効能」という言葉で、ご質問をいただくことが多いのですが、
実は私自身この「効能」という言葉で、石のことを表現したことって、ありません。
この言葉、自分が発するのも、聞くのも、好きではないのです。
他がやっている言い方の例で「「効果・効能書き」はこうだけど」、ってことは言ったことあると思うけれど。
たぶん、石のことをいうのに「この石の効能」って言ったことは、一度もないはずです。

「効果」とどう違うんじゃい? と思われるかもしれませんが。

効果、って、私がそう感じるだけなのかもしれないけれど、「果」を得るために、そこに、人間の意志的な決意や行動があっての、っていう石とのコラボ感覚を感じるんですけれど、「効能」って、なんか、まるっきり薬ですよね。「能力を持つ石に、治してもらおう」という。
すごく、石そのものの能力に頼るところの言葉、という気がして、どうもこの言葉はダメなんですよね。
申し訳ないけれど、ちょっと虫酸が走るというか^^。
(なので、私に尋ねてくださる場合には、「このブレスの効能は?」って聞かないでくださいまし)


「効果」なら、いくらでも期待していいと思います。
なぜなら、それは「さぁ、やるぞ!」という、自分への期待、という「実現の種を巻く」ようなものですから。
石は、なんだかんだ言って、そういう人が好きです。
自分で動けない彼らは、「心を動かし、身体を動かし」変化する体験を、いっしょにしたがるのです。
石を「身につける」のがいいと、よく言われる所以は、私の独断ですが、この部分が大きいと思います。
よくパワスト的には、「石の波動をじかに取り込むのには、直接、身体に触れていたほうがいい」というような、なんだか分かったような分からないような、なんとなく人を納得させる説明がありますが、それも確かにそうですが、なんといっても、上記の感覚が、私にはあります。
もちろん、飾り石、置き石、が無力だとは言いませんが。



人は、なにかにすがりたい生き物です。
しかし、なにかにすがる自分や他者を、極端に嫌う人もいます。


たとえば、石にすがる人、石を好きな人を、小馬鹿にする人がいたとします。
「タイガーアイなんかするのは、貧乏人だから」
「ローズクォーツのブレスなんて、物欲しそう」
「パワストブレスなんてするやつは、所詮、不幸なやつばかり」
というような。

まぁ、そう言いたい側の気持ちも、わかります。
ただ、そんなふうに思う人が、それでは「なにひとつ他の存在に依存していないのか」といえば、たぶん、それは違うでしょう。
貧乏人ではなく、十分なお金がある、満足な家庭と仕事と生活があり、それを支える精神力も十分に持ち、人間関係に不満も不安もなにもなく、自分に対し、他に対し、無力感をなにも感じない。
そういう人間であれば、「石のチカラが云々、美しさが云々」は、もう、ばかばかしくて、聞いていられないだろうし、また、「ちゃんと現実的に生きようよ」とも思うだろうと。
「石っころが、いったい何をしてくれるんだ?」と。

そういう人が、仮にいるとしたら、それは「現実にすがって」生きている人、「現状にすがって」生きている人、ともいえると思います。
自分に何かをもたらしてくれる確証のあるものでないと、愛せない。
そうではないかもしれないものに惹かれ、夢中になる人の気持ちが、自分には理解できないだけなのかもしれない、というふうに思えない人なのかもしれません。

現実や現状が、自分の思いとは裏腹に、ある日様変わりする時がくるかもしれない。来ないとは言い切れない。
それを、理解していれば、少なくとも「なにかにすがっているように自分の目からは見えるだけ」の人を、小馬鹿にはできないんじゃないかしら、と思います。


石にすがるのも、けっこう。
現実や現状ににすがるのも、けっこう。
未来の夢にすがるのも、けっこう。
過去の行いを悔いて、そこにすがるのも、けっこう。(これは、自分の過去を全否定するパターンですね。結局、これは裏を返せば、過去にすがっているわけです)
自分の、客観的に見て不幸な状態にすがるのも、幸福な状態にすがるのも、みんな、けっこう。


なににすがったとしても、どんな人生であろうと歩み続けるのは、自分でしかありませんから。


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カテゴリ :  石のホント or はてな?
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