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2006年06月の記事のリスト

希望は生の原点、アマゾナイト

2006年06月27日 (火) 03 : 40
アマゾナイトをGoogleイメージで検索

「希望の石」ってことで有名なアマゾナイト。和名は天河石。
名前の由来はアマゾン川はまったく関係ないのに、アマゾナイト。
希望・・・hope・・・いい言葉じゃないですかー。
「夢も希望もあったもんじゃない」って台詞は、夢も希望もなさそうな状況に直面したり、その渦中に浸っているような時に、つい出てくる言葉がありますが、生きている限り、どんな状況、状態であっても、冗談抜きで「希望」なことなんです。
(だからといって、「今死なん」としている時にまで生にしがみつくことはないんですけどね。死ぬ時は、死ぬ、でよいのですから。)

なので、アマゾナイトって石は、な~んも特別希望などないんだけどなー、、、というような、無常観にある時でも、心の中に、ワケも無く希望の灯を灯すような感覚の石で、私はこの石、とても好きです。

この石には、二種類のタイプがあります。
ロシア産の目の醒めるようなグリーン地に生成カラーのゼブラ模様のような模様が入ったものと、中国産のとても可愛い淡いキャンディーブルーグリーン色のものと。

私は両方持っていますが、どちらかというと、はっきりくっきりグリーンのロシア産アマゾナイトのほうが、相性がいいように思います。というか、単純に「似合う、似合わない」が、この両者とも、人によって分かれる色目だと思いますので、たぶん、どちらかのタイプは誰でも似合うのでしょうね。
(そのために、アマゾナイトって、同じ緑でもこれだけタイプの違う二種類が用意されているのかな~~~。と、今思いました。)

一般的には、次に進むべき道を見つけるための手助けをしてくれるとか、迷ってばかりで自分の決断に自信が持てない優柔不断な時に決断力を持たせてくれる、など、いわゆる、後押し系の石ですね。
プールの飛び込み台で足がすくんでいる人の背中をポン!と押しちゃうような石です。

だから、どうしても飛び込みたくない人は、持たなくていいと思います。
どうしても飛び込みたくない人を、わざわざジャンプ台にまで引っ張っていって、そこから突き落とすまでの強引さは、この石にはありません。
あくまでも、持ち主が「どうしようかなぁ~・・・・・」と迷いに迷っていることに対する決断力にしか、作用しません。
なので、あんまり迷いの無い時や自信満々な時には、アマゾナイトの効果というのは感じにくい石かもしれないですね。

こういうことをやりたいんだけどなー、でもなー、難しいなー、・・・って思いながら、でも諦めてしまうでもない、中途半端な気持に鬱々としてしまって、現状維持・・・でも、それじゃやっぱり嫌だな。
そう思える時になったら、アマゾナイトの出番じゃないでしょうか。
「当たって砕けて来い!」
と、気付け薬を買って出てくれますよ。

まぁ、当たって砕けても、アマゾナイトを責めないであげてください。
人生、一度や二度のトライで上手くいくことばかりだったら、誰も彼もが苦労なしに成功者になってしまい、努力や創意工夫、忍耐などの自己研鑽の意味もへったくれもなくなってしまいます。

なかなか上手くいかない・・・
どうしたらいいのだ・・・
もう諦めたほうがいいのかしらん・・・
という八方塞がりの中から自力で出て行くことの快感を得るために、パワストくんたちは切磋琢磨して、持ち主本来の力を発揮させてくれるのですからね。

それは、「魔法」ではなくて、「持ち主本来の力」ですので、自分が今現在微塵も持っていない能力を夢想しても、実現しません。

だから、「この石を身につけたとたんにあなたもセレブ!」なんていう、突飛なパワストアクセ、そんなものはこの世にはありません。
「このアクセを身につけたとたんに、昨日までまったくモテなかった普通の地味なコが突然セレブな彼に声を掛けられて、とんとん拍子に来月結婚することに」とかさー、別にそれならそれで結構なことですが、そういう他力本願の中に幸せがあるのだ的信仰、汚染された社会の常識という洗脳から、脱出させてくれるのが、実はパワストたち本来の役割なのだ。
そういう「とんとん拍子」がそのまま続かなくなった時に、その地味なコはどうするのか? また、自分を幸せにしてくれる新たな石を探すのか? 本人の自省、内省はいずこに? でしょ?
まぁ、こんな長文ブログ読んでくださる皆様の中で、そういうあり得ないキャッチコピーを鵜呑みになさる方なんていないとは思いますけれど。

あー、でもすっごいあり得ない幸運っていうのも、人によっては必要かもしれないですね。
そのすごい幸運の中に浸りきって、依存心でいっぱいになれば、それを失わんとする新たな恐怖や不安などの試練との闘いの始まりともなるわけですし。それはそれで、堕落しないためのいい勉強かもしれません。
人間、一度得たものを失うことを恐れる不安感は、もともとそれがない時よりも、倍増するのです。





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カテゴリ :  目標・自信・勇気stone
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ペンジュラムへの質問のしかた

2006年06月26日 (月) 01 : 01
さて、ペンジュラムを先般絶賛した私ですが、間違いなくさいっこうに楽しいです。
楽しい経験続行中。このまま、退職の日までミラクルを続ける予定。

これは要するに「自分に問い、自分が答えている」それだけで、別に「石が答えている」わけではないのですが、あまりにも「うっそぉぉ」な結果を経験し過ぎちゃって、最近は「そうか。自分は知っているわけだ。未来創造をしているのは自分なのだ。」ということと、つまり、世の中に偶然など本当にないのだ、ということに対して、もう、揺ぎない確信しかでてこないです。

ところで。
その「水晶振り子」さんへの質問のしかたですが。
これは、ペンジュラムのことを説明するサイトや、パワスト屋さんなんかでもよく謳われていることですが、必ず「YES、NO」の答えが出る質問に絞りに絞ったほうがいいです。

どうとでも取れるような質問には、どうとでも取れるような答えが帰ってくるか、「答えられませんがな、そんなん。」という動作をします。
つまり、「こうすれば幸せになれるかな?」は駄目です。
内なる自分の幸せの基準と、人間として生き、我欲と外部洗脳である世間一般のジョーシキ的考察に毒されている肉の自分が考える幸せの基準ってのは違いますので、人間的見地からの基準でそういう“幸せという状態”を、内的自分は察知してはくれません。
石の言ったとおりにしたのに、ハズレた。となるのがオチですね。

なので、「願望が未来にどうなるかを尋ねる」というよりは、「こっちか、あっちか」「これか、あれか」など、具体的行動を予定していることについて、つまり、それを聞いたら迷わずそれを選択し、そのように行動することを決めていることについて、尋ねるのがいいと感じます。
そうすると、結果もはっきり分かります。

ペンジュラムによって得られた答えのとおりに行動したのに、結果が得られないケースもあります。
でも、これは自分の「心・言・行」を振り返ってみると、必ずどこかの部分で、その答えのとおりには行動していなかった自分が見つかります。
なぜ、そうしなかったのか? を考察してみると、「恐怖心」や「不安感」「迷い」に負け、臆病な自分が、一瞬ひるんだり逃げたり、何かに気を取られたりして、「実現を拒否」しているのです。
その一瞬の選択で、簡単に未来の結果なんて変わってしまうのです。

私たちの人生というものは、一瞬一瞬の、心の選択の積み重ねなのだ・・・
ということを、本当に実感できますねーーーーーーーー。

私が、外回りのシゴトでペンジュラムに質問するのは、まず朝。
現地に到着し、地図を広げ、「さて、何番地から行くべきか。」です。
これ、本当に不思議ですが、いくつか聞いて、全部YESの答えになることなんてありません。たいてい、いくつか聞いて、何個目かでぐるんぐるん時計回りします。
そして、2回目は休憩をはさんだ後半スタート時。
基本的に、いちいち、何度も何度も道の途中で尋ねたりはしません。きりないですしね。
最近は、具体的物件名までゲットしています。
「この、〇〇ハイツのあたりからですかね?」とか聞いたりすると、すごい勢いで時計回りしてくれるので、そーかい、そーかい、と、にこにこしながらも、実際に行動する段階になった時は、私はそのことを意識していません。
ペンジュラムがそう言ってるんだから、絶対なのだ。までは考えていないです。
しかし、得られた答え、「ここへ行く」という行動を遂行することに関しては、半信半疑な態度は持たないようにしています。

で、実際にその示された場所で「良い結果」を得たあとで、「あ、そういえば、そうだったねー」と、水晶ペンジュラムに御礼を言うことになります。

一度、ペンジュラムの示した場所で、しくじったことがあり、「あー、たぶん今のがソレだったんだー・・・」と、あとで気がついてがっかりしたことがあるんですが、「まぁいいやー。もう、今日は好きなとこ行こ。」と、気の向くままに行動したら、契約者が出現したり。

あれですね、ペンジュラムが示す指針、つまり自分の潜在意識の意のままに動こうということを意識し過ぎても、それはそれで、それを「しくじった時のダメージ」というリスクもありますので、起こってくる物事に対して翻弄されない、という精神力は必要かもしれないです。

何が起こっても面白がれる自分。切れない自分。平然としていられる自分。
ある種の、霊的成長のための試し、忍耐力の強化を経験するケースもままあります。

願望を実現したり、願望を実現するための近道として、確かに「潜在能力の開花」というものは一見お役立ちアイテムのように思えますが、結局この世界で何かを実現し経験するのは「肉の自分の行動いかん」によるものなので、たとえば、予知能力などがいくらあったとしても、それをいったいどう活かすのか? が問われるわけですしね。

でも、今の職場で、もしこの数字の根拠について真面目に「いやー、実はペンジュラムなんですけどね。それとムーンストーンがね、アメジストがね、勘を研ぎ澄ますんですよ。ブラックアクア、キャッツアイクォーツ、ホークアイ、集中力と不動心を生みますわー、あとラピスネバダ、さすが強運石ですわー」とかなんとか言っても、誰にも間に受けてはもらえんでしょうな^^。
「勘が当たるだけです。」とかなんとか、言ってるんだけどね。
まだまだ、パワストの世界は、面と向かって普通の人にまぢで語るにはキビシイですな。



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W杯を振り返る

2006年06月24日 (土) 00 : 30
なんてタイトルで日記をブログに上げている人も多いんだろうなー、と思いつつ。
でも、振り返るもなにも、「あっという間に」終わってしまいましたからね。
現在感じることは、ヘタに「ああしてれば」「ここがこうだったら」という、惜しい要素がほとんど見当たらない3試合だっただけに、まー、さっぱりしたものなのではないでしょうか。

やはり、「勝てる時に勝つ」ことができなかったへたれ試合の初戦、オーストラリア戦がすべてだったのでしょう。6分間のあいだに、3得点を許し、ひっくり返される、という。
逆の立場から見れば、「6分で3得点することは可能なのだ」ということですが、日本代表は、それを学び切れずに、第2戦、第3戦へと続いていったわけです。
試合を重ねるごとに、状況はより困難に難しいものになっていき、ブラジルには、終わってみれば、4得点を献上。ロナウドの記録までプレゼントしちゃいましたし。

これは、まんま、神様からのメッセージなのだと思いました。

今、やれることを、すぐやる。必ずやる。なぜなら、今やれることは、今しかやる時がないからです。
その大切さ。
アタマではいろいろ「やらなきゃ」って思っていても、人間って、先延ばしにしたり、状況のせいにして、できない理由探しばっかりする。
でも、できるんですよね、ホントは。やろうとしていないんです、心底。

それと、これは、ものすごーく彼らを見ていて感じたことなのですが、
「自分はこれだけのことをやってきた」とか、
「自分はこんな思いを過去にしたぶん、いい思いをするべきなのだ」
的な発想は、そろそろ、手放すべき「時節」なんでしょうね。

日本代表になるために経験してきた緊張感や研鑚も、その日本代表として、存分のチカラを発揮できてこそのもの。
4年前に日韓の時に出られなかった、中村選手の身体の不調や、最後に怪我をして途中リタイアした高原選手。
彼らはいわゆる「悔しい思い」を跳ね返し、その「借り」を返してもらわんばかりの、並々ならぬ思いが、この大会にはあったと思います。
しかし、存分に自分の力を発揮する間もなく、結果、また「悔い」を残す結果を得た。

「悔しさをバネに」「ライバルに負けないように」とか、よく言われることですが、これは、途中まではいいんです。
でも、それって、キリがない世界なんですね、実は。

努力とか、生真面目さとか、取り組む姿勢とか、もちろん大事なことなんだけど、(そして、日本という国は、どうもそこを高く評価する傾向がありますし)それは、実は「自分がそうしたくてしている」のでなければ、あんまり意味がないのだと思います。

ブラジル戦の前日の話なのですが、ちょうど、職場の同僚と話をしていて、このことに繋がる実感を得ていたので、余計にそう感じました。

私以外の同僚の営業マンは、すべて男性なのですが、あれですねー、日本人男性っていうのは、本当におばかがつくほど生真面目というかなんというか、彼らは、派遣労働契約に謳われている、「休憩時間一時間」というものを、みなさんほとんど取っていない、のですよ。よくよく話を聞いてみると。
10分、とか、15分くらいしか休んでいないそうだし、外回りのシゴトだけに、休憩といっても、お茶できる店とかがないことも理由ではあるのだけれど、とにかく、ずーっと、その時間を返上して動き続けているらしい。

でもね、それって、「そうすることが楽しくて、そうしたいから」している、というよりは、明らかに「ここまで努力しているという既成事実」をつくるべく行為、そんな感じに私には見えるわけです。
仮に、数字が上がっていなくても、「ここまで自分は努力はしているのです」という痕跡を作っておく、というような。

私は、休憩できる店がちかくになければ、少し遠くてもファミレスとかファストフード店まで行きますし、その往復にかかる時間は、「休憩分」としてカウントしません。
だから、合計1時間半くらいは、自分の休憩のために時間を割いているし、且つ、常に道の途中で小休止も入れている点を考えると、なるほど、自分が他の人たちよりもいつも「足を運ぶ、まわる訪問件数」が圧倒的に少なかった理由が分かりました。

でも、営業成績は? というと、そういう休みを返上して働く彼らよりも、私の方が上なのです。
時間換算、訪問件数にすると、明らかに私のほうが確率論に反した行動をしているにもかかわらず、です。分母が小さい分、いわゆる契約率で言えば、倍くらいの確率になる。

私は、基本的に「数字を追う」ということをしないように、心がけています。
数字は「追うと逃げる」からです。
低調な時の自分を振り返ると、心のどこかで「数字を追って、焦る」自分がいました。
数字は追っちゃいかんのです。「ついてくる」ものなのです。

だから、「数打てば当たる」の、この国の「営業スタイル」には、基本的にずーっと疑問を抱きつつ、そこになるべく迎合しない、自分スタイルでやれるように、うまーく立ち回ることをしています。けっこう、これって疲れるんですけどね。
そういう、猪突盲進とか、頑張っている姿勢を見せることって、日本の会社とか組織はなぜか評価するし、そこに合わせてしまえばラクなのかもしれないのですが、たぶん、それはしない、というより「できない」のです。
言われたとおりのやりたくないことをやっても、それは数字には結びつかないことを、私の潜在意識が知っていますし。
(でも、このシゴト、実は今月いっぱいで辞めることにしました。派遣先には「どうして~?続けてよー」と、残念がっていただきましたが、私的には、「もうここで学ぶことはないな」という思いと、今後このシゴトで食べていく気合いはないからです。)

W杯の日本代表のサッカーを見ていて、
「創造力の欠如」が、どこからもたらされるのか、と思った時、この、「努力だの、頑張りだの、反骨心だの、組織からの評価だの、まわりの期待だの」というものが与えてくれるモチベーションとか、パワーでは、やはり限りがあるのだな、ということを確信しました。

神様ジーコの言う、「自分で考える」創造的なサッカー。
神様は、神様を通して、口酸っぱく教えてくれていたのです。

ブラジル戦終了後、
「負けるときは、負けるがよいぞ。」ひつくの神の言葉がふっと浮かびました。
今回のW杯に関しては、一部の「アカシックが読める方の預言」などでは、日本は大躍進する、という予定などもありました。
そういう未来の選択も、あったはずなのでしょう。
しかし、今、そんな「奇跡」を私たち日本人に見せても、おそらく、ただ奢り高ぶるだけ。本当のプロ意識とは何か? というテーマをまた曖昧にしたまま、浮かれ、喜んで、お終いだったはず。
これで良かったのだと思います。



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カテゴリ :  私の体験(石系 & スピ系)
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