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2006年05月16日の記事のリスト

人生の勝ち負け

2006年05月16日 (火) 02 : 48
ガーネットきつねさんが、5月10日のブログ「身欲信心」につけてくださったコメントを受けて、私が考える「勝ち組」「負け組」の概念のようなものをお話しようかな、と思います。

この言葉は何年か前から、時代を象徴するキーワードのようにもてはやされ始め、「二極分化の時代」を、潜在的に刷り込ませるために出現した言葉だと思います。非常に、意図的な匂いを感じていたのは、私だけでしょうか。
「年収300万円で暮す」だとか、アメリカ同様、「一部の大金持ち」と「多数の貧乏人」を、私達日本人の感覚に徐々に慣れさせるために生まれたキーワードなのではないのかな、と思いました。

現実に、実際にそういった社会が生まれ育ちつつあるようにも見えます。
「悪魔の仕掛け」は今のところ成功しているようです。

私がコメントの中で気になった言葉があります。
今のパワーストーンの流行は、負け組や弱者のためのおしゃれ、地球からのプレゼント、ではないだろうか、という部分。
そうです。もちろん、そういった側面もあるかと思います。
天然石ビーズを使って、自分でアクセサリーを作る。
すごく楽しいし、おまけに、デパートなどで売っている市価の10分の一から3分の一くらいの価格で、「上等なアクセサリ」が誕生します。
ちょっと労を惜しまない気持があれば、ですが。
インターネットのすばらしい恩恵だと思います。

けれど、実はそれだけではないのです。
何しろ、神様から見れば「誰彼ない」のが実態であり、神様は、私達日本人の目からだけ見た「負け組や弱者」のために石をプレゼントしてくれているわけではない。
神様から見ればおそらく、地上に生きる人間の九割までは、「負け組」なんじゃないでしょうか。
魂の永遠性という視点から立って見ると、そういうことになると思います。

でも、そういう見えない世界の「モノは言い様」はなんとなくわかっても、「フリーター」が「落ちこぼれ」であり、「社会不適合者」であるかのような潜在的な思いを既に持ってしまっている方も、もしかしたら私が想像する以上に多いのかもしれない、と、思います。
実際に私達は生きているわけで、お金もかかるし、食べていかなければならない、仕事をしなければならない。死んでからあとのことより、今、自分の生活を向上させたいし、自分を活かせる仕事がしたい。そしてできれば、自分がより満足できるレベルの「実入り」が伴ったものにしたい・・・。
しかし、現実世界では、月収10万円の人もいれば、年収1000万円の人もいる。
安定した職業の筆頭格の公務員のように、未来に渡って身分が保証されているかのような人もいれば、来年のことがわからない人もいる。

「最初は水晶で、最後はダイヤモンドを手にしたらハッピーエンド、というわけではない」というのは、正解でもあり不正解でもある。
私達人間にとって、宝石などの「モノ」は預かり物なのです。
何を手に入れようと、どこまでいっても、厳密には「自分のモノ」などないのです。
自分の身体でさえ、自分のモノのようでいて、自分のモノではないのですから。
そもそも「ダイヤである必要がない」のと、誰もが「みんなと同じモノを目指す」必要もないのと同時に、「誰もが同じモノを目指す」でもかまわないのです。
必ずそこには、それぞれの「分」があり、「身魂相当の」違い、区別が生まれる。

何が、人生の「勝ち負け」に重要なのか。
この、私達それぞれの、「預かりモノ」である自分自身の身体、そして心、持ち物、出会う人たち、自分の「今の仕事」、そういった、誰一人して「まったく同じ」ではない人生のステージに用意していただいた「一瞬、一瞬」を、「自分のために用意されたすべて」として丸ごと受け止めて、その有難さを逃さないどん欲さ、ではないでしょうか。

神様は、「人間が考えた、自由とか平等というものは、方便」といいます。
草木を見れば、わかるであろう、と。
石も同じです。
美しい貴重な宝石質のジェムストーンもあれば、山のように産出されるありふれた石もある。
だけど、それは、一見人間目には「不平等」に見えても、神様から見れば、それは「おのおのの役目」なのです。
ひつくの神のおっしゃる、「手は手、足は足」。

私は、人生における「勝ち組」というのは、自分自身の存在の有難さを知り、より、その役割を楽しみ、満喫できる術を持った人、そして、たいへんくっさい言葉ですが「神様の思い(天地宇宙の法則)に叶った、世のため人のため」を思い、祈り、実際に行動し続けている人のことをいうのではないかな、と思います。
ただ、「世を憂う」のは、誰にでも出来ること。
どんな小さな一見つまらなそうなことでも、自分が損をしているように見えることでも、その中に、必ず自分が担うべき役割や意味が潜んでいるのです。

昔勤めていた会社の男子で、よく自分の立場の愚痴をこぼす人がいました。
そこそこ大きな会社の正社員ですし、年収は想定700万円ぐらいだったんじゃないかな。だけど、とにかく仕事で「ワリを食う」ような役割を回されることが多く、いつもくっら~い顔をして、ホントウに死にたい、とか言っていました。
結婚したお嫁さんに、お給料はがっちり管理され、おこずかいもなし。(ほんとに、ナイんだよ。信じられる?で、嫁はシャネルとか、ブランド好きなの。地獄だよね。)
お昼ごはんは、白飯に魚の缶詰とか食べている姿が、とても痛々しかった。

でも、自分がそういう嫁を選び、そういう会社を選んだ結果なのです。
彼はよく、辞めたい、と嘆いていましたが、そういう愚痴を言う相手は、「ノルマを達成できなければ、会社がいつでもクビを切れる営業マン」である私達。
私は、愚痴を言う相手を間違えてるんじゃないの、と、よく答えていました。
「あなた程度の仕事で“正社員”で身分が保証されて、よくもまぁ、私達みたいな浮き草稼業の奴隷労働者に言えたもんだわよ。」とかね。(けっこうキツイ、嫌味なこと言ってたんだなー、今思うと。)
別の女子などは、「死にたいとか、辞めたい、って言うなら、死ねばいいじゃないですか。辞めればいいじゃないですか。辞めたくなくたって、会社をクビになる可能性が私達にはあるんです。いいかげんにしてください。」

ね。お金を貰っていることが、幸福とは限らない、その一例としては、多少極端かもしれませんけれど、人間なんて、所詮「隣の芝は青い」の生き物なんですよ。
だって、そういう愚痴っぽい男子の愚痴にキツイ言葉を返していた私達だって、当時としては契約社員とはいえ、破格の給料を貰っていて、それを知った社長がみずから「こいつら給料が高過ぎだ」と、のっこんできて^^何度も何度もお給料やインセンティブを下げられたりしていたわけですからね。
(確かに今思うと、今やっている仕事に比較すれば、貰い過ぎだったかもしれない、と思いますわ。知らぬ間に、OL時代には10年かかって貯めた金額くらいの“貯金”ができましたから。でもそれも、会社辞めてほとんど使っちゃいましたけどねー。)

「社会不適合者」という言葉があるからには、「社会適合者」がごろごろいそうなもんですが、神様的目線でのホントウの意味での「社会適合者」なんて、ほとんどいないですよ。金持ちとか、貧乏とか、そういった条件は関係ないのです。
条件や理屈では、そういうものは計れないのです。
お金持ちで素晴らしい人もいれば、卑しい人もいる。
お金持ちじゃなくても素晴らしい人もいれば、卑しい人もいる。

どれだけ、他に奉仕する心を持っているのか。
どれだけ、利他を優先できる生活をしているか。
どれだけ、相互扶助の心で、人の目に映らないところで、実際の行動をできているか。
天地の目線で、私が考える「社会適合者」です。
実際には「社会適合者」など、そんなにたくさんはいない、というのがわかりますよね。
「我良し」の心では、金持ちでも貧乏でも、社会には適合できないのです。


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カテゴリ :  ちょっとスピリチュアルな話
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